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■30453 / inTopicNo.25)  Re[52]: :「意識」
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/24(Mon) 20:39:50)
    No30451
    ちょと言い方、違ったかも?って。

    「リアルな知覚」じゃなくて、
    「知覚のリアル」かな?

    いずれにしても、なんかそんな感じの。
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■30451 / inTopicNo.26)  Re[51]:「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/24(Mon) 19:36:11)
    ちょっと思いついたんで、簡単に。

    No30415
    (h)【『見えるものと見えないもの』1964滝浦静雄・木田元訳みすず書房1989】の、反省と問いかけ[ 知覚的信念とそのあいまいさ ](p11)の
    「知覚的信念とその曖昧さ」を絵にして見たよ。

    わたしに見えているのはリンゴのこちら面だけ。
    だから、「リンゴそれ自体」を見ている(知覚されてる)わけではないのね。

    これがリアルな知覚なんだと思う。


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■30420 / inTopicNo.27)    間奏
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/23(Sun) 17:27:48)
    No30415の私絵は、添付したようにも描けるよ。

    どちらが〈主〉でどちらが〈客〉なのか分かんなくなる。

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■30415 / inTopicNo.28)  Re「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/23(Sun) 10:52:49)
    つれづれなるままに、
    〈私の外に、私から独立して対象物があるのではなく、私がそういう対象をつくりあげている〉、っていうのは、

    (g)【「カント」小牧治著清水書院1967】のなかに、
    「コペルニクス的転回」と題してあって、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    自然科学的な真理(あるいは「認識」)は、いかにして可能であろうか。いいかえれば、自然科学上の先天的総合判断は、いかにして可能であろうか。くりかえすまでもないが、ここで問われているのは、自然科学上の(あるいは数学上の)何かある特定の真理(真理の内容)が問われているのではない。そういう真理がどうして構成されるかという、真理を形成ないし方法が問題なのである。・・・・・・・
    いっぱんに「自然の真理」を把握するというのは、何かわれわれの外に、われわれから独立して存在している対象を、あるがままにうつし取った場合と考えられている。自然の対象の姿を、あるがままに「表象」できた場合だと考えられている。この一致(対象の姿と表象との一致)が真理であるとしたとき、いったい、その一致をどうして調べることができるのか、何をもってして一致しているとみなすのか、対象は向こう側、表象はこちら側、だれが両者を比較して、その一致を判定するのか。・・・。そこで、「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っているのではないだろうか。また、「自然の対象の姿を捉えるという場合」、それは、「経験による」ほかないだろう。しかし、経験は、カントが問題にする先天的総合判断(普遍的・必然的な真理)を与えることはできない。そこで、カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    から拝借しました。

    他の資料を、

    (h)【『見えるものと見えないもの』1964滝浦静雄・木田元訳みすず書房1989】から、
    反省と問いかけ[ 知覚的信念とそのあいまいさ ](p11)とあって、
    **********
    われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。

    [この章の表題の向かい側に、著者の注]――信念という概念を明確化すべし。これは決断的な意味における信念ではなく、一切の定位以前にあるものという意味での信念であり、動物的および[?的]信念である。
    **********

    (i)コトバンクから、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    素朴実在論naive realism
    外界の物質的対象は、われわれが知覚するとおりに、そしてまた、われわれが知覚するということとは独立に存在する、とする考え方。われわれの日常的・常識的な世界の見方にほぼ一致するといえよう。意識・精神を基底に据える近代以降の認識論において厳しい批判を受けたが、G・E・ムーアなど20世紀イギリスの日常言語学派の哲学者たちによる常識的信念の基本的な重要性の指摘は、素朴実在論を安易に批判することに対する一種の反省となっている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    〈私の外に、私から独立して対象物があるのではなく、私がそういう対象をつくりあげている〉、
    だからといって、「対象物は存在しない」とはならないのね。だって、私がつくりあげている〈対象〉は「対象物」の、だから。〈対象〉は「対象物」が前提となってる、っていうこと。(g)で問題としてるのは、「対象物」とその〈対象〉(私の意識の中で構成されているもの)とが必ずしも一致しているとは限らない、っていうことなんじゃないかしら?でもそれでいいんじゃない?って、わたし思う。

    No30238の(c)にあるような、フッサールの問い。
    (a)対象を志向し認識する意識主観の諸機能は何か
    (b)志向される対象は意識主観に対して、どのような仕方で存在者として与えられうるか
    こういう方向に問いを展開していく方が、わたしには関心がある。

    わたしの勝手なのを振り返って、
    1)わたし、「対象」っていうのを知覚的意識(感性の世界)のうちに位置づけちゃってるから、〈私の外に、私から独立してあるもの〉というのを、これと区別するために「対象物」ってして区別して見たんだけど。そして、〈「対象物」はすべて私の意識(主観)のうちで構成されている〉、っていう見方をするとき、私の意識の外にあるものとしての対象物は、〈私の意識から超越して、独立して在るもの〉っていう見方をすると、「超越論的」っていうことになるのかも?
    2)〈感性の世界〉を〈思-考〉が志向している(感性の世界が思-考の対象となっている)って見て、〈思-考〉にとって〈感性の世界〉を超越的って見ると、〈思-考〉にとって〈感性の世界〉は超越論的現象ってなるかも?

    私の意識(主観)は、感性ちゃん、思考くん、記憶さん、感情さんたちが織りなすオートマティックな営み――流れ去る多様の統一、みたいなの。

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■30404 / inTopicNo.29)  世界信念
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/22(Sat) 21:07:35)
    まだ「意識」のつづきね。

    No30341の(d)にあった「世界信念」について、私絵と絡めて、

    【西研】現象学入門 第二回 超越論的現象学とは - YouTube

    のを見て、わたしなりに簡単にまとめたのは、

    /////////////////////
    超越論的現象学について、

    (1)意識体験の中でものがある。
    (2)意識の外側に出ることは不可能である。
    (3)意識から独立したもの(客観的世界、無意識、神など)がある、ということは、じつは意識のなかで信じれれている、とみなす。このとき、意識の「外側」にはもはや存在しない。

    (4)対比的に、
    (4-1)一般的・心理学的現象学的還元は、
    意識体験の領野のみを注視して、そこから読みとれることだけを語ろうとする姿勢。
    そのさい「意識体験の外側に客観的世界があること」は素直に信じられている。しかしそのままでは、
    (a)認識問題(主客一致の難問、普遍主義と相愛主義の対立と交替)を解決できない。
    (b)「自然と社会は意識を包括するのだから、自然科学・社会科学のほうが、現象学より優越する」とみなされる可能性を残す。
    これに対し、
    (4-2)超越論的還元(=超越論的現象学)は、
    意識体験の「外側」を認めない。すべては意識のなかで〜として確信されているとみなす。
    →自然科学も意識のなかで考えられているもの、とみる。
    →科学も信頼性もあるけど、意識のなかに現れ、意識のなかで確かだと信頼している、ことになる。
    この信頼性を解明するためにも、意識体験そのものを、そこに戻って、考える。

    (5)超越論的現象学は「超越論的問題」を解明する。
    意識から超越して(意識から独立して)、存在すると信じられてるものごとも、実は意識のなかで信じられている。
    ではそれがどうやって成り立つのか、を解明するのが超越論的問題。
    (5-1)超越論的問題
    意識を超越して(意識から独立して)存在すると信じられている物事(超越物Transzendental)は、意識のかなでいかに成り立つのか。

    (6)「世界信念」の成立ち
    「世界信念」=世界が私の意識から独立していて存在しているという信念
    では,
    →この信念がどのようにして成り立つのか?
    →正しい認識、客観的認識はあると思うけど、それはどうして成立するのか?
    を考える。
    a)自他の体験の調和(まとまり)が世界信念をつくる。
    b)他者の言葉やふるまいから、私が知覚するこの物体を他者もまた知覚していると、信じられる。
    c)自他との共有現実がある。
    d)体験によって、私の意識の外に世界が、現実が存在する、という確信が生まれる。
    ////////////////////////

    違うのかも、だけど、よ。

    (1)、(2)はカントのコペルニクス的転回から来てるんだとわたし見てる。こういうのについてはまた後で見て見ることにして、

    「世界信念」について、西研さんのフッサールのは、(6)のようなものだとして。

    こういうのを絵にして見たのを添付します。

    Iちゃんは地の上の図(カエル)の存在に気づき、「カエルが存在している」と言葉で表現する。Lちゃんもその存在(カエル)に気づき「ほんとだ」と同意する。そしてわたしも「そこにカエルは存在するよね〜」って思う。こうゆう自他との体験によって、私の意識の外に世界が、現実が存在する、という確信が生まれる、みたいなのを描いて見ました。

    ここんところは、〈私の外に、私から独立して対象物があるのではなく、私がそういう対象物をつくりあげている〉に絡まってくるから、後でもう少し見ていく。

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■30397 / inTopicNo.30)  忘れないうちに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/22(Sat) 15:52:23)
    いろんなの想い出されて、心にうつりゆくよしなしごとを、忘れないうちに、書いとく。

    記号をつけとく。
    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】を〔MC上・下〕、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】を〔MP〕、
    【『見えるものと見えないもの』1964滝浦静雄・木田元訳みすず書房1989】を〔MV〕、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】を〔FD〕、
    【「メルロ=ポンティコレクション」モーリス・メルロ=ポンティ中山元編訳筑摩書房1999】を〔MN〕、
    ってする。

    No30341の(f)の、
    『〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識は、〈無数の真なる判断の対象としての世界〉についての〈知性的意識〉とは異なるものである。』(MC下/原注p188)
    っていう「世界」についての「知覚的意識」と「知性的意識」との区別について、

    〔MC下〕(p148)のなかで似たような記述がある。
    『〈世界についての知〉と、世界のこれこれの一区画やそれに隣接する地平についての〈私の知覚〉とを混同してはいけない。』

    ここんとこ、
    『〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識』=『世界のこれこれの一区画やそれに隣接する地平についての〈私の知覚〉』
    『〈無数の真なる判断の対象としての世界〉についての〈知性的意識〉』=『〈世界についての知〉』
    のように思える。

    「世界」って呼んでるもの、(f)にあるような『諸対象を現実性として考えるような〈不定な対象野〉』なんだと思う。このような〈不定な対象野〉みたいな世界を、
    No30341で、『フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。』ってある。

    わたしのばあい、「世界」を「存在」とも呼んでて、「世界(存在)」を「自然的存在」と「文化的存在」とに分節して見てる。
    で、「身体」は自然的存在になるのね。私は身体という臍の緒で自然と結びついているのね。もし文化的在り方がこの臍の緒を切るようなものになってると、私は生きていけなくなる。

    「自然」について、
    〔MC上〕(p25)序論の最初に、
    『われわれの目的は、〈意識〉と〈自然〉――有機的、心理的、さらには社会的な自然――との関係を理解することである。ここで自然とは、互いに外的で、因果の諸関係によって結ばれた多様な出来事を意味する。』ってあって、こういう「出来事としての自然」に対して「対象としての自然」を区別しているみたい。
    〔MN〕に、
    『出来事としての自然、あるいは出来事の総体としての自然は、対象としての自然、対象の総体としての自然とは異なるものである。』(p177)
    ってあった。
    「対象としての自然」っていうのは、自然科学のように、自然を“対象として見て”みたいな感じなのかな?こういうのって、自然を“私の外に置いて”見る、とか“客観的に見る”っていうのかな?ようするに「対象物」として見る、こんな感じかな。
    でもね、“私の外に置いて見る=客観的に見る?”っていったって、そう見ているのは私なんだから、これもやっぱ“主観のうちで”っていうことになるんじゃない?
    メルポンは、
    『私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】(MP-p253)
    って言ってる。こういうのから見ると、私は私を外(前)に置いて見ることはできないんじゃないかしら?

    わたしの身体をメルポンが言うような「出来事としての自然」の方で見ると、わたしの両親が互いに外的で因果の諸関係によって結ばれた多様な出来事によって、わたしの身体が生まれてる、みたいな。

    「身体」について、

    〔FD〕の訳注(p300)に、
    〔空間的場所としては、私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」と呼んだ。〕

    『身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である』(MP-p248)

    『〈身体の媒介〉というものは、たいていいのばあい、私によって見逃されているものである』(MC-p106)

    『身体は「世界における(への)存在」の媒介である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境に加わり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。』(MP-p149)

    『精神は身体を利用するのではなく、身体をたえず物理的空間の外へ移行させながら、身体を通じて生成するのである』(MC下p142)

    『精神を身体の裏面として定義すること――われわれは身体によって裏打ちされていないような、〔身体という〕この土壌の上に身を落ちつけていないような精神の観念はもっていない。――』(MVp381)

    あと、
    『私は絶対的な根源である』(MP-p4)
    って言ってる。


    世界、自然、私、身体、意識(精神)、それぞれの関係性について、わたしの記憶にあるメルポンの、少しだけ抜粋してまとめて見ました。

    『私を「世界における(への)存在」(etre au monde)として露呈する』っていういうの、ちょっと思ったんだけど、
    世界を私の“外にあるもの”として見るんじゃなくて、私を〈世界-内-存在〉として見る、っていうことなんじゃないかな、って。

    最近の私の分節の仕方を図にして見たんだけど、添付します。それぞれの関係性がわたしの課題。

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■30362 / inTopicNo.31)  Re[46]: レヴィ・ストロース
□投稿者/ 田秋 -(2023/04/20(Thu) 20:08:34)
    こんば、悪魔ちゃん

    >わたし、テレビ持ってない。
    そりはじゃんねん


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■30360 / inTopicNo.32)  Re[45]: レヴィ・ストロース
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/20(Thu) 18:14:40)
    こんにちわ、田秋さん、
    No30351、ありがと〜!
    BS231って、テレビ放送よね?
    わたし、テレビ持ってない。

    とっても残念。
引用返信/返信 削除キー/
■30353 / inTopicNo.33)  Re[44]: レヴィ・ストロース
□投稿者/ 田秋 -(2023/04/20(Thu) 09:05:17)
    直前の書き込みの画像です。

    >他の方で興味のある方はどうぞご覧下さい。
    他の方で興味のある方《も》どうぞご覧下さい。


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引用返信/返信 削除キー/
■30351 / inTopicNo.34)  レヴィ・ストロース
□投稿者/ 田秋 -(2023/04/20(Thu) 08:34:41)
    おはよう、悪魔ちゃん

    悪魔ちゃんちでBS231が映ればの話だけど、今日21時からレヴィ・ストロースの講演が放送されます。字幕も付いてるようです。

    BS231は放送大学のチャンネルですが、放送大学の学生でなくても誰でも視聴できます。

    他の方で興味のある方はどうぞご覧下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■30341 / inTopicNo.35)  Re[42]: :意識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/19(Wed) 18:52:21)
    わたしが「意識」と「認識」とを区別してるのは、次のようなものを読んでるなかでね。

    (d)【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』 1942年 滝浦静雄・木田元訳2014みすず書房】のなかに、
    ****************
    『人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならないのであるが、しかるにハイデガーの言う企投なるものは(『存在と時間』によれば、それがわれわれに現実の理解可能性を与えてくれるはずのものである)、日常的実存の主体が釘を打って物をつくる以上は〈腕をあげ〉、時計を見るからには〈目を向け〉、車に乗って行くからには〈向きを定める〉のだということを、すでにあらかじめ前提しているからなのである。つまり、行動したり身体を動かしたりする機能や知覚の能力が「自明」なものとあらかじめ判断されてしまえば、後は、人間存在が右(上)のようなさまざまの営みを果たしうるというように、なんの問題もおこらない道理であろう。ひとびとが常識の「自明さ」を最後まで問いつめた試しはいまだかつてなかったが、ハイデガーの読者も、われわれの意図している〈世界の記述〉において彼の展開する精細さが、その引きかえに、「つねに−すでに−そこに」あるわれわれの世界*をまったく無視していたのだということに、後になって、やっと気づくというわけである。』(p8)

    *原注
    フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。彼は、『経験と判断』のなかでその世界を次のように性格づけている。「環境は、前所与性〔=あらかじめ与えられてあること〕、つまり受動的前所与の領域として、すなわち、われわれがなんの深いかかわりもなく、把捉的まなざしを向けることもなく、なんの関心も目覚めないままのとき、つねに、すでにそこにある前所与性の領域として、同時にそこにあるものである。いかなる認識活動も、個々の対象に向う把捉活動も、すべてこの受動的前所与性の領域を前提としている」しかし、じつはこの前述語的経験は、認識ばかりではなく〈主題〉をもった活動(ハイデガーによれば「として−構造」をあらわす経験にも先行するのである。「世界信念という、この普遍的基底は、生活的実践であれ、認識とう理論的実践であれ、あらゆる実践となるものである」
    *****************
    っていうのがあって、

    (e)【モーリス・メルロ=ポンティ著『知覚の現象学』中島盛夫訳発行所財団法人法政大学出版局】のなかに、
    『…‥フッサールが初期の現象学に与えた命令、つまり「記述的心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、(p3)…‥事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。(p5)…・』
    っていうのがあた。

    『認識という理論的実践』(理論的実践を「認識」と呼んでいる?)とか、『認識に先だつ世界』っていうことから、わたしのばあい、「意識」と「認識」は区別して、意識のなかの認識、っていう感じになるかな。
    この『認識に先だつ世界』っていうのを『人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならない』っていうことから、〈感-知覚の世界(領域)〉かな?ん?メルポンのことだから、〈身体-感-知覚の世界〉かな?

    『フッサールは、この世界を前述語的と名づけ』――なんだけど、自然って何も語らず、語ってるのは人間だけ、かな?
    こういうこと言ってるんじゃないかも、だけどね。

    ここに『世界信念』っていのあるけど、これについては後で。

    もうひとつ、
    (f)【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』 1942年 滝浦静雄・木田元訳2014みすず書房】の原注(下p188)に、
    『ハイデガーが示唆しているように、「世界」というものの知覚がないかどうか、すなわち諸対象を現実性として考えるような〈不定な対象野〉に近づく仕方がないかどうかを知る問題は、保留しておこう。たしかなことは、〈知覚されるもの〉は私の肉眼に映るものにのみかぎられない、ということである。私が机に座っているとき、空間は、概念としてばかりではなく現実性としても私の背後で閉じているのである。〈知覚されるもの〉の地平が世界の果まで広げられうるものとしても、〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識は、〈無数の真なる判断の対象としての世界〉についての〈知性的意識〉とは異なるものである。』
    っていうのもあった。
    ここから、「意識」を『知覚的意識』と『知性的意識』とに区別。

    No29261(p32)
    で見たようなのを絡めて、
    わたしのは、「知覚的意識」を「受動的総合」ってして、これを「感性」とも言ったりして、「知性的意識」を「能動的総合」ってして見てる。こういうふうに意識を分節してみたなかで、[percept]とか[concept]っていうのを分けてこのなかに位置づけて見た。(ちなみにわたしのばあい「concept(概念)」は〈“思考によって”分類-類され意味づけされているもの〉ってしてる)
    「認識」は『知性的意識』のなかに位置づけて見た。
    「認識」を「意識」として見てしまうと、「知覚的意識(感性)」がおざなりになちゃうかも。

    こういうのを私絵に加えてみたのを添付しま〜す。

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引用返信/返信 削除キー/
■30267 / inTopicNo.36)  Re[41]: :殺
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/16(Sun) 20:14:11)
    確実なのは銃がいいのかも?
    アメリカで実証済み。
    あ、日本でもアベさんで、そうだったかな?
引用返信/返信 削除キー/

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