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■27772 / inTopicNo.25)  私的言語
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/03(Sat) 09:21:26)
    ウィトゲンシュタインが私的言語の可能性を否定したか肯定したかはともかく。。。

    私的言語は成立する。

    その象徴が〈私〉という表記である。
引用返信/返信 削除キー/
■27771 / inTopicNo.26)  点と場
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/03(Sat) 09:15:13)
    2022/12/03(Sat) 10:18:52 編集(投稿者)

    おはようございます、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No27704に返信(bwv602さんの記事)
    >>言語化つまり思考された対象は既に自我や自己という手垢が付いています、その時点で既に「観られるもの」と「観るもの」に分断化しています。
    >>唯識で言うところの第六意識(末那識を土台として立ち起こる自我)が働く以前、西田幾多郎が言うとのころの「純粋経験」みたいなイメージで自己という色が付く以前の存在みたいな譬えとして「無色透明」と表現しています。
    > 分かりました。ありがとうございます。

    どういたしまして。これ蛇足なんですが。。。
    上記は永井均著『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』を購入する前に返信したのですが、今、読み進んでみるとやはり永井さんの西田哲学に関する読解と凄く共通するところがあるようですね。

    >>ちなみにハイデッガーが言うところの「現存在」というのはbwv602さんはどのように理解されていますか。
    > 「現存在」の「現(Da)」は、存在(世界)がそこに現成する〈場〉を意味しており、それは「空き地」を意味する「空開処(Lichtung)」、つまり〈空(空っぽ)の開けた場所〉という意味を持つと思われるので、西田幾多郎の〈無の場所〉にかなり似ていると思います。
    > パニチェさんが「特異点」の説明であげられた3つのこと(「そこから世界が開闢している」こと、「他者の地平の彼方に位置すること」こと、「科学(唯物論)の対象になりえない」こと)は、どれも「現存在」にもあてはまると思います。

    やはり、そうなんですね。なんとなくそういうことも含意されてるのかなぁ〜と思っていましたが確信できずペンディングしてました。
    上記のようなところが打ち出されている箇所は『存在と時間』ではどの辺にありますか?

    > 『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』は10年ぐらい前に読んだ本なので、今、もう一度読み直しています。
    > 私は「サティ(気づき)の主体は何か?」あるいは「サティ(気づき)という働きの出どころはどこか?」というような問題意識をもってこの本を読み直しています。
    > 読みながら、いくつか気になったところがあります。その一つは、西田幾多郎とハイデガーは〈場〉と表現しているのに対して、パニチェさんと永井均さんは〈点〉と表現していることです。それは何故なのか、そしてその違いは大きいのか、そうでもないのか・・・(西田幾多郎は「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と言っています。p.54)

    > 永井均さんが〈私〉を〈点〉と見ていることは、『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』の中の「他者性と〈私〉という矛盾」という節にある吹き出しのような図にも現れていると思います。また、その本の中で永井均さんは〈私〉のことを「世界を開く原点」であるとしています。
    > ハイデガーは(対象化を嫌う人なので)「世界を」というふうに「世界」を対象化する表現をせずに、《「現(Da)」という空け開けた〈場〉に、存在(世界)が現成する》というような言い方をすると思います。
    > 世界を開く〈点〉なのか、世界が現成する〈場〉なのか・・・?

    すみません。何故。西田が「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と述べているのか私には分かりません。
    「物ではなく場所でなければならぬ」というのは何となく分かります。極論すれば世界の全ても含まれるわけですから(一即一切一切即一)、〈場〉と表現されているのでしょうね。
    これは想像ですが物は特定の位置を持つものであることから、それに対比させ〈点〉としているのかな?と考えました。

    『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』のP.77の「眼」が描かれた左上の図のことであれば、あれはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考 5.6331』で用いた図を引用しています。
    特異点など〈点〉としているのは無限小であるからで、無限小であるから世界と合一するのであって、この点においては西田の「絶対無」とも相通じるのかな?と考えています。

    > 「サティ(気づき)」という私の問題意識にとっては、それを〈点〉と言ったほうが良いのか、〈場〉と言ったほうが良いのか・・・。今のところは〈場〉のほうがしっくりくる感じがしています。
    > スカトー寺のプラユキさんは、「サティ」は英語でいえば「awareness(覚醒)」に近いと言っているので、それも考え合わせると・・・

    なるほど。ひょっとすると。。。
    アドヴァイタ的な表現を用いれば〈場〉と表現するのはブラフマン(宇宙=世界)をフォーカスしており、〈点〉と表現するのはアートマン(真我)をフォーカスしているのかな?と思いました。
    上記のような発想は、今回のbwv602さんとのレス交換で触発され、気付かされたり、自分の探究が進展したことでもあり有難いです。

    > 《サティの力が高まり「覚醒」することによって、今まで無自覚にハマり込んでいた「自我」が手放されると同時に、これまで世界を見ていた「自我」というフィルターが取り外されることによって、あるがままの存在(世界)が、あるがままに、「現(Da)」という空け開けた〈場〉に立ち現れてくる》・・・そのように今は思っています。
    > (なお、基本的な説明を忘れていましたが、八正道の中の「正念」の「念」のパーリ語が「サティ」です。なので、「サティ」を重要視していることは、八正道の中でも特に「正念」を重視しているということになります。)

    そうですね、同意です。
    私も八正道は仏教の根本的な教説のひとつであると思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■27704 / inTopicNo.27)  Re[12]: 見性悟道
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/28(Mon) 23:05:12)
    こんばんは、パニチェさん。


    > > 「無色透明」の意味をもう少し説明していただけますか?

    > 言語化つまり思考された対象は既に自我や自己という手垢が付いています、その時点で既に「観られるもの」と「観るもの」に分断化しています。
    > 唯識で言うところの第六意識(末那識を土台として立ち起こる自我)が働く以前、西田幾多郎が言うとのころの「純粋経験」みたいなイメージで自己という色が付く以前の存在みたいな譬えとして「無色透明」と表現しています。

    分かりました。ありがとうございます。


    > > 「頽落」というのは、他の存在者と同一平面上に並び立つことができないはずの〈私〉が、同一平面上に位置してしまうこと、つまり三人称化(彼化)してしまうということですか?

    > さすが鋭いです!その通りです。
    > ちなみにハイデッガーが言うところの「現存在」というのはbwv602さんはどのように理解されていますか。


    「現存在」の「現(Da)」は、存在(世界)がそこに現成する〈場〉を意味しており、それは「空き地」を意味する「空開処(Lichtung)」、つまり〈空(空っぽ)の開けた場所〉という意味を持つと思われるので、西田幾多郎の〈無の場所〉にかなり似ていると思います。

    パニチェさんが「特異点」の説明であげられた3つのこと(「そこから世界が開闢している」こと、「他者の地平の彼方に位置すること」こと、「科学(唯物論)の対象になりえない」こと)は、どれも「現存在」にもあてはまると思います。

    『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』は10年ぐらい前に読んだ本なので、今、もう一度読み直しています。
    私は「サティ(気づき)の主体は何か?」あるいは「サティ(気づき)という働きの出どころはどこか?」というような問題意識をもってこの本を読み直しています。
    読みながら、いくつか気になったところがあります。その一つは、西田幾多郎とハイデガーは〈場〉と表現しているのに対して、パニチェさんと永井均さんは〈点〉と表現していることです。それは何故なのか、そしてその違いは大きいのか、そうでもないのか・・・(西田幾多郎は「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と言っています。p.54)

    永井均さんが〈私〉を〈点〉と見ていることは、『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』の中の「他者性と〈私〉という矛盾」という節にある吹き出しのような図にも現れていると思います。また、その本の中で永井均さんは〈私〉のことを「世界を開く原点」であるとしています。
    ハイデガーは(対象化を嫌う人なので)「世界を」というふうに「世界」を対象化する表現をせずに、《「現(Da)」という空け開けた〈場〉に、存在(世界)が現成する》というような言い方をすると思います。
    世界を開く〈点〉なのか、世界が現成する〈場〉なのか・・・?

    「サティ(気づき)」という私の問題意識にとっては、それを〈点〉と言ったほうが良いのか、〈場〉と言ったほうが良いのか・・・。今のところは〈場〉のほうがしっくりくる感じがしています。
    スカトー寺のプラユキさんは、「サティ」は英語でいえば「awareness(覚醒)」に近いと言っているので、それも考え合わせると・・・

    《サティの力が高まり「覚醒」することによって、今まで無自覚にハマり込んでいた「自我」が手放されると同時に、これまで世界を見ていた「自我」というフィルターが取り外されることによって、あるがままの存在(世界)が、あるがままに、「現(Da)」という空け開けた〈場〉に立ち現れてくる》・・・そのように今は思っています。

    (なお、基本的な説明を忘れていましたが、八正道の中の「正念」の「念」のパーリ語が「サティ」です。なので、「サティ」を重要視していることは、八正道の中でも特に「正念」を重視しているということになります。)
引用返信/返信 削除キー/
■27659 / inTopicNo.28)  西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/26(Sat) 10:57:43)
    No27570に返信(パニチェさんの記事)

    bwv602さん■No27485
    >>私が永井均さんの〈私〉について知ったのは、西洋の〈実存〉の思想を学んだ後のことです。永井均さんの〈私〉は西洋哲学の〈実存〉に似ているけれども、その違いはどこにあるのか・・・私はそのへんがよく分かっていません。
    >>永井均さんの本で最後までちゃんと読んだのは『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』です。この本はとても面白かったです。この本の中にも、目まいのするような無限後退の話がでてきますね。たしか地図の中の像の話だったでしょうか。
    >>私は西田幾多郎もあまり読んでいないので、この本の内容が西田幾多郎の思想に忠実に書かれているのか、それとも永井均さんの思想に相当引き寄せて書いているのかがよく分かりませんが、この本の内容は永井均さんの〈私〉の思想に近いのでしょうか?

    パニチェ■No27570
    > 西田幾多郎は解説書しか読んでませんし、『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』は読んでないので的確な返信はできませんが、永井さんはウィトゲンシュタインにせよ、ニーチェにせよ、自身の思想に引き寄せて書かれていますね。好意的に考えれば大哲学者もそうであったように先人の思想を踏み台にして自らの思想を構築しています。

    本日、永井均著『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』が届きましたので読了後にbwv602さんの「この本の内容は永井均さんの〈私〉の思想に近いのでしょうか?」という問いかけに私なりに返信してみたいと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■27658 / inTopicNo.29)  神は生まれ変わる
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/26(Sat) 08:04:42)
    神は死んだ

    復活するためではなく、生まれ変わるために

    生まれ変わったイエスは奴隷道徳を否定し、君主道徳を賞賛した

    イエスとツァラトゥストラと仏陀は大いなる正午に握手する

    そして真の世界平和が訪れる



    by パニチェ w

引用返信/返信 削除キー/
■27631 / inTopicNo.30)  Re[12]: 気づきの空間
□投稿者/ みのり -(2022/11/24(Thu) 08:09:22)
    No27593に返信(bwv602さんの記事)

    bwv602さん、レスありがとうございます。

    > オンラインでプラユキさんとお話したいと思っていますが、まだお話したことはありません。

    そうなのですね。

    > この動画はご覧になりましたか?
    > https://youtu.be/DnKc2OUaQxc

    いえ、プラユキさんの動画を拝見したことがなかったですので・・。
    瞑想について語られている動画、やはり話し方が穏やかで優しいですね。
    貼っていただいてありがとうございます。

    > はい。それらの自然の働きを身体の症状として観ると、第三者的に距離をおいて観ることができるということです。
    > 最近読んだスティサート師の法話に、ちょうどそういう話があったのでその一部を引用します。
    >
    > 「体と心に生じてきた症状をよく知る、よく観る。これが鍛えるポイントです。そうして知っている時に、体と心に何かが生じてきたらそれも知る。たとえば、怒り。あるいは心に幸せが生じていることを知る。今まさに生じてきていることをただただ知る、ただただ観る。
    > それはまるで、他者がしていることを観ているような感じで観るわけです。たとえば、ネコを見たとしましょう。ネコが横になっているのを見たら、ネコが横になっているな、とわかるわけです。ネコは私だ、とは思いませんよね、ネコは、ネコですから。あるいは、イヌが歩いていたら、イヌが歩いているな、と知ります。私が歩いているとは思いませんよね。ネコを見た、イヌを見た、他人を見た。彼らが何かをしていたら、それは彼らの話であって、私の話ではありません。
    > これは自分自身の体についても同じことなんです。他者や他の動物を見るかの如く、自分自身の体の様子を観ていく。すると、『私だ、私のものだ』という感覚なく、自分自身を感じることができるようになってきます。ひとつの物質だ、という認識になってきます。仏教用語でいえばループ(色:形あるもの)ですね。ループが働いている、と。
    > 観えるまでは、この体は私だ、と思っていたわけなんですね。でも観えることによって、『私でも、私のものでもない』ことがわかってきます。
    > しかしそれ以前はこう自動的に考えていたでしょう。体に痛みが生じたときには、私の体が痛い。体に疲れが生じたときには、私は疲れた、とね。
    > 苦しみが生じたときや、体の調子が良くないとき、体に生じる苦しみの感受が生じているわけですが、それをぐっと私に引き寄せて『私だ、私のものだ』としてしまうわけです。」
    >
    > 身体に生じる痛みや苦しみ、また、心に生じる怒りやイライラ・・・それらと一体化してしまって、それらの苦しみや怒りの中にハマり込んでしまわずに、一歩引いて大きく見れば、それらも大自然(仏)の働きそのものなのであり、「私でも、私のものでもない」ことが分かってくる・・・ということだと思います。
    > たしかに、寝ている間も働き続けている呼吸だとか血液の流れなどは、自分の力を超えた大自然の働きですね。

    そうなんですよね。本来、私のものとして区分できるものは何もないし、私というのは自我の後付けですよね。
    イライラや怒りは現象として起きてきても、そこに「私」がくっついていないと消えるのは速くなると思います。
    と、同時に、他者から言われた何かでも、身体の痛みなどでも、実体化として見るのではなく、全体性からの表れとして感じたり見ると軽減されるように思います。
    ちょうど私もこのへんを意識してしていたいと思っていたところでした。

    > この「私でも、私のものでもない」というフレーズは、初期の仏教経典を読んでいると頻繁に出てくるフレーズで、そのことを理解することによって自我への執着を手放すことを初期仏教経典は説いています。

    > 自我への執着を手放すことが重要なのは、大乗仏教を学んでいた時から分かっていましたが、我執を手放すにはどうすれば良いのか?・・・それが私にははっきりとは掴めませんでした。
    > 苦しみや怒りなどを「身体と心の症状として観る」というスカトー寺の教えによって、我執を手放す修行のための大きなヒントを得たように私は感じています。

    私は経典といっても、スッタニパータとダンマパダ、華厳経、法華経の解説本しか読んでいないのですが、たしかに具体的な方法については経典には書かれてはいないように思います。
    そして、研究や学術としてではなく、人々が苦から離れたいと思う時に必要なのは、具体的な方法ですよね。

    > 有料サイトなのでお勧めはできませんが、私が見ているのはこれです。
    > https://note.com/urasakimasayo/m/me9dc4cd865cb

    お気に入り登録しました。ありがとうございます。
    一つからでも読めるとのことなので、読んでみようかなと思います。

    > 浦崎雅代さんは大学教員を辞めて、翻訳を今の生活の糧にしているようです。浦崎さんがスカトー寺と出会って現在の生活に至った経緯をインタビューで答えています。
    > https://youtu.be/aW8yInsOHvM

    動画、ありがとうございます。もともと仏教に縁があったと話されていて、天職を得られ、充実した日々を送られていらっしゃるのですね。

    > 力を抜いて、すべてを仏(大自然)の働きに任せることができれば、大きな安らぎを得ることができると思います。
    > そういう心に近づける瞬間もありますが、いつもそういう心でいるのはとても難しいですね。
    > 生まれてから今まで長い年月をかけて自我に執着してきたのだから、その自我を手放すには長い年月の修行が必要だと思っています。

    私も本当にそう思います。
    我を立てずに調和的に、でも我慢するということもなく自然体で、というようにいつもいられたらいいな、と。

    いろいろとお話いただいてありがとうございました。
    とても楽しくやり取りさせていただけて感謝しています。<m(__)m>
    またいつか機会がありましたらよろしくお願いします。
    これについての返信はお気遣いなくなさってくださいね。
引用返信/返信 削除キー/
■27619 / inTopicNo.31)  西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/23(Wed) 19:41:12)
    2022/11/23(Wed) 19:54:28 編集(投稿者)

    永井均著「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」を読んでみたくなりました。

    紀伊国屋梅田店では(他の店舗も含め)在庫なしとなっていましたので、今日Amazonで注文しました。

    永井さんが〈私〉と西田哲学の「純粋経験」をどのように結び付けているのか、いないのかに興味があります。
引用返信/返信 削除キー/
■27612 / inTopicNo.32)  Re[11]: 見性悟道
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/23(Wed) 09:53:11)
    おはようございます、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No27595に返信(bwv602さんの記事)

    > そうですね。
    > 華厳経では〈理〉を「海」に、〈事〉を「波」に喩えていたと思います。仏教にしばしば出てくる波と海の比喩は私の好きな比喩です。
    > 〈理〉と〈事〉(海と波)が相即しているのが本来の姿であり、仏の視点から見ればそうなのだが、現実の現象世界では「波」は「海」から乖離してしまっていて、そのために様々な問題が生じています。
    > 『大乗起信論』でも、不生不滅界(真如)という「海」に、無明の風が吹きつけることによって、生滅界(現実世界)の「波」が生じるとされており、その言わんとするところは華厳経と同じだと思います。
    > 「無明の風」が強いために、「波」としての我々は「海(真如)」を見失い、そのために《苦》が生じている・・・
    > ティク・ナット・ハン師は、「波には、自分が海だという自覚はないかもしれません。それが波の苦しみの原因のすべてです」と言っています。これも私の好きな言葉です。

    ティク・ナット・ハン師も波と海に譬えているんですね。

    『大海の水の如く、風に因りて波動して水相と風相と相い捨離せず、而も水は動性には非ず。若し風止滅すれば、動相は即ち滅するも湿性は壊せざるが故に。(大乗起信論26)』

    『仏子よ、諸の世界海に種種の形あり、或は方、或は円、或は方円に非ず、或は水のフク(さんずいに複)するが如く、或は複華の形の如く、或は種種の衆生の形をなす者あり。(華厳経 盧舎那仏品第二之二大九巻四一〇中―下)』

    人間を含めた生物って散逸構造系(流れのエネルギーが持続的に供給される限り維持され、流れが止まると消失する)って言われてますよね。
    そういう意味では私は上記の華厳経の「水のフク(さんずいに複)するが如く」即ち渦、私たちは大海原にある一定期間(あるいは刹那に)現れては消える渦みたいなものだとイメージしています。

    > ありがとうございます。
    > 〈私〉の探究はパニチェさんにとってそれほど重要なことであり、またライフホビーとおっしゃっていたから、楽しいことなんですね。

    どういたしまして。そうです楽しみながら自己〈私〉探究しています。

    > 「無色透明」の意味をもう少し説明していただけますか?

    言語化つまり思考された対象は既に自我や自己という手垢が付いています、その時点で既に「観られるもの」と「観るもの」に分断化しています。
    唯識で言うところの第六意識(末那識を土台として立ち起こる自我)が働く以前、西田幾多郎が言うとのころの「純粋経験」みたいなイメージで自己という色が付く以前の存在みたいな譬えとして「無色透明」と表現しています。

    > 「頽落」というのは、他の存在者と同一平面上に並び立つことができないはずの〈私〉が、同一平面上に位置してしまうこと、つまり三人称化(彼化)してしまうということですか?

    さすが鋭いです!その通りです。
    ちなみにハイデッガーが言うところの「現存在」というのはbwv602さんはどのように理解されていますか。

    > 先程みのりさんへの返信を書きながら、我執について考えていたので、それとパニチェさんの〈私〉を勝手につなげてしまいますが・・
    > パニチェさんの〈私〉はそもそも「対象」にはなり得ないものだろうから、我執の対象にはならないですね。我執の対象は三人称化(彼化)した「私」であり、〈私〉のほうは、執着しているという《働き》そのものと言えるでしょうか。あるいは、執着という働きが生じている《場》のようなものと言ったほうが近いでしょうか・・

    はい、そうです。

    > パニチェさんの〈私〉は、おそらく「モノ」的なものではなく、「コト」的なものであり、名詞的なものというよりは、動詞的なものでしょう。
    > デカルトの「我思う」においても、本当に疑い得ないのは「思う」という動詞的なもの(《働き》)であって、「我」という名詞的なものではないと思います。
    > それとも、パニチェさんの〈私〉は、世界がそこから開ける《基点》のようなものに近いでしょうか?

    ほんと鋭いです。全くもってその通りです。^^
    そこから「世界が開闢する」そして「物理法則が通用しない(体積がなく質量が無限大)」というビッグバン宇宙論の特異点ってあるますよね。
    〈私〉も「そこから世界が開闢している」こと、「他者の地平の彼方に位置すること(他者も他物も決して並び立たない)」こと、科学の定義にもかかる自然の斉一性や再現性、記述性の網の目をくぐってしまうことから科学(唯物論)の対象になりえないという意味も含め「特異点」と呼んでいます。
    これ蛇足なんですが私が特異点と名付けたんですが、不思議なことに永井均さんもいつからか「特異点」と表現してます。同じようなことを考えていたのかなぁ〜。^^;

引用返信/返信 削除キー/
■27595 / inTopicNo.33)  Re[10]: 見性悟道
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/21(Mon) 22:43:38)
    こんばんは、パニチェさん。

    > 華厳経は大乗仏典ですから釈尊の直伝ではないにせよ後世の仏弟子や高僧が学究と修行によって悟りに到達し、体得した佛智(無分別智)を経典として残したのだと思います。

    そうですね。
    華厳経では〈理〉を「海」に、〈事〉を「波」に喩えていたと思います。仏教にしばしば出てくる波と海の比喩は私の好きな比喩です。
    〈理〉と〈事〉(海と波)が相即しているのが本来の姿であり、仏の視点から見ればそうなのだが、現実の現象世界では「波」は「海」から乖離してしまっていて、そのために様々な問題が生じています。
    『大乗起信論』でも、不生不滅界(真如)という「海」に、無明の風が吹きつけることによって、生滅界(現実世界)の「波」が生じるとされており、その言わんとするところは華厳経と同じだと思います。
    「無明の風」が強いために、「波」としての我々は「海(真如)」を見失い、そのために《苦》が生じている・・・
    ティク・ナット・ハン師は、「波には、自分が海だという自覚はないかもしれません。それが波の苦しみの原因のすべてです」と言っています。これも私の好きな言葉です。


    > 論書ではナーガールジュナ(龍樹)の中論、僧侶では道元禅師、あとYahoo!掲示板で知り合った雪担老師や愚さんの言葉も心に刻んでいます。研修者では中村元博士ですね。

    > あと修行に関してはこれは笑われそうですが。。。
    > 〈私〉の言語と論理による探究をもって見性悟道をやってるつもりです。
    > これって風車に挑む愚かなドンキホーテみたいなもので全く正反対のことをやっている、または豆腐で釘を打つようなものだという自覚はありつつ、それでもよいと開き直っています。
    > 哲学も仏教も脳科学も物理も進化論もどれも中途半端ですが何れも〈私〉の探究のための道具みたいなもんです。

    ありがとうございます。
    〈私〉の探究はパニチェさんにとってそれほど重要なことであり、またライフホビーとおっしゃっていたから、楽しいことなんですね。


    > へぇ〜!なんか奇遇ですね。確かに無限後退します(笑)。
    > 無限後退が決着するのは〈私〉が無色透明に至った場合だけです。。。。今のところ。^^

    「無色透明」の意味をもう少し説明していただけますか?


    > 永井さんの〈私〉をパニチェの「比類なき先言の<私>」と同様のものと仮定すれば、仏教の勝義諦の言語化不可能性は言語機能としてラベリングによって分断化してしまうための不可能性であり、〈私〉の言語化不可能性は言語機能としての同じラベリングでも共有化(独在と頽落の終わることなき拮抗運動)してしまうための不可能性です。
    > 粗っぽくカキコしましたのでワケワカメな返信ならスルーして下さい。^^

    「頽落」というのは、他の存在者と同一平面上に並び立つことができないはずの〈私〉が、同一平面上に位置してしまうこと、つまり三人称化(彼化)してしまうということですか?

    先程みのりさんへの返信を書きながら、我執について考えていたので、それとパニチェさんの〈私〉を勝手につなげてしまいますが・・
    パニチェさんの〈私〉はそもそも「対象」にはなり得ないものだろうから、我執の対象にはならないですね。我執の対象は三人称化(彼化)した「私」であり、〈私〉のほうは、執着しているという《働き》そのものと言えるでしょうか。あるいは、執着という働きが生じている《場》のようなものと言ったほうが近いでしょうか・・
    パニチェさんの〈私〉は、おそらく「モノ」的なものではなく、「コト」的なものであり、名詞的なものというよりは、動詞的なものでしょう。
    デカルトの「我思う」においても、本当に疑い得ないのは「思う」という動詞的なもの(《働き》)であって、「我」という名詞的なものではないと思います。
    それとも、パニチェさんの〈私〉は、世界がそこから開ける《基点》のようなものに近いでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■27594 / inTopicNo.34)  Re[11]: 大乗と上座
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/21(Mon) 22:36:41)
    こんばんは、田秋さん。
    詳しく説明していただき、有難うございます。
    無伴奏バイオリンソナタ・パルティータと無伴奏チェロ組曲もビオラ奏者のレパートリーなんですね。
    以前はどちらも大好きでよく聴いていました。
    私が聴いていたのは、チェロはフルニエとビルスマ、バイオリンはクレーメルとクイケンでした。
    モダン楽器と古楽器のそれぞれの良さがありますね。
引用返信/返信 削除キー/
■27593 / inTopicNo.35)  Re[11]: 気づきの空間
□投稿者/ bwv602 -(2022/11/21(Mon) 22:32:02)
    こんばんは、みのりさん。

    > bwv602さんは、現在、オンラインなども利用されて修行されているのですか?
    > 私は、ツィッターでプラユキさんをフォローさせてもらい、言葉を拝見したりしています。
    > まだ、例えばYouTubeなどで肉声をお聞きしたことはないのですが、慈愛のある優しい方のようなので、動画で探してみようかなとも思っています。

    オンラインでプラユキさんとお話したいと思っていますが、まだお話したことはありません。
    この動画はご覧になりましたか?
    https://youtu.be/DnKc2OUaQxc

    > ストレスのかかるはずの場面での実感が感じられるのは、きっととても励みになりますよね。
    > 続けてこられた効果でよかったですね。^^

    ありがとうございます。でも、まだまだこれからという感じですが・・

    > > カムキエン師は、湧き出てくる思考や感情を、心と身体の「症状」として観なさいと言っています。そして心と身体の「症状」として観ることができれば、それらの思考や感情にハマリ込むことはないと言っています。

    > 第三者的に「症状」として観てみる、ということなのだろう、と思いました。
    > 動揺、怒りを感じる時に、鼓動が早くなったり、喉が締め付けられる感じ、肩に力が入ったりするのは、防衛本能という自然の働きでそれが出ているのだな、と感じればいいのでしょうね。
    > 動物が怒ると毛が逆立ったりするように。

    はい。それらの自然の働きを身体の症状として観ると、第三者的に距離をおいて観ることができるということです。
    最近読んだスティサート師の法話に、ちょうどそういう話があったのでその一部を引用します。

    「体と心に生じてきた症状をよく知る、よく観る。これが鍛えるポイントです。そうして知っている時に、体と心に何かが生じてきたらそれも知る。たとえば、怒り。あるいは心に幸せが生じていることを知る。今まさに生じてきていることをただただ知る、ただただ観る。
    それはまるで、他者がしていることを観ているような感じで観るわけです。たとえば、ネコを見たとしましょう。ネコが横になっているのを見たら、ネコが横になっているな、とわかるわけです。ネコは私だ、とは思いませんよね、ネコは、ネコですから。あるいは、イヌが歩いていたら、イヌが歩いているな、と知ります。私が歩いているとは思いませんよね。ネコを見た、イヌを見た、他人を見た。彼らが何かをしていたら、それは彼らの話であって、私の話ではありません。
    これは自分自身の体についても同じことなんです。他者や他の動物を見るかの如く、自分自身の体の様子を観ていく。すると、『私だ、私のものだ』という感覚なく、自分自身を感じることができるようになってきます。ひとつの物質だ、という認識になってきます。仏教用語でいえばループ(色:形あるもの)ですね。ループが働いている、と。
    観えるまでは、この体は私だ、と思っていたわけなんですね。でも観えることによって、『私でも、私のものでもない』ことがわかってきます。
    しかしそれ以前はこう自動的に考えていたでしょう。体に痛みが生じたときには、私の体が痛い。体に疲れが生じたときには、私は疲れた、とね。
    苦しみが生じたときや、体の調子が良くないとき、体に生じる苦しみの感受が生じているわけですが、それをぐっと私に引き寄せて『私だ、私のものだ』としてしまうわけです。」

    身体に生じる痛みや苦しみ、また、心に生じる怒りやイライラ・・・それらと一体化してしまって、それらの苦しみや怒りの中にハマり込んでしまわずに、一歩引いて大きく見れば、それらも大自然(仏)の働きそのものなのであり、「私でも、私のものでもない」ことが分かってくる・・・ということだと思います。
    たしかに、寝ている間も働き続けている呼吸だとか血液の流れなどは、自分の力を超えた大自然の働きですね。

    この「私でも、私のものでもない」というフレーズは、初期の仏教経典を読んでいると頻繁に出てくるフレーズで、そのことを理解することによって自我への執着を手放すことを初期仏教経典は説いています。

    自我への執着を手放すことが重要なのは、大乗仏教を学んでいた時から分かっていましたが、我執を手放すにはどうすれば良いのか?・・・それが私にははっきりとは掴めませんでした。
    苦しみや怒りなどを「身体と心の症状として観る」というスカトー寺の教えによって、我執を手放す修行のための大きなヒントを得たように私は感じています。

    > スカトー寺の法話というのは、ブログにアップされているのですか?

    有料サイトなのでお勧めはできませんが、私が見ているのはこれです。
    https://note.com/urasakimasayo/m/me9dc4cd865cb

    浦崎雅代さんは大学教員を辞めて、翻訳を今の生活の糧にしているようです。浦崎さんがスカトー寺と出会って現在の生活に至った経緯をインタビューで答えています。
    https://youtu.be/aW8yInsOHvM

    > 仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

    > 特にこの部分。
    > 仏(大いなるもの、はたらきと言ったらいいか)は待っているのだからなげいれていいのだよ、そして、自分の要らないもの(余計な思考や感情)から自由にラクになりなさい、と言ってくれているのだと自分なりに感じた時には涙が止まらなくなったのでした。
    > 分かりやすく言うと、どんな人でも肯定されているのだから、後は少しずつがんばりなさい、というような感覚です。

    そのような体験があったのですね。すごい体験ですね。

    力を抜いて、すべてを仏(大自然)の働きに任せることができれば、大きな安らぎを得ることができると思います。
    そういう心に近づける瞬間もありますが、いつもそういう心でいるのはとても難しいですね。
    生まれてから今まで長い年月をかけて自我に執着してきたのだから、その自我を手放すには長い年月の修行が必要だと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■27570 / inTopicNo.36)  見性悟道
□投稿者/ パニチェ -(2022/11/19(Sat) 10:05:01)
    2022/11/19(Sat) 11:11:37 編集(投稿者)

    おはようございます、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No27485に返信(bwv602さんの記事)

    > なるほど。とても華厳哲学的ですね。
    > ずっと以前ですが、私は井筒俊彦氏の著作で華厳哲学を学び、理事無礙、事事無礙についての井筒俊彦氏の詳しい解説にとても感銘を受けました。

    華厳経は大乗仏典ですから釈尊の直伝ではないにせよ後世の仏弟子や高僧が学究と修行によって悟りに到達し、体得した佛智(無分別智)を経典として残したのだと思います。

    > ところで、仏教でパニチェさんが一番影響を受けた僧侶や研究者、あるいは好きな人はどのあたりですか? また、今私はスカトー寺の修行を知って自分に合った修行に出会えたと思っていますが、パニチェさんは修行についてはどのような考えをお持ちですか?

    論書では大乗起信論も読みましたが、やっぱり凄いなあ〜っと思ったのはナーガールジュナ(龍樹)の中論(何冊かの和訳を読みました)、僧侶では道元禅師、あとYahoo!掲示板で知り合った川上雪担老師や愚さん、リアルでは名前は伏せますが曹洞宗の老師の言葉も心に刻んでいます。研究者では中村元先生です。

    あと修行に関して、これは笑われそうですが。。。
    〈私〉の言語と論理による探究をもって見性悟道をやってるつもりです。
    これって風車に挑む愚かなドンキホーテみたいなもので全く正反対のことをやっている、または豆腐で釘を打つようなものだという自覚はありつつ、それでもよいと開き直っています。
    哲学も仏教も脳科学も物理も進化論もどれも中途半端ですが何れも〈私〉の探究のための道具みたいなもんです。

    > そうなんですか。
    > 私も小学生の頃、(今振り返って哲学的に言語化すれば)「意識しつつある意識を意識することはできない」とか「見ている目を見ることはできない」という〈実存〉の問題の不思議さをよく感じていました。小学校からの帰り道に一人で歩きながら考えていたのをよく覚えています。
    > その「意識しつつある意識」は、捕まえようとすると「意識しつつある意識」ではなくて「意識された意識」に変貌してしまい、いつもその背後に本当の「意識しつつある意識」が現れる・・・その繰り返しで、どこまでいってもその「意識しつつある意識」を捕まえることができない・・・そういう目まいのするような無限後退を不思議に思い、また楽しんでいました。(私が大学で実存哲学を学ぶことになったのは、そういう小学生の時の体験とつながっているのかも知れません。)

    へぇ〜!なんか奇遇ですね。確かに無限後退します(笑)。
    無限後退が決着するのは〈私〉が無色透明に至った場合だけです。。。。今のところ。^^

    > 私が永井均さんの〈私〉について知ったのは、西洋の〈実存〉の思想を学んだ後のことです。永井均さんの〈私〉は西洋哲学の〈実存〉に似ているけれども、その違いはどこにあるのか・・・私はそのへんがよく分かっていません。
    > 永井均さんの本で最後までちゃんと読んだのは『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』です。この本はとても面白かったです。この本の中にも、目まいのするような無限後退の話がでてきますね。たしか地図の中の像の話だったでしょうか。
    > 私は西田幾多郎もあまり読んでいないので、この本の内容が西田幾多郎の思想に忠実に書かれているのか、それとも永井均さんの思想に相当引き寄せて書いているのかがよく分かりませんが、この本の内容は永井均さんの〈私〉の思想に近いのでしょうか?

    西田幾多郎は解説書しか読んでませんし、『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』は読んでないので的確な返信はできませんが、永井さんはウィトゲンシュタインにせよ、ニーチェにせよ、自身の思想に引き寄せて書かれていますね。好意的に考えれば大哲学者もそうであったように先人の思想を踏み台にして自らの思想を構築しています。

    私が知る限りで西田幾多郎の思想は仏教的(主に禅宗)な認識論や真我と通じるものがあると思われ、永井さんの〈私〉はパニチェの〈私〉(KIDAMASAさんが命名した「比類なき先言の<私>」)と同じようなもの(同じってことは原理的にはありえないのですが)だと仮定すれば仏教の真我や真如などのように普遍的なラベリングが不可能な存在だと思うのですが「〈仏教3.0〉を哲学する」を読んでからは永井さんの〈私〉と「比類なき先言の<私>」が同じようなものかどうかさえ確信が持てずにいます。

    永井さんの〈私〉をパニチェの「比類なき先言の<私>」と同様のものと仮定すれば、仏教の勝義諦の言語化不可能性は言語機能としてラベリングによって分断化してしまうための不可能性であり、〈私〉の言語化不可能性は言語機能としての同じラベリングでも共有化(独在と頽落の終わることなき拮抗運動)してしまうための不可能性です。
    粗っぽくカキコしましたのでワケワカメな返信ならスルーして下さい。^^

    > 「無限なるもの」は、どこか彼方に求めるべきものではなく、凡夫であっても既にその「無限なるもの」そのものだということですね。つまり煩悩即菩提。大乗仏教の特徴ですね。
    > ただこれは、仏の視点からのみ言い得ることであって、凡夫の視点から言い得ることではないという点は重要だと思います。凡夫の視点から煩悩即菩提を言ってしまうと、安易な現実肯定に陥り、修行の必要性が見失われてしまいます。
    > 仏の視点と凡夫の視点は両方必要であり、その両方から複眼的に見ることが必要なのではないかと私は思っています。

    全くもってその通りであり、完全同意です。

    > 前の話の流れでいえば、一照さんの「無限なるものに触れる」アプローチは仏の視点に重点を置いた見方で、スカトー寺流「現実に即して」のアプローチは凡夫の視点に重点を置いた見方。その二つの見方の一方に偏りすぎると危ないと思います。

    中道ですね。^^
引用返信/返信 削除キー/

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