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■27861 / inTopicNo.13)  Re[9]: 第一原理
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/10(Sat) 22:10:03)
    2022/12/10(Sat) 22:11:32 編集(投稿者)

    No27853に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す。

    あいよぉ〜♪

    > マッハ的光景
    > あの絵って、右眼を閉じて、だと思うんだけど、左眼を閉じてでもちょっと光景が左にずれるだけなんじゃない?
    > ん〜ん、いずれにしても私に見えてる?世界を表現してる(絵描いてる)んだとわたし思うんだけど、次のようなのを提出するね。

    > 半側空間無視:左のほうを見てくれません|神経心理学的な代表的症候|神経心理学への誘い|日本神経心理学会 (neuropsychology.gr.jp)

    半側空間無視ってのは疾病失認のひとつで、通常の盲目とは違って第一次視覚野には何の問題もないにもかかわらず、感覚情報が概念として形成される段階での失認ってことは(脳科学系の書籍で)知ってるよ。
    でもその話と今のマッハ的光景とどう関係してくるのかが分からない。

引用返信/返信 削除キー/
■27854 / inTopicNo.14)  Re[9]: 第一原理
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/10(Sat) 19:51:15)
    ■27853 、あ、ごめん、
    左眼を閉じたら光景は右に広がるだった。



引用返信/返信 削除キー/
■27853 / inTopicNo.15)  Re[8]: 第一原理
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/10(Sat) 19:40:58)
    お邪魔しま〜す。
    マッハ的光景
    あの絵って、右眼を閉じて、だと思うんだけど、左眼を閉じてでもちょっと光景が左にずれるだけなんじゃない?
    ん〜ん、いずれにしても私に見えてる?世界を表現してる(絵描いてる)んだとわたし思うんだけど、次のようなのを提出するね。

    半側空間無視:左のほうを見てくれません|神経心理学的な代表的症候|神経心理学への誘い|日本神経心理学会 (neuropsychology.gr.jp)

引用返信/返信 削除キー/
■27852 / inTopicNo.16)  第一原理
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/10(Sat) 18:56:46)
    2022/12/10(Sat) 19:01:35 編集(投稿者)

    こんばんは、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No27799に返信(bwv602さんの記事)

    > パニチェさんは「無色透明」とおっしゃいましたが、「透明」ということは以前から瞑想中に私も感じていたことで、まさに「透明」という語が思い浮かんだことも何度かあります。それは、自我の殻がどんどん薄くなっていって、全ての存在と地続きになっていくような感覚です。大袈裟に言えば「無我の実感」と言えるかも知れません。
    > 永井均さんは、無の場所というのは「悟りのごとき特別の境地を意味しているのではなく、単純にして卑近な事実を指している」(p.57)と言っていますが、それと同じように無常や無我も、ブッダが生まれる前からあった自然の法そのものなので、それは特別な境地によって到達されるようなものではなく、ただそれを真に「実感」できるかどうかが問題なのかも知れないと思います。
    > 永井均さんも最後のところで、「その単純あたりまえのことを真に実感するのには、もはや、ある種の『境地』が必要とされるのである」(p.99)と書いていますね。

    同意します。悟りはともかく(パニチェは悟りは体得してません、おそらく)、「比類なき先言の<私>」というのはあるがままのことでそれに気付くか気付かないかだけのことだと思います。

    > (私が上記のように無我を実感するのは、集中〔止観の止〕に重きを置いた座る瞑想をしている時です。他方、観察〔止観の観〕に重きを置いた歩行瞑想をしている時には、自分の身体と心を外側から観ることによって無常と無我を知ることを目指しています。どちらも無常と無我を《真に実感する》ことを目指しているのは同じですが、止と観は方向性が全く違っており、私は両者の関係性がまだはっきりとは分かっていません。)

    止と観は方向性が違っていることに同意します。またパニチェも両者の関係性がまだはっきりとは分かっていないことも同じです。

    > 〈現存在〉を、存在が現成する空け開けた〈場〉とする見方は、『存在と時間』よりも、『形而上学入門』以降の著作に強くあらわれていると思います。とくに「真の主著」とも言われる『哲学への寄与(性起について)』では、「空開処(Lichtung)」が重要語の一つになっていると思います。
    > ハイデガーは、「主観」としての人間が、存在者を「客観(対象)」として「表象する(フォア・シュテレン=自分の前に・像として立てる)」ような従来の哲学の態度(存在者の主人)では存在そのものは露わにならないとして、〈現存在〉は存在の到来を見守る「存在の牧者」でなければならないとしています。

    なるほど、少し安心しました。というのも私は『存在と時間』で先にbwv602さんが述べたような〈私〉との共通性は読み込めなかったからです。
    ただ感覚的にひょっとしたら現存在も〈私〉に隣接するハイデガーの哲学用語なのかな?と考えていました。
    あと、存在とか自己探究について西洋は東洋に比べ後進だったのはやはり存在や自己を信仰心、端的に言えば神でもって思考停止していたのではないかと邪推しているのですが、この点についてbwv602さんはどのように思われますか?

    > 『形而上学入門』の後書きで訳者の川原栄峰氏が、難解なハイデガーを読むコツを書いているので、その一部を引用します。
    > 「この『形而上学入門』全体を理解するためのコツのようなものがあるので書き足しておく。・・(中略)・・『形而上学入門』の全体はこの『存在(ある)=眼の前に既にある』との闘いだと解する・・・これがコツである。いま闘いと言ったが、ハイデッガーがこの世で最も嫌うものはこのフォアハンデンハイトであろう。別の講義で彼はこれを『哲学の不倶戴天の敵』とまで呼んでいる。・・・フォアハンデンハイトとは通俗的だけでなく哲学的にも自明事とされてしまっている存在の意味のことであり、この語を直訳すると『手前性』となるが、今日では『直前性』という訳語が定着しかけている。とにかく『ある』のでなければ始まらない。しかる後にそれを人が道具として、邪魔者として、客観として、さらにはカンケイナイものとしてそれへと関係しうる。そういう関係が可能になるためにも、とにかくまず『ある』のでなければならない。この『ある』の意味、つまり《存続的現存性》、これがフォアハンデンハイトである。これは実は派生した、平坦化された、通俗的な、退落的な存在の意味、いわば存在の意味のなれの果てなのだか、それにもかかわらず、通俗的にも哲学的にもこれが基本的な存在の意味と思い込まれ、こともあろうにこれが人間つまり現存在の存在の意味にまで逆流してきて、人間の存在も《主観》とか《自我》とかと規定されるに至っている。だが事態は逆である。人間の現存在の実存における根源的時間性の時熟こそは存在の意味のいわば根なのである。・・(中略)・・
    > なお『空開処』(Lichtung)は普通は『空き地』を意味する。山林の一部を伐採して空き地を作ると、そこへ日光が射し込み雨が降り注いで作物が育つ(焼き畑農業? 漢字の『無』の字がそのことをかたどっている)。ハイデッガーはこのことを承知のうえで『空開処』の語を術語として用いる。ハイデッガーにおいては『空開処』は人間の現-存在の『現』という場処のこと、空いている、開いている、明いている場処のことであって、ここで存在が自らを人間に委ね、ここで存在の非隠蔽性つまり真理が現成する。『存在の牧者』としての人間の本質のいわば深奥の場処である。」

    引用ありがとうございます。
    この川原栄峰氏の述べるコツにハイデガーも同意できるなら、ハイデガーも西洋では数少ない哲学者だと思います。
    言語によって頽落してしまうようなあるがままの存在こそが(洋の東西を問わず本来の)哲学の第一原理です。

    >>すみません。何故。西田が「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と述べているのか私には分かりません。
    >>「物ではなく場所でなければならぬ」というのは何となく分かります。極論すれば世界の全ても含まれるわけですから(一即一切一切即一)、〈場〉と表現されているのでしょうね。
    >>これは想像ですが物は特定の位置を持つものであることから、それに対比させ〈点〉としているのかな?と考えました。

    > そう思います。それ自身は現象世界の内部にあるものではなく、しかも現象世界の内部のものの全てを「包むもの(p.52)」という意味で「円」という表現になっているのではないかと思います。永井均さんの解釈では、その「円」はp.93の図のようなイメージになるのだと思います(この図には「汝」も出てきますが)。

    少し補足しますと、あの眼の図は客体化してしまってるので本来はありえない図なんです。
    あの図をリアルにしたのがフッサール現象学の起点ともなるマッハ的光景(添付)になります。

    > 「無限小であるから世界と合一する」というところをもう少し説明していただけますか?

    ある大きさがあり、それが世界の大きさと違うのであれば世界と〈私〉は分離あるいは分断化します。
    世界と合一であるということは〈私〉が大きさを持たない点であるからで、点であるが故に「一即一切一切即一」になりうるのではないか?と今のところは考えています。
    大きさを持たない位置だけが今ここにある、それは世界が開闢する特異点でもある、と。

    >>なるほど。ひょっとすると。。。
    >>アドヴァイタ的な表現を用いれば〈場〉と表現するのはブラフマン(宇宙=世界)をフォーカスしており、〈点〉と表現するのはアートマン(真我)をフォーカスしているのかな?と思いました。
    > そうですね。「世界を開く〈点〉」というと、「世界(存在)」よりも〈点〉の方に主導権があり、「世界が現成する〈場〉」というと、〈場〉よりも「世界(存在)」の方に主導権があるように私には感じられます。
    > 自らは空(空っぽ)になって存在が自ら立ち現れるのをただ見守る「存在の牧者」の態度は、主観性を克服できていない人間中心的な従来の哲学の態度への批判になっていると思います。

    同意です。さらに付け加えてパニチェ的に言えば神を客体化し根本存在とする西洋的な発想への批判でもあります。

    マッハ的光景
    ttp://zaitakuclinic.blog97.fc2.com/blog-entry-178.html?sp

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■27799 / inTopicNo.17)  Re[14]: 点と場
□投稿者/ bwv602 -(2022/12/05(Mon) 22:47:21)
    こんばんは、パニチェさん。

    > >>言語化つまり思考された対象は既に自我や自己という手垢が付いています、その時点で既に「観られるもの」と「観るもの」に分断化しています。
    > >>唯識で言うところの第六意識(末那識を土台として立ち起こる自我)が働く以前、西田幾多郎が言うとのころの「純粋経験」みたいなイメージで自己という色が付く以前の存在みたいな譬えとして「無色透明」と表現しています。
    > > 分かりました。ありがとうございます。

    > どういたしまして。これ蛇足なんですが。。。
    > 上記は永井均著『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』を購入するまでに返信したのですが、今、読み進んでみるとやはり永井さんの西田哲学に関する読解と凄く共通するところがあるようですね。


    そうですね。
    パニチェさんは「無色透明」とおっしゃいましたが、「透明」ということは以前から瞑想中に私も感じていたことで、まさに「透明」という語が思い浮かんだことも何度かあります。それは、自我の殻がどんどん薄くなっていって、全ての存在と地続きになっていくような感覚です。大袈裟に言えば「無我の実感」と言えるかも知れません。
    永井均さんは、無の場所というのは「悟りのごとき特別の境地を意味しているのではなく、単純にして卑近な事実を指している」(p.57)と言っていますが、それと同じように無常や無我も、ブッダが生まれる前からあった自然の法そのものなので、それは特別な境地によって到達されるようなものではなく、ただそれを真に「実感」できるかどうかが問題なのかも知れないと思います。
    永井均さんも最後のところで、「その単純あたりまえのことを真に実感するのには、もはや、ある種の『境地』が必要とされるのである」(p.99)と書いていますね。

    (私が上記のように無我を実感するのは、集中〔止観の止〕に重きを置いた座る瞑想をしている時です。他方、観察〔止観の観〕に重きを置いた歩行瞑想をしている時には、自分の身体と心を外側から観ることによって無常と無我を知ることを目指しています。どちらも無常と無我を《真に実感する》ことを目指しているのは同じですが、止と観は方向性が全く違っており、私は両者の関係性がまだはっきりとは分かっていません。)


    > 上記のようなところが打ち出されている箇所は『存在と時間』ではどの辺にありますか?


    〈現存在〉を、存在が現成する空け開けた〈場〉とする見方は、『存在と時間』よりも、『形而上学入門』以降の著作に強くあらわれていると思います。とくに「真の主著」とも言われる『哲学への寄与(性起について)』では、「空開処(Lichtung)」が重要語の一つになっていると思います。
    ハイデガーは、「主観」としての人間が、存在者を「客観(対象)」として「表象する(フォア・シュテレン=自分の前に・像として立てる)」ような従来の哲学の態度(存在者の主人)では存在そのものは露わにならないとして、〈現存在〉は存在の到来を見守る「存在の牧者」でなければならないとしています。

    『形而上学入門』の後書きで訳者の川原栄峰氏が、難解なハイデガーを読むコツを書いているので、その一部を引用します。
    「この『形而上学入門』全体を理解するためのコツのようなものがあるので書き足しておく。・・(中略)・・『形而上学入門』の全体はこの『存在(ある)=眼の前に既にある』との闘いだと解する・・・これがコツである。いま闘いと言ったが、ハイデッガーがこの世で最も嫌うものはこのフォアハンデンハイトであろう。別の講義で彼はこれを『哲学の不倶戴天の敵』とまで呼んでいる。・・・フォアハンデンハイトとは通俗的だけでなく哲学的にも自明事とされてしまっている存在の意味のことであり、この語を直訳すると『手前性』となるが、今日では『直前性』という訳語が定着しかけている。とにかく『ある』のでなければ始まらない。しかる後にそれを人が道具として、邪魔者として、客観として、さらにはカンケイナイものとしてそれへと関係しうる。そういう関係が可能になるためにも、とにかくまず『ある』のでなければならない。この『ある』の意味、つまり《存続的現存性》、これがフォアハンデンハイトである。これは実は派生した、平坦化された、通俗的な、退落的な存在の意味、いわば存在の意味のなれの果てなのだか、それにもかかわらず、通俗的にも哲学的にもこれが基本的な存在の意味と思い込まれ、こともあろうにこれが人間つまり現存在の存在の意味にまで逆流してきて、人間の存在も《主観》とか《自我》とかと規定されるに至っている。だが事態は逆である。人間の現存在の実存における根源的時間性の時熟こそは存在の意味のいわば根なのである。・・(中略)・・
    なお『空開処』(Lichtung)は普通は『空き地』を意味する。山林の一部を伐採して空き地を作ると、そこへ日光が射し込み雨が降り注いで作物が育つ(焼き畑農業? 漢字の『無』の字がそのことをかたどっている)。ハイデッガーはこのことを承知のうえで『空開処』の語を術語として用いる。ハイデッガーにおいては『空開処』は人間の現-存在の『現』という場処のこと、空いている、開いている、明いている場処のことであって、ここで存在が自らを人間に委ね、ここで存在の非隠蔽性つまり真理が現成する。『存在の牧者』としての人間の本質のいわば深奥の場処である。」


    > すみません。何故。西田が「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と述べているのか私には分かりません。
    > 「物ではなく場所でなければならぬ」というのは何となく分かります。極論すれば世界の全ても含まれるわけですから(一即一切一切即一)、〈場〉と表現されているのでしょうね。
    > これは想像ですが物は特定の位置を持つものであることから、それに対比させ〈点〉としているのかな?と考えました。


    そう思います。それ自身は現象世界の内部にあるものではなく、しかも現象世界の内部のものの全てを「包むもの(p.52)」という意味で「円」という表現になっているのではないかと思います。永井均さんの解釈では、その「円」はp.93の図のようなイメージになるのだと思います(この図には「汝」も出てきますが)。


    > 特異点など〈点〉としているのは無限小であるからで、無限小であるから世界と合一するのであって、この点においては西田の「絶対無」とも相通じるのかな?と考えています。

    「無限小であるから世界と合一する」というところをもう少し説明していただけますか?


    > なるほど。ひょっとすると。。。
    > アドヴァイタ的な表現を用いれば〈場〉と表現するのはブラフマン(宇宙=世界)をフォーカスしており、〈点〉と表現するのはアートマン(真我)をフォーカスしているのかな?と思いました。


    そうですね。「世界を開く〈点〉」というと、「世界(存在)」よりも〈点〉の方に主導権があり、「世界が現成する〈場〉」というと、〈場〉よりも「世界(存在)」の方に主導権があるように私には感じられます。

    自らは空(空っぽ)になって存在が自ら立ち現れるのをただ見守る「存在の牧者」の態度は、主観性を克服できていない人間中心的な従来の哲学の態度への批判になっていると思います。





引用返信/返信 削除キー/
■27783 / inTopicNo.18)  Re[7]: 純粋経験
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/03(Sat) 21:12:56)
    No27781に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > No27779
    > あらそうだったのね。パニさん宛だったらなおさらね、
    > >おそらく返信にはなってないとは思うけど。<
    > うん、そうね。

    せやろ。^^

    > >「大いなる正午」とは超人が誕生するやがてくるであろう時のこと。<
    > >ユダヤ・キリスト・イスラム教的な<は既得の、でわたしにとってはどうでもいいんだけど、ニーチェの言う<超人>って、<人>、〈人間〉っていうことでいいかしら?

    そそ。ニーチェ的な達観に達した人です。

引用返信/返信 削除キー/
■27781 / inTopicNo.19)  Re[6]: 純粋経験
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/03(Sat) 19:56:00)
    No27779
    あらそうだったのね。パニさん宛だったらなおさらね、
    >おそらく返信にはなってないとは思うけど。<
    うん、そうね。

    >「大いなる正午」とは超人が誕生するやがてくるであろう時のこと。<
    >ユダヤ・キリスト・イスラム教的な<は既得の、でわたしにとってはどうでもいいんだけど、ニーチェの言う<超人>って、<人>、〈人間〉っていうことでいいかしら?



引用返信/返信 削除キー/
■27780 / inTopicNo.20)  善悪の彼岸&大いなる正午
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/03(Sat) 19:28:43)
    No27778に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > もうちょっと。

    > ニーチェの「善悪の彼岸」「大いなる正午」って、
    > 〈そこ〉も〈ここ〉もない世界なんじゃないかしら?

    「善悪の彼岸」というのはユダヤ・キリスト・イスラム教的な善悪二元論道徳(ニーチェは奴隷道徳とも表現する)の彼岸ということ。

    「善悪の彼岸」をキリスト教的ドグマから見ればニーチェ用語の「アンチクリスト」かつ「インモラリスト」になる。

    「大いなる正午」とは超人が誕生するやがてくるであろう時のこと。
    プラトンの影(背後世界)が払拭される時、これを最も影が短くなる正午とかけてる。

引用返信/返信 削除キー/
■27779 / inTopicNo.21)  Re[4]: 純粋経験
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/03(Sat) 19:19:29)
    こんばんは、悪魔ちゃん。レスありがとう!

    No27777に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > あ、ごめん、永井ちゃん宛でパニさん宛じゃなくなっちゃみたい。

    先のカキコは永井さんの引用ではなくて、私ことパニチェのカキコです。
    だから悪魔ちゃんのレスは私宛になります、

    > お邪魔しま〜す、パニさん。
    >
    > No27776、ちょと思っちゃたんだけど、

    あいよ。

    > 永井ちゃん、なに言ってるのかしらね。

    わし、わしw

    > 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」は、
    > その人が身をおいた自然の風景のなかで、その人に感じられたものを、その人の「私」の精神的景観をめざし、それを言葉で表現した、っていうことなんじゃないかしら?

    普通に読むとそうなるね。
    本では「国境の云々」に主語がない(日本語の特徴でもあるんだけど)ことから永井さんは主客が分れる以前の純粋経験に結びつけてます。

    パニチェからすれば「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の方が分かりやすい。
    これ言葉ではなかなか説明しんいくいんだけど見性体験っぽい句だと思う。
    ある光景を思い浮かべた時にそれを見ている主体の存在が薄まっているというか景色や音と一体化しているように読めるってこと。

    > これって、たしかに「経験」のうちで、ってわたし思ってるんだけど、「純粋」っていうのをわざわざ付ける必要がどこにあるのかしらね、って。

    西田哲学の純粋経験ってのは悪魔ちゃんが考えている意味と少し違うと思うよ。
    仏教用語で言えば何かに没頭しているような三昧ってことになる。
    >
    > >それを見る主体と見られる(経験対象となる)ものとが不分離であり、そこに経験と分離した我や私はいない、経験に私が、あるいは〈私〉に経験が融け込んでいるということ。<
    > って言っておきながら、
    > >雪国の景色、蛙が飛び込んだ古池、水の音だけがそこにある。<
    > だって〜?、なにこれ。

    分からないだろ〜な。^^

    > 永井ちゃん、
    > <雪国の景色>、<蛙が跳び込んだ水の音>、感じてるのはだれ?
    > <そこにある>っていうんだったら<ここ>もあるはずよね。
    > 〈そこ〉も〈ここ〉のない状態っていうのは見ないのかしら?

    ちょい説明しにくいけど「ここ」「今」ってことであって、「そこ」とか「過去」ではない。
    見性体験に近い表現ってこと。
    おそらく返信にはなってないとは思うけど。。。

引用返信/返信 削除キー/
■27778 / inTopicNo.22)  Re[4]: 純粋経験
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/03(Sat) 19:09:17)
    もうちょっと。

    ニーチェの「善悪の彼岸」「大いなる正午」って、
    〈そこ〉も〈ここ〉もない世界なんじゃないかしら?

    永井ちゃんの言う、
    >それを見る主体と見られる(経験対象となる)ものとが不分離であり、そこに経験と分離した我や私はいない、経験に私が、あるいは〈私〉に経験が融け込んでいるということ。<
    それすらもない、っていうこと。


引用返信/返信 削除キー/
■27777 / inTopicNo.23)  Re[3]: 純粋経験
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/03(Sat) 18:19:13)
    お邪魔しま〜す、パニさん。

    No27776、ちょと思っちゃたんだけど、

    永井ちゃん、なに言ってるのかしらね。

    「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」は、
    その人が身をおいた自然の風景のなかで、その人に感じられたものを、その人の「私」の精神的景観をめざし、それを言葉で表現した、っていうことなんじゃないかしら?

    これって、たしかに「経験」のうちで、ってわたし思ってるんだけど、「純粋」っていうのをわざわざ付ける必要がどこにあるのかしらね、って。

    >それを見る主体と見られる(経験対象となる)ものとが不分離であり、そこに経験と分離した我や私はいない、経験に私が、あるいは〈私〉に経験が融け込んでいるということ。<
    って言っておきながら、
    >雪国の景色、蛙が飛び込んだ古池、水の音だけがそこにある。<
    だって〜?、なにこれ。

    永井ちゃん、
    <雪国の景色>、<蛙が跳び込んだ水の音>、感じてるのはだれ?
    <そこにある>っていうんだったら<ここ>もあるはずよね。
    〈そこ〉も〈ここ〉のない状態っていうのは見ないのかしら?

    あ、ごめん、永井ちゃん宛でパニさん宛じゃなくなっちゃみたい。



引用返信/返信 削除キー/
■27776 / inTopicNo.24)  純粋経験
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/03(Sat) 17:02:38)
    永井均著『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』の冒頭に紹介されている川端康成の『雪国』の書き出し。

    「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と同じく純粋経験的な記述である。

    それを見る主体と見られる(経験対象となる)ものとが不分離であり、そこに経験と分離した我や私はいない、経験に私が、あるいは〈私〉に経験が融け込んでいるということ。

    雪国の景色、蛙が飛び込んだ古池、水の音だけがそこにある。


引用返信/返信 削除キー/

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