| こんばんは、パニチェさん。
> > 「無色透明」の意味をもう少し説明していただけますか?
> 言語化つまり思考された対象は既に自我や自己という手垢が付いています、その時点で既に「観られるもの」と「観るもの」に分断化しています。 > 唯識で言うところの第六意識(末那識を土台として立ち起こる自我)が働く以前、西田幾多郎が言うとのころの「純粋経験」みたいなイメージで自己という色が付く以前の存在みたいな譬えとして「無色透明」と表現しています。
分かりました。ありがとうございます。
> > 「頽落」というのは、他の存在者と同一平面上に並び立つことができないはずの〈私〉が、同一平面上に位置してしまうこと、つまり三人称化(彼化)してしまうということですか?
> さすが鋭いです!その通りです。 > ちなみにハイデッガーが言うところの「現存在」というのはbwv602さんはどのように理解されていますか。
「現存在」の「現(Da)」は、存在(世界)がそこに現成する〈場〉を意味しており、それは「空き地」を意味する「空開処(Lichtung)」、つまり〈空(空っぽ)の開けた場所〉という意味を持つと思われるので、西田幾多郎の〈無の場所〉にかなり似ていると思います。
パニチェさんが「特異点」の説明であげられた3つのこと(「そこから世界が開闢している」こと、「他者の地平の彼方に位置すること」こと、「科学(唯物論)の対象になりえない」こと)は、どれも「現存在」にもあてはまると思います。
『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』は10年ぐらい前に読んだ本なので、今、もう一度読み直しています。 私は「サティ(気づき)の主体は何か?」あるいは「サティ(気づき)という働きの出どころはどこか?」というような問題意識をもってこの本を読み直しています。 読みながら、いくつか気になったところがあります。その一つは、西田幾多郎とハイデガーは〈場〉と表現しているのに対して、パニチェさんと永井均さんは〈点〉と表現していることです。それは何故なのか、そしてその違いは大きいのか、そうでもないのか・・・(西田幾多郎は「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と言っています。p.54)
永井均さんが〈私〉を〈点〉と見ていることは、『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』の中の「他者性と〈私〉という矛盾」という節にある吹き出しのような図にも現れていると思います。また、その本の中で永井均さんは〈私〉のことを「世界を開く原点」であるとしています。 ハイデガーは(対象化を嫌う人なので)「世界を」というふうに「世界」を対象化する表現をせずに、《「現(Da)」という空け開けた〈場〉に、存在(世界)が現成する》というような言い方をすると思います。 世界を開く〈点〉なのか、世界が現成する〈場〉なのか・・・?
「サティ(気づき)」という私の問題意識にとっては、それを〈点〉と言ったほうが良いのか、〈場〉と言ったほうが良いのか・・・。今のところは〈場〉のほうがしっくりくる感じがしています。 スカトー寺のプラユキさんは、「サティ」は英語でいえば「awareness(覚醒)」に近いと言っているので、それも考え合わせると・・・
《サティの力が高まり「覚醒」することによって、今まで無自覚にハマり込んでいた「自我」が手放されると同時に、これまで世界を見ていた「自我」というフィルターが取り外されることによって、あるがままの存在(世界)が、あるがままに、「現(Da)」という空け開けた〈場〉に立ち現れてくる》・・・そのように今は思っています。
(なお、基本的な説明を忘れていましたが、八正道の中の「正念」の「念」のパーリ語が「サティ」です。なので、「サティ」を重要視していることは、八正道の中でも特に「正念」を重視しているということになります。)
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