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■25893 / inTopicNo.73)  先験的綜合判断について by ニーチェ
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/08/27(Sat) 17:41:35)
    2022/08/28(Sun) 09:51:18 編集(投稿者)

    こんにちは、おくたがわさん。横レス失礼します。
    先験的な総合判断についてニーチェが述べているところを人物索引のカントでニーチェ全集をチェックしてみました。
    おくたがわさんもレスされている通り『善悪の彼岸11番』と、『権力への意志530番』にありました。

    No25835に返信(おくたがわさんの記事)

    > ニーチェの件は、
    > アプリオリな総合判断について『すなわち人間という種の生存を維持するためには、このような判断が真なるものとして信じられる必要があったのはなぜか、ということを理解すべき時期が訪れたのだ!』
    > とありますが、『なぜか、ということ』を実際にどのように理解したのかは書いてなかったです。残念。善悪の彼岸を「アプリオリな総合判断」で検索し周辺を読んだ限りにおいてですが。

    あえて私の読解は述べずに引用だけしておきます。質問があれば私で答えられるものであれば返信させてもらいます。

    『彼は、人間における一つの新しい能力、つまり先験的綜合判断の能力を発見したということに、誇りを抱いていた。彼がこの点で自己を欺いていたとしても、がしかしドイツ哲学の発展とその急激な開花はカントのこの誇りに負うものであり、さらにはできることならさらにより誇らかなものを──何はともあれ〈新たらしい能力〉を発見しようとする後学一同の競争心に負うものなのだ!──しかしわれわれは、とくと考えてみなければならない。そして今がその時なので。「いかにして先験的な綜合判断は可能であるのか?」と、カントは自問した、──それに対して彼が答えたものは、いったい何であったか?ある能力によって(Vermoge eines Vermogens)というのが、その答えであった。だが遺憾ながら、それが実は三語によって簡潔に表現されないで、反対にはなはだもって廻りくどく、しかつめらしく、しかもドイツ的な深刻ぶりと文飾を仰山に使って表現されたので、ひとびとはそうした答えのうちにひそむ滑稽な〈ドイツ的愚直〉を聞き落としてしまった。のみならずひとびとは、この新しい能力を喜ぶあまり有頂天となり、カントがそのうえさらに人間の道徳的能力をも発見するに及んでは、歓呼の叫びは絶頂に達した。…〈中略〉…ひとびとは夢を見ていたのだ、誰よりも先にまず──老カントこそが夢を見ていたのだ。「ある能力によって」──とカントは言った。すくなくとも彼はそう考えた。だが一体これは──答えといえるものだろうか?説明といえるものだろうか?むしろこれは問いの繰り返しにすぎないのではなかろうか?一体いかにして阿片は人を眠りに誘うのか?「ある能力によって」、すなわちvirtus dormitiva(催眠の力)によってである──とモリエールの医者ならば答えるだろう、…〈中略〉…いまや、「いかにして先験的な綜合判断は可能であるか?」というカントの問いに代えて、「なぜそうした判断への信仰が必要なのか?」という別の問いを立てねばならない時になった。──すなわち、われわれごとき生物を保存するために、そうした判断が真理として信じられねばならないということ、それゆえにもちろんそれは誤った判断であっても差し支えないということを、理解すべき時になったのだ!あるいは、もっとはっきりと、むきだしに、手ひどく言うなら、先験的綜合判断なぞ全然〈可能である〉を要しない。われわれは、そうした判断を言い立てる権利などさらさらもっていない。われわれをして言わしむれば、それはまったく誤れる判断である。いうまでもなく、必要なのは判断の真理性への信仰だけであるが、それも前景的信仰かつ外観としての信仰であり、これらは生の遠近法的光学に属するものなのだ。(善悪の彼岸 第11番)』

    『ヒュームは、「ア・プリオーリな綜合判断はなんらない」と説明した。カントは言う、とはいえ、数学的判断こそそれである!と。それゆえ、そうした判断があるとすれば、純粋理性による事物の認識である形而上学もまたおそらくはあるかもしれない!数学は、けっして形而上学を可能ならしめない諸条件のもとで可能となる。すべての人間的認識は、経験であるか数学であるかのいずれかである。或る判断が綜合的であるとは、その判断が多くの表象を結合するということにほかならない。或る判断がア・プリオーリであるとは、その結合が、けっして感性的知覚によってではなく、純粋理性によってのみあたえられるところの、普遍妥当的にして必然的な結合であるということにほかならない。ア・プリオーリな綜合判断があるべきであるなら、理性は結合しなければならなくなるであろう。すなわち、結合するはたらきが一つの形式なのである。理性は形式をあたえる能力をもっていなければならない。(権力への意志 第530番)』

    > 「善悪の彼岸」の中「カント」での検索ヒットが他にも多数あり、ニーチェはカント好きか。
    > 光文社文庫のニーチェの本は読み放題に多数入っているので、カントへの言及を順番に読んでみようかと、試しに「道徳の系譜」で検索したら、メチャ多数ヒットして、やっぱりニーチェはカント好きやろ。

    最初期はカントについて否定的なアフォリズムは少ないのですが徐々にこきおろすようになります。ただ多くの哲学者がそうであったようにニーチェにとってもカントは近代哲学を論ずるには欠かせない大きな存在であったと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■25839 / inTopicNo.74)  パースペクティヴとキュビズム
□投稿者/ パニチェ -(2022/08/25(Thu) 17:11:33)
    2022/08/25(Thu) 17:33:54 編集(投稿者)

    こんにちは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
    私もパースペクティヴで思うところを以下に述べてみます。
    (以下のパースペクティヴはニーチェが述べるところの遠近法とは多少異なります)

    No25786に返信(おくたがわさんの記事)
    >・・・まったく個人的な思い付きですが、(科学的・事実的な客観性についてはちょっとおいて)、
    > 小説・脚本・歌詞、といったものの「客観性」(≒説得力)をこのように考えると面白いかもと。
    > 昨日,yutubeの曲の比較で、作者(関係者)がかけた熱量、覚悟、といったことを考えたので、それと勝手に関連付けて。

    遠近法的な解釈にも無意識的な錯誤や作為が入り込む。
    身近なものほど大きく遠いものほど小さく見える。これは価値の大小にも影響し、身近なものほど重視する発想はニーチェが述べるところの隣人愛、つまり不完全な自己愛の投影となる。
    遠近法的な錯誤を自覚することによって色眼鏡の濃さは透明にならないまでも薄まるということ。

    両眼で見る世界と複眼や魚眼、あるいは超音波で察知する世界とは大きく異なるだろうし、私たちが言うところの客観性は同じ感覚器官を持つ者同士の間で共有できる範囲での客観性であって、その意味において客観性は間主観性に取り込まれる。

    一方、キュビズムは見る角度や視点によって対象がさまざまに観察されることを意味し、遠近法とは全く異なった視点として対象のより客観的あるいは本質的な解釈を可能とする。
    認識の多様性を知ることは見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)を避ける知恵だと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■25786 / inTopicNo.75)  Re[2]: 禁欲主義批判〜道徳の系譜より〜
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/22(Mon) 21:04:15)
    2022/08/22(Mon) 21:53:45 編集(投稿者)

    みなさん、こんばんは。
    「あらゆる苦悩を負い目の遠近法の下に引きずりこんだ。」が今朝読めませんでしたが、今見ると『苦悩を[負い目]の遠近法の下に』ですね。朝はボケてた。

    以下 お二人の話とは違う方向になります。
    ネットにこういうのがあったので読んでみると面白かった
    「(後期)ニーチェにおける真理と自覚 : 生の問題としてのパ
    ースペクティヴィズム」
    https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111E0000013-41-2.pdf

    それぞれの遠近法による解釈があるというのは自分にとってタイムリーに感じた。
    この論文によると、遠近法を自覚することをニーチェは重視したとのこと。

    **
    客観性についてのちょっと意外な(自分にとって)捉えかた。

    論文著者『続いて、パースペクティヴィズムによってニーチェが規定する「客観性」について考察する。
    われわれの視覚のパースペクティヴが、多様であればあるほど、その対象の全体は、より正確
    に捉えられる。それと同様に、対象への関心・情動・欲求などを持てば持つほど、その対象の
    理解の「客観性」は増大する。』

    ニーチェ『〔見るということにおいては〕パースペクティヴ的に見ることだけ、があり、〔認識において
    は〕パースペクティヴ的な「認識」だけがある。われわれが、情動をして発言させればさせるほど
    そしてもろもろの目、さまざまな目をその同じ事物に対して差し向けることができればできるほど
    この事物についてのわれわれの「概念」、われわれの「客観性」は比較的完璧になるだろう。(GMV:§12)』

    著者『もろもろのパースペクティヴによって捉えられた総体として認識の対象の「客観性」が形成さ
    れる以上、この対象は人間的なものであって、われわれから切り離された「対象自体」ではあ
    り得ない。ここに、パースペクティヴィズムと相対主義との違いを見出すことができるかもし
    れない。すなわち相対主義は、もろもろの真理は共約不可能であり認識上の優劣をつけること
    はできない、と主張する。他方でパースペクティヴィズムにおいては、真理の「客観性」の大
    きさによって認識上の優劣が生じ得るのである』

    **
    .o0 情動が客観性を阻害するのではなく高めるということ。

    一方、いわゆる科学的な客観性については

    著者『人間が人間自身の関心・欲求・意志などとは無関係なパースペクティヴ無き認識を持つことができるという考えに
    対して、ニーチェは強く反対する。

    ニーチェ『ここ〔純粋で、無意志の、無苦痛の、無時間的な認識主観が措定されるところ〕では、いつも、まったく考えられ得ない目が要求される、つまり、まったくもって方向を持つべきでなく、そこで見ることがはじめて何かを見ることになるような能動的で解釈的な諸力(Krafte)が阻止されているべきところの目、が要求される、それゆえここではいつも目についての背理と没理(Unterbegriff)が要求されるのである。(GMV:§12』

    著者『このように、「客観性」と言えども徹底的にパースペクティヴ的なものだ、とニーチェは言う。
    そしてこの客観性は、どれほど「比較的完璧」になったとしても、完成されることはない。』

    ******
    まったく個人的な思い付きですが、(科学的・事実的な客観性についてはちょっとおいて)、
    小説・脚本・歌詞、といったものの「客観性」(≒説得力)をこのように考えると面白いかもと。

    昨日,yutubeの曲の比較で、作者(関係者)がかけた熱量、覚悟、といったことを考えたので、それと勝手に関連付けて。
引用返信/返信 削除キー/
■25743 / inTopicNo.76)  ねこ
□投稿者/ パニチェ -(2022/08/21(Sun) 21:22:42)
引用返信/返信 削除キー/
■25727 / inTopicNo.77)  パニチェさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/08/21(Sun) 11:25:31)
    2022/08/21(Sun) 12:32:56 編集(投稿者)

    おはようございますm(__)m

    No.25724(パニチェさん)

    >>ところで、深夜に『苦悩の存在論(Home Patiens)』を段ボール箱からさがして開けてみたら、扉にこんなことが書いてあって萎えました(´;ω;`)ウゥゥ
    >>>…… 苦悩そのものが問題なのではない。「なんのために苦しむのか」という問い叫びにたいして解答がないのが問題なのだ。 F.ニーチェ < No.25722(うましか)


    > ニーチェ著『道徳の系譜 第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するのか?28』ですね。
    > 道徳の系譜の主題的なアフォリズムです。

    *******


    おお! ありがとうございます!!

    私の引用は、V.フランクル『新版 苦悩の存在論 − ニヒリズムの根本問題』(真行寺功 訳、新泉社)からですが、そこに引用元の具体的な提示はありませんでした。(※ ちなみにp.207に、このニーチェの言葉に対してとおもわれる言及がみられましたが引用元はあげていなかったです(;´・ω・))




    > ***** 以下、上記よりの引用 *****
    >
    > 禁欲主義的理想を外にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味ももたなかった。地上における人間の生存には何の目標もなかった。「いったい人間は何のためにあるのか?」──これは答えのない問いであった。人間と大地のために意志が欠けていた。あらゆる大きな人間の運命の背後には、さらに大きな〈無駄だ!〉というリフレーンひびいていた。何ものかが欠けていたということ。巨大な空所が人間をとりかこんでいたということ。まさにこれこそが禁食主義的理想の意味するものなのだ。──人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。人間は自己存在の意味の問題に悩んだ。彼はそのほかにも悩んだ。人間は要するに、一個の悩める動物であったのだ。
    >
    > だが、苦悩そのものが彼の問題だったのではなくて、〈何のために苦悩するのか?〉という問いの叫びに対する答えが欠けていることこそが問題であった。人間、このもっとも勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩そのものを否みなどはしない。いな、苦悩の意味、苦悩の目的(Dazu)が示されたとなれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする。これまで人類の頭上に広がっていた呪いは、苦悩の無意味ということであって、苦悩そのものではなかった。──しかるに禁欲主義的理想は人類に一つの意味を供与したのだ!それがこれまで唯一の意味であった。何であれ一つの意味があるということは、何も意味がないよりはましである。
    >
    > 禁欲主義的理想は、その理想によって苦悩は解釈された。あの巨大な空所はうめられたように見えた。あらゆる自殺的ニヒリズムにたいし扉が閉ざされた。が、この解釈は──疑いの余地もなく──新しい苦悩をもたらした。それは、より深い、より内向的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩であった。その解釈は、あらゆる苦悩を負い目の遠近法の下に引きずりこんだ。・・・が、それにもかかわらず──人間はそれによって救われた。人間は意味をもつにいたった。
    >
    > *********** 引用終り ***********


    ちくま学芸文庫のニーチェ全集11『善悪の彼岸 道徳の系譜』(信太正三 訳)のp.582〜p.583〔『道徳の系譜』、「第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか?」、二十八〕で確認しました。ありがとうございます。

    原典資料もさがしてみました。
    https://www.projekt-gutenberg.org/nietzsch/genealog/geneal03.html



    > 本来は人間の存在や生には何の意味や価値、目的もない。だからこそ、この無垢なるキャンパスに意味や価値、目的を個々人が付与できるから生はディオニュソスかつ躍動的であり、個々人はその主人(創造主)たりうる。

    >
    > にもかかわらず、ある特定民族特有のルサンチマンが意味や目的のないことに苦悩する受動的ニヒリズムに耐えきれず、死後の楽園、あるいは最後の審判という生より重きをおくかのような目的をでっちあげた上で、生に新たな意味や価値、目的を付与した。
    >
    > その代償として生に罪深いもの(原罪)を負わせ、種の存続や生きるために不可欠である本能的なものを否定する禁欲主義的理想が生まれた。そしてこの解決策が「より深い、より内向的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩」を産出し、数千年に及んで人間を呪縛しているといのがニーチェの達観です。

    *******

    ありがとうございます。

    上記引用『系譜』「論文」28のニーチェによれば、人間という動物≠ヘ「風にもてあそばれる一枚の葉のごときもの」だった、と。ただ一方で、自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らず、自己存在の意味の問題に悩む、「一個の病める%ョ物」であったとも。

    では、その病いの病いたる所以とはいかなるものか。それは、そうした苦悩そのものが問題なのではなく、「何のために苦悩するのか?」という問いに答えが欠けている(苦悩の無意味)ことが問題だったこと。しかしニーチェによれば、「禁欲的主義的理想」が人間に意味を与えたことによって、「何もないよりはまし」になった。

    興味ぶかくおもったのは、ここで、「意味」は与えられたものであり、それによって人間はさしあたり「意欲」できるようになり、そのことで救われたのが「意志」(そのもの)なのだという流れでした。たとえそれが与えられた意味に対する反動であったとしても、「人間は何も欲しない≠謔閧ヘ、いっそむしろ」…



    (/・ω・)/そこに虚無はあるんか?



    ではーm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■25724 / inTopicNo.78)  禁欲主義批判〜道徳の系譜より〜
□投稿者/ パニチェ -(2022/08/21(Sun) 08:36:18)
    2022/08/21(Sun) 09:16:10 編集(投稿者)

    おはようございます、うましかさん。横レス失礼します。

    No25722に返信(うましかさんの記事)
    > ところで、深夜に『苦悩の存在論(Home Patiens)』を段ボール箱からさがして開けてみたら、扉にこんなことが書いてあって萎えました(´;ω;`)ウゥゥ
    > >…… 苦悩そのものが問題なのではない。「なんのために苦しむのか」という問い叫びにたいして解答がないのが問題なのだ。 F.ニーチェ <

    ニーチェ著『道徳の系譜 第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するのか?28』ですね。
    道徳の系譜の主題的なアフォリズムです。

    ***** 以下、上記よりの引用 *****

    禁欲主義的理想を外にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味ももたなかった。地上における人間の生存には何の目標もなかった。「いったい人間は何のためにあるのか?」──これは答えのない問いであった。人間と大地のために意志が欠けていた。あらゆる大きな人間の運命の背後には、さらに大きな〈無駄だ!〉というリフレーンひびいていた。何ものかが欠けていたということ。巨大な空所が人間をとりかこんでいたということ。まさにこれこそが禁食主義的理想の意味するものなのだ。──人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。人間は自己存在の意味の問題に悩んだ。彼はそのほかにも悩んだ。人間は要するに、一個の悩める動物であったのだ。

    だが、苦悩そのものが彼の問題だったのではなくて、〈何のために苦悩するのか?〉という問いの叫びに対する答えが欠けていることこそが問題であった。人間、このもっとも勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩そのものを否みなどはしない。いな、苦悩の意味、苦悩の目的(Dazu)が示されたとなれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする。これまで人類の頭上に広がっていた呪いは、苦悩の無意味ということであって、苦悩そのものではなかった。──しかるに禁欲主義的理想は人類に一つの意味を供与したのだ!それがこれまで唯一の意味であった。何であれ一つの意味があるということは、何も意味がないよりはましである。

    禁欲主義的理想は、その理想によって苦悩は解釈された。あの巨大な空所はうめられたように見えた。あらゆる自殺的ニヒリズムにたいし扉が閉ざされた。が、この解釈は──疑いの余地もなく──新しい苦悩をもたらした。それは、より深い、より内向的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩であった。その解釈は、あらゆる苦悩を負い目の遠近法の下に引きずりこんだ。・・・が、それにもかかわらず──人間はそれによって救われた。人間は意味をもつにいたった。

    *********** 引用終り ***********

    本来は人間の存在や生には何の意味や価値、目的もない。だからこそ、この無垢なるキャンパスに意味や価値、目的を個々人が付与できるから生はディオニュソスかつ躍動的であり、個々人はその主人(創造主)たりうる。

    にもかかわらず、ある特定民族特有のルサンチマンが意味や目的のないことに苦悩する受動的ニヒリズムに耐えきれず、死後の楽園、あるいは最後の審判という生より重きをおくかのような目的をでっちあげた上で、生に新たな意味や価値、目的を付与した。

    その代償として生に罪深いもの(原罪)を負わせ、種の存続や生きるために不可欠である本能的なものを否定する禁欲主義的理想が生まれた。そしてこの解決策が「より深い、より内向的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩」を産出し、数千年に及んで人間を呪縛しているといのがニーチェの達観です。

引用返信/返信 削除キー/
■25306 / inTopicNo.79)  Re[20]: 旧・世界基督教統一神霊協会
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/02(Tue) 20:38:04)
    ■25304 、
    >わしに聞くまでもなく辞書でも引いてちょ。わしゃ興味ない。<
    了解で〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■25304 / inTopicNo.80)  Re[19]: 旧・世界基督教統一神霊協会
□投稿者/ パニチェ -(2022/08/02(Tue) 20:32:58)
    2022/08/02(Tue) 20:38:35 編集(投稿者)

    No25301に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■25299 、
    >>知ってるのかどうかは別として、
    > いや、それがわしにとっては大事やってん。<
    >
    > ねえ、パニさんにとって、
    > 〈私は知っている〉っていうことはどういうことなん?

    わしに聞くまでもなく辞書でも引いてちょ。

    わしゃ(そういう言葉尻を捉えたレス交換には)興味ない。



引用返信/返信 削除キー/
■25301 / inTopicNo.81)  Re[18]: 旧・世界基督教統一神霊協会
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/02(Tue) 20:26:26)
    ■25299 、
    > 知ってるのかどうかは別として、
    いや、それがわしにとっては大事やってん。<

    ねえ、パニさんにとって、
    〈私は知っている〉っていうことはどういうことなん?


引用返信/返信 削除キー/
■25299 / inTopicNo.82)  Re[17]: 旧・世界基督教統一神霊協会
□投稿者/ パニチェ -(2022/08/02(Tue) 20:09:34)
    2022/08/02(Tue) 20:17:30 編集(投稿者)

    こんばんは、悪魔ちゃん。以下、思ったことを忌憚なく返信するよ。

    No25283に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > パニさん、
    > >で、悪魔ちゃんはキリスト教や仏教やイスラム教やユダヤ教のことをどの程度知ってるの?<
    > 知ってるのかどうかは別として、

    いや、それがわしにとっては大事やってん。
    大して知らないくせにクソみたいな統一教会とユダヤ、キリスト、イスラム、仏教を味噌糞一緒、十把一絡げにしてクソと言うのはあまりにも軽率ってこと。
    悪魔ちゃんがユダヤ、キリスト、イスラム、仏教を大して知らないと思った理由は以下。

    > わたし、
    > この四つのは「教え」って見てる。
    > で、この「教え」は「ある人間の」、って見てる。

    あまりにも短絡的

    > わたしの調べによると、
    > ユダヤ教(旧約聖書)、キリスト教(新約聖書)で、その人の名は「キリスト」、
    > イスラム教で、その人の名は「ムハンマド」、
    > 仏教で、その人の名は「ゴータマ・シッダッタ」
    > けっきょく、”ある人間に思われたもの”でしかないんだと思ってる。
    > わたしがどうして?って思うのは、そういところ。

    作者不明の旧約聖書はユダヤ、キリスト、イスラム教の共通の聖典。
    で、新約聖書を認めているのはキリスト教とスラム教。
    イスラム教のコーランは確かにムハンマドの言葉や思ったことではあるが、新約についてはどれがキリストの言葉や教えか、あるいはどの程度事実に基づいているかは不明。
    旧約にいたっては世界の神話を寄せ集めて複数の人間は年月をかけて作り上げたフィクションである可能性もある。
    仏教に関してはどれが釈迦の教えであるかは不明。大乗経典も含め、釈迦を起点とはしているが、諸佛典は多くの仏弟子や高僧の学究と修行の成果物。
    だから悪魔ちゃんの「けっきょく、”ある人間に思われたもの”でしかない」ってのは知らないが故のラベリングに過ぎないってこと。ヤハウェやキリストやムハンマドや釈迦らの思われたものが旧約聖書や新約聖書、コーランや佛典と考えるのはあまりに短絡的。

    > あと、
    > >もともとはアニミズム、トーテミズム、シャーマニズムが起こりやろね<
    > なんだけど、『野生の思考』を読んでると、「○○教」とは根本的に雰囲気が違う気がしてる。人間と自然とは共同体、っていうなかから生まれたように見るのね。
    > だから、これらにおいては「超自然」っていう表現が似合ってると思うし、一方「○○教」では「超越的絶対者」っていうのが似合ってるのかもね。

    この〇〇教ってのがユダヤ教を起点とするキリスト教、イスラム教などセム族の啓示宗教、つまり一神教を指すのなら雰囲気が違うというのは同意。
    アニミズム、トーテミズム、シャーマニズムを起点とする宗教は多神教であって、世界各地に自然発生的に生じた民族宗教や土着宗教は延長線上に考えることができるがセム系宗教だけが特殊ということ。

引用返信/返信 削除キー/
■25283 / inTopicNo.83)  Re[16]: 旧・世界基督教統一神霊協会
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/01(Mon) 19:39:53)
    パニさん、
    >で、悪魔ちゃんはキリスト教や仏教やイスラム教やユダヤ教のことをどの程度知ってるの?<
    知ってるのかどうかは別として、

    わたし、
    この四つのは「教え」って見てる。
    で、この「教え」は「ある人間の」、って見てる。

    わたしの調べによると、
    ユダヤ教(旧約聖書)、キリスト教(新約聖書)で、その人の名は「キリスト」、
    イスラム教で、その人の名は「ムハンマド」、
    仏教で、その人の名は「ゴータマ・シッダッタ」

    けっきょく、”ある人間に思われたもの”でしかないんだと思ってる。
    わたしがどうして?って思うのは、そういところ。

    あと、
    >もともとはアニミズム、トーテミズム、シャーマニズムが起こりやろね<
    なんだけど、『野生の思考』を読んでると、「○○教」とは根本的に雰囲気が違う気がしてる。人間と自然とは共同体、っていうなかから生まれたように見るのね。
    だから、これらにおいては「超自然」っていう表現が似合ってると思うし、一方「○○教」では「超越的絶対者」っていうのが似合ってるのかもね。





引用返信/返信 削除キー/
■25275 / inTopicNo.84)  Re[15]: 旧・世界基督教統一神霊協会
□投稿者/ パニチェ -(2022/07/31(Sun) 21:05:38)
    No25266に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >悪魔ちゃんはキリスト教や仏教やイスラム教やユダヤ教がどんな宗教か知ってんの?<

    > パニさん、

    > 「宗教」ってなあに?

    Wikipediaでも辞書の定義でもいいんやないかな。

    ******* 以下はWikipediaより引用 *******

    宗教(しゅうきょう、(英: religion)は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり[1]、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである[2][3]。

    ************* 引用終わり *************

    で、悪魔ちゃんはキリスト教や仏教やイスラム教やユダヤ教のことをどの程度知ってるの?

    > なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」、としている[4]。

    うん、それでもいいと思うよ。
    もともとはアニミズム、トーテミズム、シャーマニズムが起こりやろね。
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