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■27494 / inTopicNo.37)  Re[10]: 大乗と上座
  
□投稿者/ 田秋 -(2022/11/15(Tue) 14:59:48)
    2022/11/15(Tue) 15:20:55 編集(投稿者)

    こんにちは、bwv602さん

    こちらに戻ってからは、何回かは日フィルへエキストラとして行きましたが、基本、こちらでアマチュアの方々のお手伝いをしたり、お弟子さんを少し教えたりしています。自分のお稽古は特に本番がなくても続けています。
    想像してみてください。5歳から60年以上関わってきたものとは簡単にオサラバはできないのです。

    バッハはバイオリンの為にソロソナタとパルティータを3曲ずつ残しています。又、チェロの為に6曲の組曲を残しています。本当に幸運なことに、禍を転じて福と為すの、これ以上の見本はないと思うのですが、バッハがビオラの為に独奏曲を書かなかったばかりに上のバイオリンとチェロ、合わせて12曲はビオラのレパートリーになっているのです。
    尤もバイオリンやチェロはビオラなど歯牙にもかけていないので、「領域侵犯だ!」などという世知辛いことは言いません。無視しています。

    上に示したバッハを練習するときは、現代の奏法で練習します。シンフォニックオケにいるとピリオド奏法(古楽器の時代による奏法)による演奏をする機会は非常に少ないと言えます。奏法等が全く違うからです。ピッチも今は半音高くなっているので、それに慣れていると大変困惑することがあります。音だけを聴いていれば、そういう調だと思えば(例えばブランデンブルクの6番は変ロ長調ですが、それが半音低いイ長調に聞こえても)それほど困りませんが、楽譜のドの音を弾いたら半音低いシの音が出ると頭が混乱します。絶対音感がなければ良いのですが、幸か不幸か身についてしまっているので、本能的に「違う」と思ってしまうのです。

    半音下げて弾く方法は二つあります。一つは調弦自体を半音下げる、もう一つは調弦はそのままでドはシだ!と読み替える方法です。どちらもキツいです。そんなことをするくらいなら、ピリオド奏法は止めにして現代の奏法で弾く方が何倍も楽です。

    ピリオド奏法の方々は現代奏法も勿論こなせます。最初は普通に勉強したはずですから。ではなぜボクには出来なくて彼らには出来るのか?これはもう「そういう音楽が好きだ!」によるのだと思います。好きこそものの上手なれ、です。
    ひとつ、ピリオド奏法をしない派を擁護するなら、「進化した結果が今なのだ」ということはあると思います。

    以上の理由からボクはピリオド奏法の、ピッチを変更する演奏はしたことありません。ピリオド奏法風、なんちゃってピリオド奏法は、指揮者の要望で演奏したことはありますが、大抵はあまりうまくいきません。多くの演奏者がなんちゃってピリオド奏法だからです。そう簡単に見よう見まねで出来るモノではないのですね。

    掲載した写真は、ブランデンブルクの3番を現代奏法で演奏したときの写真です。下の写真のコントラバスの横で弾いているオッサンがボクです。

    調弦に関する逸話
    モーツァルトのバイオリンとビオラとオケのためのシンフォニックコンツェルタンテは変ホ長調です。モーツァルトはビオラのパート譜をニ長調で書きました。そして調弦を半音高くするのです。どういうことかというと、ニ長調の楽譜を弾くと調弦が半音高くなっているので出てくる音楽は変ホ長調になるのです。

    そうする理由は二つあり、一つは調弦を高くすることによって弦の張りが強くなり、張りのある音が出ること、もうひとつはニ長調の方が弾きやすいのです、アタマの混乱を除けば。。。
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■27491 / inTopicNo.38)  ブログ
□投稿者/ みのり -(2022/11/15(Tue) 11:58:17)
引用返信/返信 削除キー/
■27490 / inTopicNo.39)  Re[10]: 気づきの空間
□投稿者/ みのり -(2022/11/15(Tue) 11:40:34)
    No27482に返信(bwv602さんの記事)

    bwv602さん、レスありがとうございます。

    > そうですね。仏教でサンガと呼ばれる仏教教団がとても重視されているのもそういうところに理由があるのだと思います。

    bwv602さんは、現在、オンラインなども利用されて修行されているのですか?
    私は、ツィッターでプラユキさんをフォローさせてもらい、言葉を拝見したりしています。
    まだ、例えばYouTubeなどで肉声をお聞きしたことはないのですが、慈愛のある優しい方のようなので、動画で探してみようかなとも思っています。

    > とはいえ、世間で働かざるを得ない身としては、仕事上の「イライラ」とか「怒り」とか「慢心」などの感情にとらわれがちなので、「気づき」によってそれらの感情にハマり込まないようにすることも、良い修行になると思っています。1年ほど前に私がスカトー寺流の修行を始める前と比べれば、感情へのハマり込みが少なくなっているのを実感しています。少しずつですが。

    ストレスのかかるはずの場面での実感が感じられるのは、きっととても励みになりますよね。
    続けてこられた効果でよかったですね。^^
    私は現在、専業主婦なので、働いて来る旦那さんや子どもが帰って来て安らげる空間を作るようにしなければ・・、と。
    目新しいおいしいお料理を作ろうっと。

    > 幸いスカトー寺のお坊さんたちは「少しずつ、少しずつ」で良いということを強調しているので、それが励みになります。
    > プラユキさんへのカムキエン師のアドバイスも私の励みになっているので、それを引用します。(「タム・レンレン」は「遊び心で、期待せずに」というような意味だそうです。)
    >
    > 「ユキ(私の名)、タム・レンレンでな。空腹感や欲、いらだちや焦り、そのような感覚や感情、また思考が生じてきても、あるいはそういったものにわれを忘れてしまっても、マイペンライ(気にしなさんな)。『ありがとう』と言って、そこから学ばせてもらえばいいんだぞ。」 「ユキ、何度でも思考や感情にとらわれていっていいんだぞ。そうすればまた何度でも気づき、われを取り戻すという機会も増えるからな。」

    プラユキさんでも思考や感情にとらわれてしまうことがあるのだなぁ、というのがまず何か安心しますよね。
    そして、師の言葉が温かいです。


    > はい。
    > カムキエン師は、湧き出てくる思考や感情を、心と身体の「症状」として観なさいと言っています。そして心と身体の「症状」として観ることができれば、それらの思考や感情にハマリ込むことはないと言っています。

    第三者的に「症状」として観てみる、ということなのだろう、と思いました。
    動揺、怒りを感じる時に、鼓動が早くなったり、喉が締め付けられる感じ、肩に力が入ったりするのは、防衛本能という自然の働きでそれが出ているのだな、と感じればいいのでしょうね。
    動物が怒ると毛が逆立ったりするように。

    > 例えば「イライラ、イライラ」という感情にハマり込んでいる人も、もし気づきの力が高まれば、「イラ」で気づけるようになり、もっと高まれば「イ」で気づけるようになる・・・とプラユキさんが言っていました。

    そんなふうになれるととてもラクですよね。

    > そうなんです。社会に実践的に関わっていく姿勢はお弟子さんたちにも受け継がれていると思います。プラユキさんはオンラインの個別相談会を頻繁におこなっていて、誰でも気軽に相談できるようです。
    > カムキエン師は8年ほど前に亡くなり、今の住職はパイサーン師という方で、副住職がプラユキ師とスティサート師の二人だと思います。スティサート師の法話が分かりやすいので、私はスティサート師の法話を中心に学んでいます(浦崎雅代さんという方がスカトー寺の法話を和訳して毎日アップしているのでそれを購読しています)。

    パイサーン師というお名前も調べた際に出て来たので、疑問だったのですが、そういうことだったのですね。

    スカトー寺の法話というのは、ブログにアップされているのですか?
    調べたらブログもあったように思うのです。そして、その浦崎さんという方のお名前がそこにあった記憶があります。
    それともオンラインですか?  もしブログなら私も試しにといったらなんですが拝見したいです。
    お寺の名前でもう一度検索してみようかな。
    オンラインまでは考えていないので。。


    >>プラユキさんが、「オープンマインドでいるとラク」と言われていたのが印象に残っています。
    >>この、オープンマインドというのは、自我でそうあろうと努めるものではなく、青空や気づきという私たちのもともとの性質から表れてくるものなのかもしれない、と感じています。
    >
    > なるほど。
    > この前みのりさんは瞑想について、力を抜いて座ると書かれていましたが、その「力を抜いて」というのが重要なのだと思います。力を抜いてリラックスすることによって、それまで固執していた「自我」が自然に手放され、そして自我が手放されることによって、「青空」という場、あるいは「気づきの空間」という場に立つことができるのではないでしょうか。

    私もそのように感じます。

    =====
    「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
     「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」

    正法眼蔵の生死の巻から。

    仏教にとてもお詳しいのだなぁ、と投稿を拝見して感じさせていただいています。
    私はほとんど知らないぐらいなのですが、この道元禅師の言葉に心がとても動かされたのは忘れられません。
    正法眼蔵は、解説本しか読んでいないので、お恥ずかしいのですが。。

    仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

    特にこの部分。
    仏(大いなるもの、はたらきと言ったらいいか)は待っているのだからなげいれていいのだよ、そして、自分の要らないもの(余計な思考や感情)から自由にラクになりなさい、と言ってくれているのだと自分なりに感じた時には涙が止まらなくなったのでした。
    分かりやすく言うと、どんな人でも肯定されているのだから、後は少しずつがんばりなさい、というような感覚です。
引用返信/返信 削除キー/
■27485 / inTopicNo.40)  Re[8]: 正法眼蔵
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/14(Mon) 21:41:44)
    こんばんは、パニチェさん。

    > 有時も悟りのことを(言葉にできないところも行間に含め)説明しているのだと思います。
    > 実相としての空間には自他の境界などない、一即一切一切即一(一がそのまま全体であり、全体がそのまま一)であり事事無礙法界(自己も含めた現象界の一切の事象が互いに作用し合い,妨げるものなどなく融即している)である(そこにあるのは全体運動であるが故に無常であるということ)。同様に時間にも過去や現在、未来などという分別などなく瞬間(刹那あるいは而今)に全時間が、また全時間は瞬間に融け込んでいる(自他も過去・現在・未来も言葉によってラベリングされることで実相が分断されているだけである)。そしてこの時と存在も融合しており、それを有時即ち悟りと呼び、悟りは全時間全空間そのものの実相のことである、と(今のところは)解釈してます。

    なるほど。とても華厳哲学的ですね。
    ずっと以前ですが、私は井筒俊彦氏の著作で華厳哲学を学び、理事無礙、事事無礙についての井筒俊彦氏の詳しい解説にとても感銘を受けました。

    ところで、仏教でパニチェさんが一番影響を受けた僧侶や研究者、あるいは好きな人はどのあたりですか? また、今私はスカトー寺の修行を知って自分に合った修行に出会えたと思っていますが、パニチェさんは修行についてはどのような考えをお持ちですか?


    > そうなんですね。私は永井均氏の著書を読む遥か以前、幼少の頃より〈私〉を意識しており、知らぬ間に探究していました。今ではライフホビーみたいなものとなっています。bwv602さんは永井均氏の〈私〉についてどのような感想というか見解をお持ちですか?

    そうなんですか。
    私も小学生の頃、(今振り返って哲学的に言語化すれば)「意識しつつある意識を意識することはできない」とか「見ている目を見ることはできない」という〈実存〉の問題の不思議さをよく感じていました。小学校からの帰り道に一人で歩きながら考えていたのをよく覚えています。
    その「意識しつつある意識」は、捕まえようとすると「意識しつつある意識」ではなくて「意識された意識」に変貌してしまい、いつもその背後に本当の「意識しつつある意識」が現れる・・・その繰り返しで、どこまでいってもその「意識しつつある意識」を捕まえることができない・・・そういう目まいのするような無限後退を不思議に思い、また楽しんでいました。(私が大学で実存哲学を学ぶことになったのは、そういう小学生の時の体験とつながっているのかも知れません。)

    私が永井均さんの〈私〉について知ったのは、西洋の〈実存〉の思想を学んだ後のことです。永井均さんの〈私〉は西洋哲学の〈実存〉に似ているけれども、その違いはどこにあるのか・・・私はそのへんがよく分かっていません。
    永井均さんの本で最後までちゃんと読んだのは『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』です。この本はとても面白かったです。この本の中にも、目まいのするような無限後退の話がでてきますね。たしか地図の中の像の話だったでしょうか。
    私は西田幾多郎もあまり読んでいないので、この本の内容が西田幾多郎の思想に忠実に書かれているのか、それとも永井均さんの思想に相当引き寄せて書いているのかがよく分かりませんが、この本の内容は永井均さんの〈私〉の思想に近いのでしょうか?

    > 覚者の言葉を借りれば、悟っても悟らなくても私たちの存在そのものが既に悟りであって、それに気づくか気付かないかの違いでしかないとのことでした。参考までに。。。

    「無限なるもの」は、どこか彼方に求めるべきものではなく、凡夫であっても既にその「無限なるもの」そのものだということですね。つまり煩悩即菩提。大乗仏教の特徴ですね。
    ただこれは、仏の視点からのみ言い得ることであって、凡夫の視点から言い得ることではないという点は重要だと思います。凡夫の視点から煩悩即菩提を言ってしまうと、安易な現実肯定に陥り、修行の必要性が見失われてしまいます。
    仏の視点と凡夫の視点は両方必要であり、その両方から複眼的に見ることが必要なのではないかと私は思っています。
    前の話の流れでいえば、一照さんの「無限なるものに触れる」アプローチは仏の視点に重点を置いた見方で、スカトー寺流「現実に即して」のアプローチは凡夫の視点に重点を置いた見方。その二つの見方の一方に偏りすぎると危ないと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■27484 / inTopicNo.41)  Re[9]: 大乗と上座
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/14(Mon) 21:36:23)
    こんばんは、田秋さん。

    > 日本フィルハーモニー交響楽団というオーケトラに30年間所属していました。楽器はビオラです。

    そうなんですか。
    今も演奏なさるんですか?

    バッハの曲でヴィオラが思い浮かぶのはこの曲です。田秋さんもきっとこの曲を演奏されたのではないでしょうか。
    https://youtu.be/8RaGcWX5mrU
    これはかつてはバッハの演奏で定評があったカール・リヒター指揮の演奏ですが、その後、古楽器(オリジナル楽器)隆盛の時代がやってきて、古楽器の演奏を聴き慣れた私の耳には、リヒターのモダン楽器の演奏は今はずいぶん重たく聴こえます。

    日本でも、鈴木雅明さんのバッハ・コレギウム・ジャパンは、とても美しい演奏をしますね。
    古楽器演奏の隆盛は、田秋さんの音楽活動に何か影響がありましたか? とくに影響はなかったですか?

    バッハの受難曲やカンタータを聴いていてとくに印象的な楽器は、オーボエとヴィオラ・ダ・ガンバです。ヴィオラも渋いけど、ヴィオラ・ダ・ガンバは渋いですね。
    https://youtu.be/AOoe8K1yj50
    オーボエも好きな楽器です。
    https://youtu.be/EgQz899oW_8

引用返信/返信 削除キー/
■27482 / inTopicNo.42)  Re[9]: 気づきの空間
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/14(Mon) 21:32:52)
    こんばんは、みのりさん。

    > > そしてその思考や感情から外に出ることができると、思考や感情から自由になれますね。

    > 本当、そうですよね。
    > それと同時に、とらわれてしまうような状況を作り出さない、そうしたものからは離れるようにいつもしているというのも大切なのだと思います。

    そうですね。仏教でサンガと呼ばれる仏教教団がとても重視されているのもそういうところに理由があるのだと思います。
    とはいえ、世間で働かざるを得ない身としては、仕事上の「イライラ」とか「怒り」とか「慢心」などの感情にとらわれがちなので、「気づき」によってそれらの感情にハマり込まないようにすることも、良い修行になると思っています。1年ほど前に私がスカトー寺流の修行を始める前と比べれば、感情へのハマり込みが少なくなっているのを実感しています。少しずつですが。
    幸いスカトー寺のお坊さんたちは「少しずつ、少しずつ」で良いということを強調しているので、それが励みになります。
    プラユキさんへのカムキエン師のアドバイスも私の励みになっているので、それを引用します。(「タム・レンレン」は「遊び心で、期待せずに」というような意味だそうです。)

    「ユキ(私の名)、タム・レンレンでな。空腹感や欲、いらだちや焦り、そのような感覚や感情、また思考が生じてきても、あるいはそういったものにわれを忘れてしまっても、マイペンライ(気にしなさんな)。『ありがとう』と言って、そこから学ばせてもらえばいいんだぞ。」 「ユキ、何度でも思考や感情にとらわれていっていいんだぞ。そうすればまた何度でも気づき、われを取り戻すという機会も増えるからな。」


    > > 私は瞑想を始めた頃、思考が湧き出てくるのが止まらないことに驚きました。本当はいつも思考や感情は湧き出ているのだけれども、普段はそれを自覚していないだけなんですよね。

    > いろんな思い・・・言語化されていたりいなかったり・・が、絶えずのようにわき出ているのですよね。

    はい。
    カムキエン師は、湧き出てくる思考や感情を、心と身体の「症状」として観なさいと言っています。そして心と身体の「症状」として観ることができれば、それらの思考や感情にハマリ込むことはないと言っています。


    > > スカトー寺の修行は、思考や感情が湧き出してくる時に瞬時にそれに気づくこと、そのスピードをとても重視しています。

    > そうなんですね。 広げてしまわないうちに気づきましょう、ということなのかなと想像しました。

    その通りです。
    例えば「イライラ、イライラ」という感情にハマり込んでいる人も、もし気づきの力が高まれば、「イラ」で気づけるようになり、もっと高まれば「イ」で気づけるようになる・・・とプラユキさんが言っていました。

    > カムキエンさんは、農村の人々の暮らしを良くする手助けもずっとされてきた方なのですね。

    そうなんです。社会に実践的に関わっていく姿勢はお弟子さんたちにも受け継がれていると思います。プラユキさんはオンラインの個別相談会を頻繁におこなっていて、誰でも気軽に相談できるようです。
    カムキエン師は8年ほど前に亡くなり、今の住職はパイサーン師という方で、副住職がプラユキ師とスティサート師の二人だと思います。スティサート師の法話が分かりやすいので、私はスティサート師の法話を中心に学んでいます(浦崎雅代さんという方がスカトー寺の法話を和訳して毎日アップしているのでそれを購読しています)。


    > プラユキさんが、「オープンマインドでいるとラク」と言われていたのが印象に残っています。
    > この、オープンマインドというのは、自我でそうあろうと努めるものではなく、青空や気づきという私たちのもともとの性質から表れてくるものなのかもしれない、と感じています。

    なるほど。
    この前みのりさんは瞑想について、力を抜いて座ると書かれていましたが、その「力を抜いて」というのが重要なのだと思います。力を抜いてリラックスすることによって、それまで固執していた「自我」が自然に手放され、そして自我が手放されることによって、「青空」という場、あるいは「気づきの空間」という場に立つことができるのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■27449 / inTopicNo.43)  ビオラ
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/12(Sat) 09:34:09)
    2022/11/12(Sat) 10:08:22 編集(投稿者)

    横レス御免!^^

    No27392に返信(田秋さんの記事)

    > 日本フィルハーモニー交響楽団というオーケストラに30年間所属していました。楽器はビオラです。バイオリンよりも少し大きくバイオリンと同様に顎に挟んで演奏する楽器です。今の天ちゃんがお弾きになる楽器です。

    > いじられキャラ的な楽器で、バイオリンからは押さえつけられチェロからは突き上げられます。両方から「(もっと弾いて!」と叱咤(叱責)されながら、「あんたらはええなあ。キーキーゴーゴー弾きまくれて」といじいじしています(半分本当です)。

    本当が半分としても面白い!笑顔になりますた。
    田秋さんのこういう表現って大好きです。^^

    > ボクとニークラとのお付き合いは、まだ日フィル在団中、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」の曲目解説を書くことがあって、その時このHPを見つけ、色々質問して話を伺ったのがきっかけです。

    あの大阪弁交じりの曲解説も面白かったです。大笑いしました。
    哲学に興味のない人も楽しんで読める解説でしたね。

    > 今は退職し田舎で畑の草取りと簡単な農作業と放送大学の学生をする暮らしです。

    なんかバラモンの遊行期みたいでいいですねぇ〜。


    No27443に返信(田秋さんの記事)
    > 研究所24を設置して頂きありがとうございます。

    どういたしまして♪^^
引用返信/返信 削除キー/
■27448 / inTopicNo.44)  正法眼蔵
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/12(Sat) 09:23:07)
    おはようございます、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No27383に返信(bwv602さんの記事)
    >>実践優先ですね。

    > はい。今は実践優先ですが、今から3年前に瞑想を始めるまでは、その真逆で、修行らしいことは全くしないで本を読んでいました。今から8年ぐらい前に、仏教をちゃんと勉強してみようと思い立ち、『大乗起信論』や『中辺分別論』などの論書を時間をかけて繰り返し読んでいました。
    > あと数年瞑想を続けたあとに、また読み直してみようと思っています。それらの論書は、瞑想体験に基づいて書かれていると言われるので、以前読んだ時は理解できなかった箇所も、分かるのではないかと期待しています。

    聞くところによると、そうみたいですね。底が抜けることで体得する佛智もあるようです。

    >>道元禅師の「正法眼蔵 有時」は読まれたことがありますか。ハイデガーの「存在と時間」と同じテーマを扱っています。

    > はい。『正法眼蔵』はそこそこ読みました。「有時」も読みましたが難解ですね。
    > 「有時」の中にはたぶん〈無常〉という語は出てこなかったと思いますが、これは〈無常〉について書かれているのだろうな、と私は思いました。
    > 時間と空間は、カントが言うような「形式」、あるいは「器」のようなものとしてあるのではなく、〈今ここ〉の時空の連なりが〈無常〉という時空であり、その〈無常〉そのものが〈有=時〉なのであって、それ以外には何も無い(過去も未来もない)・・・ということなのかな、という大雑把な感想です。

    正法眼蔵も読まれているんですね。私も全巻ではないですが主要巻は現代語訳付の解説書で読みました。
    上記のbwv602さんの読解にほぼ同意です。ちなみに私は以下のように解釈してます。

    有時も悟りのことを(言葉にできないところも行間に含め)説明しているのだと思います。
    実相としての空間には自他の境界などない、一即一切一切即一(一がそのまま全体であり、全体がそのまま一)であり事事無礙法界(自己も含めた現象界の一切の事象が互いに作用し合い,妨げるものなどなく融即している)である(そこにあるのは全体運動であるが故に無常であるということ)。同様に時間にも過去や現在、未来などという分別などなく瞬間(刹那あるいは而今)に全時間が、また全時間は瞬間に融け込んでいる(自他も過去・現在・未来も言葉によってラベリングされることで実相が分断されているだけである)。そしてこの時と存在も融合しており、それを有時即ち悟りと呼び、悟りは全時間全空間そのものの実相のことである、と(今のところは)解釈してます。

    > 『正法眼蔵』の中では私は「生死」の巻が好きです。「生死」の巻の内容は、ニーチェの運命愛の思想に通じると感じます。

    なるほど!これは面白い視点ですね。確かに「生死」の巻の内容は、全肯定に至るニーチェの運命愛に通じます。
    おそらくニーチェは永劫回帰を受胎したシルヴァプラナ湖畔で仏教的な「悟り」にかすったのだと思います。

    > 私もその本で一照さんを知り、今から4年ほど前に、一照さんが住職をつとめるネット上のお寺「磨せん寺」(「せん」の漢字が文字化けするので平仮名にしました)に半年ほど在籍していました(検索しても出てこないので、今はもうないのかも知れません)。「オンライン坐禅会」も「リアル坐禅会」もあったのあに、私は一度も坐禅をしませんでしたが・・・
    > 「〈仏教3.0〉を哲学する」パートUの方は読んでいなかったので昨日購入しました。

    そうなんですね。私は永井均氏の著書を読む遥か以前、幼少の頃より〈私〉を意識しており、知らぬ間に探究していました。今ではライフホビーみたいなものとなっています。bwv602さんは永井均氏の〈私〉についてどのような感想というか見解をお持ちですか?もしよかったら教えて下さい(議論を前提とした問いかけではありません)。

    > 私はこれからもスカトー寺流の修行を続けていくと思いますが、その一方では、例えばとても体調が悪い時とか、自力ではどうにもならない事態に直面した時(最近では愛猫の死に直面した時)などは、「無限なるものに触れる(無限なるものに抱かれる)」ところに救いがあると感じます。

    底が抜ければ生死は超越するんでしょうね。生死を超越したところに涅槃寂静があるんだと思います。
    ただ覚者の言葉を借りれば、悟っても悟らなくても私たちの存在そのものが既に悟りであって、それに気づくか気付かないかの違いでしかないとのことでした。参考までに。。。

引用返信/返信 削除キー/
■27392 / inTopicNo.45)  Re[8]: 大乗と上座
□投稿者/ 田秋 -(2022/11/08(Tue) 12:08:22)
    こんにちは、bwv602さん

    >田秋さんは音楽の専門家ということですが、どういうご専門なのですか?
    日本フィルハーモニー交響楽団というオーケストラに30年間所属していました。楽器はビオラです。バイオリンよりも少し大きくバイオリンと同様に顎に挟んで演奏する楽器です。今の天ちゃんがお弾きになる楽器です。

    いじられキャラ的な楽器で、バイオリンからは押さえつけられチェロからは突き上げられます。両方から「(もっと弾いて!」と叱咤(叱責)されながら、「あんたらはええなあ。キーキーゴーゴー弾きまくれて」といじいじしています(半分本当です)。

    ボクとニークラとのお付き合いは、まだ日フィル在団中、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」の曲目解説を書くことがあって、その時このHPを見つけ、色々質問して話を伺ったのがきっかけです。

    今は退職し田舎で畑の草取りと簡単な農作業と放送大学の学生をする暮らしです。
引用返信/返信 削除キー/
■27389 / inTopicNo.46)  Re[8]: 気づきの空間
□投稿者/ みのり -(2022/11/08(Tue) 08:26:36)
    bwv602さん、レスありがとうございます。

    No27385に返信(bwv602さんの記事)

    > その通りですね。
    > そしてその思考や感情から外に出ることができると、思考や感情から自由になれますね。

    本当、そうですよね。
    それと同時に、とらわれてしまうような状況を作り出さない、そうしたものからは離れるようにいつもしているというのも大切なのだと思います。

    > そうですね。
    > 私は瞑想を始めた頃、思考が湧き出てくるのが止まらないことに驚きました。本当はいつも思考や感情は湧き出ているのだけれども、普段はそれを自覚していないだけなんですよね。

    いろんな思い・・・言語化されていたりいなかったり・・が、絶えずのようにわき出ているのですよね。

    > スカトー寺の修行は、思考や感情が湧き出してくる時に瞬時にそれに気づくこと、そのスピードをとても重視しています。

    そうなんですね。 広げてしまわないうちに気づきましょう、ということなのかなと想像しました。


    >>「気づきの空間」ということは多分、定着して、それは自分という範囲を超えたものなのだという知的理解が中途半端な感じにあるのが、自分の現時点だとは思っています。
    >
    > その「自分という範囲を超えたもの」ということは、重要なことだと思います。
    > パニチェさんが紹介された「〈仏教3.0〉を哲学する」(パート1のほう)の中に、「瞑想の主体とはなにか」という節があります。瞑想の主体は普段の私ではないという共通理解のもとに対話が進んでおり、その中で山下良道さんは、瞑想の主体は「青空としてのわたし」だと言っています。

    『青空としてのわたし』のほうは以前読みました。
    やはり、今、書いていただいてるのと同様の記述がありました。

    > スカトー寺のカムキエン師もそれに似たことを言っているので少し引用します。
    > 「何ものかになる必要はありません。何ものかの上にいる。まるで肩車に乗っているかのように。
    > 肩車に乗ったら、疲れないでしょう? 気づきも私たちを疲れさせることはありません。
    > 自分自身を感じて、気づいていくことは雲の上にいるのと同じようなことです。雲の上では、雨や風や雷などは起こらないでしょう? それらは雲の下。
    > 雲の上は穏やかで静かです。
    > 幸せにも、苦しみにもはまっていきません。
    > 得たとか、失ったとかもなく、正しいとか、正しくないとかもなく、ただただ気づきがあるだけです。」

    スカトー寺について少し調べました。
    タイの森林地域にあるお寺で、日本人のプラユキ・ナラテボーさんが副住職をされていて、カムキエン師という方が住職をされているのですね。
    そして、カムキエンさんは、農村の人々の暮らしを良くする手助けもずっとされてきた方なのですね。
    瞑想として、触れられている歩行瞑想、それと手動瞑想というのも調べたら出てきました。

    カムキエン師のおっしゃっている気づきと、山下良道さんの「青空としてのわたし」は、同じなのだろうと感じました。

    私のトピに非二元のルパートスパイラさんの動画を貼ったのですが、そこで言われている、そして私がタイトルにした「気づきの空間」も同じなのだろうと思います。
    気づきの空間は、どんなことものに対しても開かれていて、それが私たちの本性なのだ、というのを語っています。

    最近、偶然、プラユキ・ナラテボーさんと藤田一照さんが、小乗と大乗の垣根を超えるというタイトルだったかな、で対談されたのを読みました。
    そこでプラユキさんが、「オープンマインドでいるとラク」と言われていたのが印象に残っています。
    この、オープンマインドというのは、自我でそうあろうと努めるものではなく、青空や気づきという私たちのもともとの性質から表れてくるものなのかもしれない、と感じています。
引用返信/返信 削除キー/
■27385 / inTopicNo.47)  Re[7]: 気づきの空間
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/07(Mon) 19:56:49)
    こんばんは、みのりさん。

    > 思考や感情が自分自身だと思い生活していると、それに飲み込まれたり振り回されたりしがちで苦しいです。

    その通りですね。
    そしてその思考や感情から外に出ることができると、思考や感情から自由になれますね。

    > ただただ頭の中のいろいろな考えって勝手に流れていくんだなぁ、自分で考えようとしているわけではないんだなぁ、というようなことに気づいたのです。

    そうですね。
    私は瞑想を始めた頃、思考が湧き出てくるのが止まらないことに驚きました。本当はいつも思考や感情は湧き出ているのだけれども、普段はそれを自覚していないだけなんですよね。
    スカトー寺の修行は、思考や感情が湧き出してくる時に瞬時にそれに気づくこと、そのスピードをとても重視しています。

    > 「気づきの空間」ということは多分、定着して、それは自分という範囲を超えたものなのだという知的理解が中途半端な感じにあるのが、自分の現時点だとは思っています。

    その「自分という範囲を超えたもの」ということは、重要なことだと思います。
    パニチェさんが紹介された「〈仏教3.0〉を哲学する」(パート1のほう)の中に、「瞑想の主体とはなにか」という節があります。瞑想の主体は普段の私ではないという共通理解のもとに対話が進んでおり、その中で山下良道さんは、瞑想の主体は「青空としてのわたし」だと言っています。

    スカトー寺のカムキエン師もそれに似たことを言っているので少し引用します。
    「何ものかになる必要はありません。何ものかの上にいる。まるで肩車に乗っているかのように。
    肩車に乗ったら、疲れないでしょう? 気づきも私たちを疲れさせることはありません。
    自分自身を感じて、気づいていくことは雲の上にいるのと同じようなことです。雲の上では、雨や風や雷などは起こらないでしょう? それらは雲の下。
    雲の上は穏やかで静かです。
    幸せにも、苦しみにもはまっていきません。
    得たとか、失ったとかもなく、正しいとか、正しくないとかもなく、ただただ気づきがあるだけです。」
引用返信/返信 削除キー/
■27384 / inTopicNo.48)  Re[7]: 大乗と上座
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/07(Mon) 19:52:31)
    こんばんは、田秋さん。

    > 日課として瞑想されているんですね!

    はい。歩行瞑想は、家の近くに海辺の広い公園があるので、毎日そこを歩いています。家は横須賀なので、海辺の公園からは米軍の潜水艦や軍艦が間近に見えます。
    大自然の中を、リラックスして、ただゆったりと歩く。それだけでも、体にも心にも良い感じがします。

    > 歩行瞑想、少なくとも瞑想の他に歩くということもされるわけですよね。歩くだけでなく信号を見るとか人とぶつからないようにするとか。そういう状況でも瞑想はできるのですね。

    はい。歩行瞑想の場合は、自分の意識の状態は普段の意識とあまり変わらないです。なので「瞑想」という一般的なイメージとはかなり違うだろうと思います。
    仏教の瞑想は大きく分けると、「サマタ」と呼ばれる集中系の瞑想と「ヴィパッサナー」と呼ばれる観察系の瞑想の二種類の瞑想があります。歩行瞑想は観察系の瞑想です。
    サマタとヴィパッサナーは昔からどちらも大切だとされているので、私は座って瞑想する時はサマタ(集中)に重点をおいています。
    集中系の瞑想は、歩行瞑想とは違って、意識の状態が変わります。集中状態に入っても意識ははっきりしていますが、普段の意識状態とは違うことが自分ですぐ分かります。静寂で、本当に平和な感じです。(集中系の瞑想によって心を病んでしまう人もいるらしく、誰にでも勧められる瞑想ではないようです。)

    > チベタンシンキングボウルというのがあります。チベット仏教で使用するボウルの音色をヒーリングサウンド感覚で聴きくと、睡眠、瞑想、疲労回復に効果があるようなのですが、お聞きになったことはありますか。

    初めて聴きました。川の音がいいですね。懐かしさを感じます。
    もし今の修行に行き詰まりを感じたら試してみます。

    > ボクは昔から音楽聴きながら勉強をするのですが、いつもは荻野目ちゃんと山下達郎を聞き、たまにこの手のサウンドも聴きます。邪魔にならないのがいいです。

    田秋さんは音楽の専門家ということですが、どういうご専門なのですか?
引用返信/返信 削除キー/

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