| こんばんは、パニチェさん。
> >>言語化つまり思考された対象は既に自我や自己という手垢が付いています、その時点で既に「観られるもの」と「観るもの」に分断化しています。 > >>唯識で言うところの第六意識(末那識を土台として立ち起こる自我)が働く以前、西田幾多郎が言うとのころの「純粋経験」みたいなイメージで自己という色が付く以前の存在みたいな譬えとして「無色透明」と表現しています。 > > 分かりました。ありがとうございます。
> どういたしまして。これ蛇足なんですが。。。 > 上記は永井均著『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』を購入するまでに返信したのですが、今、読み進んでみるとやはり永井さんの西田哲学に関する読解と凄く共通するところがあるようですね。
そうですね。 パニチェさんは「無色透明」とおっしゃいましたが、「透明」ということは以前から瞑想中に私も感じていたことで、まさに「透明」という語が思い浮かんだことも何度かあります。それは、自我の殻がどんどん薄くなっていって、全ての存在と地続きになっていくような感覚です。大袈裟に言えば「無我の実感」と言えるかも知れません。 永井均さんは、無の場所というのは「悟りのごとき特別の境地を意味しているのではなく、単純にして卑近な事実を指している」(p.57)と言っていますが、それと同じように無常や無我も、ブッダが生まれる前からあった自然の法そのものなので、それは特別な境地によって到達されるようなものではなく、ただそれを真に「実感」できるかどうかが問題なのかも知れないと思います。 永井均さんも最後のところで、「その単純あたりまえのことを真に実感するのには、もはや、ある種の『境地』が必要とされるのである」(p.99)と書いていますね。
(私が上記のように無我を実感するのは、集中〔止観の止〕に重きを置いた座る瞑想をしている時です。他方、観察〔止観の観〕に重きを置いた歩行瞑想をしている時には、自分の身体と心を外側から観ることによって無常と無我を知ることを目指しています。どちらも無常と無我を《真に実感する》ことを目指しているのは同じですが、止と観は方向性が全く違っており、私は両者の関係性がまだはっきりとは分かっていません。)
> 上記のようなところが打ち出されている箇所は『存在と時間』ではどの辺にありますか?
〈現存在〉を、存在が現成する空け開けた〈場〉とする見方は、『存在と時間』よりも、『形而上学入門』以降の著作に強くあらわれていると思います。とくに「真の主著」とも言われる『哲学への寄与(性起について)』では、「空開処(Lichtung)」が重要語の一つになっていると思います。 ハイデガーは、「主観」としての人間が、存在者を「客観(対象)」として「表象する(フォア・シュテレン=自分の前に・像として立てる)」ような従来の哲学の態度(存在者の主人)では存在そのものは露わにならないとして、〈現存在〉は存在の到来を見守る「存在の牧者」でなければならないとしています。
『形而上学入門』の後書きで訳者の川原栄峰氏が、難解なハイデガーを読むコツを書いているので、その一部を引用します。 「この『形而上学入門』全体を理解するためのコツのようなものがあるので書き足しておく。・・(中略)・・『形而上学入門』の全体はこの『存在(ある)=眼の前に既にある』との闘いだと解する・・・これがコツである。いま闘いと言ったが、ハイデッガーがこの世で最も嫌うものはこのフォアハンデンハイトであろう。別の講義で彼はこれを『哲学の不倶戴天の敵』とまで呼んでいる。・・・フォアハンデンハイトとは通俗的だけでなく哲学的にも自明事とされてしまっている存在の意味のことであり、この語を直訳すると『手前性』となるが、今日では『直前性』という訳語が定着しかけている。とにかく『ある』のでなければ始まらない。しかる後にそれを人が道具として、邪魔者として、客観として、さらにはカンケイナイものとしてそれへと関係しうる。そういう関係が可能になるためにも、とにかくまず『ある』のでなければならない。この『ある』の意味、つまり《存続的現存性》、これがフォアハンデンハイトである。これは実は派生した、平坦化された、通俗的な、退落的な存在の意味、いわば存在の意味のなれの果てなのだか、それにもかかわらず、通俗的にも哲学的にもこれが基本的な存在の意味と思い込まれ、こともあろうにこれが人間つまり現存在の存在の意味にまで逆流してきて、人間の存在も《主観》とか《自我》とかと規定されるに至っている。だが事態は逆である。人間の現存在の実存における根源的時間性の時熟こそは存在の意味のいわば根なのである。・・(中略)・・ なお『空開処』(Lichtung)は普通は『空き地』を意味する。山林の一部を伐採して空き地を作ると、そこへ日光が射し込み雨が降り注いで作物が育つ(焼き畑農業? 漢字の『無』の字がそのことをかたどっている)。ハイデッガーはこのことを承知のうえで『空開処』の語を術語として用いる。ハイデッガーにおいては『空開処』は人間の現-存在の『現』という場処のこと、空いている、開いている、明いている場処のことであって、ここで存在が自らを人間に委ね、ここで存在の非隠蔽性つまり真理が現成する。『存在の牧者』としての人間の本質のいわば深奥の場処である。」
> すみません。何故。西田が「一つの点ではなく一つの円でなければならぬ」と述べているのか私には分かりません。 > 「物ではなく場所でなければならぬ」というのは何となく分かります。極論すれば世界の全ても含まれるわけですから(一即一切一切即一)、〈場〉と表現されているのでしょうね。 > これは想像ですが物は特定の位置を持つものであることから、それに対比させ〈点〉としているのかな?と考えました。
そう思います。それ自身は現象世界の内部にあるものではなく、しかも現象世界の内部のものの全てを「包むもの(p.52)」という意味で「円」という表現になっているのではないかと思います。永井均さんの解釈では、その「円」はp.93の図のようなイメージになるのだと思います(この図には「汝」も出てきますが)。
> 特異点など〈点〉としているのは無限小であるからで、無限小であるから世界と合一するのであって、この点においては西田の「絶対無」とも相通じるのかな?と考えています。
「無限小であるから世界と合一する」というところをもう少し説明していただけますか?
> なるほど。ひょっとすると。。。 > アドヴァイタ的な表現を用いれば〈場〉と表現するのはブラフマン(宇宙=世界)をフォーカスしており、〈点〉と表現するのはアートマン(真我)をフォーカスしているのかな?と思いました。
そうですね。「世界を開く〈点〉」というと、「世界(存在)」よりも〈点〉の方に主導権があり、「世界が現成する〈場〉」というと、〈場〉よりも「世界(存在)」の方に主導権があるように私には感じられます。
自らは空(空っぽ)になって存在が自ら立ち現れるのをただ見守る「存在の牧者」の態度は、主観性を克服できていない人間中心的な従来の哲学の態度への批判になっていると思います。
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