(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■29186 / inTopicNo.61)  安定のカント沼! (*‘∀‘)
  
□投稿者/ うましか -(2023/01/31(Tue) 22:29:49)
    pipitさん、こんばんはー(・∀・)

    No.29178(pipitさん)

    >こんなに寒いと、カント沼を暖かかく感じるかも!?

    そうなんですよねー(;´・ω・)もしかしてヌマホリック?

    >対象と矛盾する認識ってなんだろう

    ちょっと言い方をかえて(カント曰く「論理的形式には完全にかなっている)認識と矛盾する対象って何があるのかな、、と(;´・ω・)?
    具体例がほしいですね。

    もしかしてアンチノミー論の先取りかな…きっと外れだな( ノД`)シクシク…

    >相変わらずのカントワールド

    五里霧中(ToT)/~~~






引用返信/返信 削除キー/
■29178 / inTopicNo.62)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/01/31(Tue) 16:26:53)
    うましかさん、こんにちは(^O^)
    こんなに寒いと、カント沼を暖かかく感じるかも!?

    No29173
    >なぜなら、たとえ或る認識がその論理形式には完全に適っているにせよ、換言すれば、自己矛盾はおかしていないにせよ、それでもその認識は依然としてその対象と矛盾することがあり得るからである。<

    対象と矛盾する認識ってなんだろう
    (・・;)?

    相変わらずのカントワールド
    安定の沼ですね
    d(^_^o)ヌマ!
引用返信/返信 削除キー/
■29173 / inTopicNo.63)   超越論的論理学 序論V−4
□投稿者/ うましか -(2023/01/30(Mon) 22:51:39)
    2023/01/30(Mon) 22:52:36 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    カント沼の沼地にもどってきました(;´・ω・)

    (/・ω・)/パシャパシャ

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の構想
     V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der allgemeinen Logik in Analytik und Dialektik〕

    ◆ もし真理が認識とその対象との合致にあるなら、このことによって、その対象は他の諸対象から区別されなければならない。なぜなら、もし或る認識が、それが連関付けられる対象と合致しないなら、たとえその認識があるいは他の諸対象については妥当するかもしれない或るものを含んでいようとも、偽であるからである。
    ところで、真理の普遍的な標識〔allegemeines Kriterium der Wahrheit〕は、全ての認識についてその対象の区別なく妥当するようなものであるはずである。しかし、明らかなのは、この標識にあっては認識の全ての内容(認識のとその客観との連関)が捨象されているのに、真理はまさしくこの内容に関わるのであるから、認識のこの内容の真理の微表を問うのは全く不可能であり不合理であるということ、それ故、真理の十分な、しかも同時に普遍的な標識を指示するのは不可能であるということである。
    私たちは既に認識の内容を認識の実質と名付けておいたので、こう言わざるを得ないだろう。認識の真理には、その実質からみていかなる普遍的な標識も要求され得ないが、それは、こうした要求がそれ自身において矛盾したことであるからである、と。

    --- No.28816 からの続き ---

    ◇ しかし、その単なる形式からみた(全ての内容を除去した)認識に関して言えば、同様に次のことは明瞭である。すなわち、論理学は、それが悟性の普遍的で必然的な諸規則を論述する限り、まさにこれらの諸規則のうちで真理の標識を明示しなければならないということである。なぜなら、それらの諸規則と矛盾するものは偽であるからである。

    ◇ というのは、悟性は、その際〔悟性の諸規則と矛盾する際〕には、思考に関する己の普遍的な諸規則と、従って己自身と矛盾するからである。だが、こうした標識は、真理の、換言すれば、思考一般の形式にだけ関わり、だからその限りではまったく正しいが、しかし十分ではない。なぜなら、たとえ或る認識がその論理形式には完全に適っているにせよ、換言すれば、自己矛盾はおかしていないにせよ、それでもその認識は依然としてその対象と矛盾することがあり得るからである。

    ◇それ故、真理の単に論理的な標識、即ち悟性及び理性の普遍的で形式的な諸法則との認識の合致は、なるほど全ての真理の必要条件であり、従って全ての真理の消極的条件ではある。しかし、この論理学はそれ以上に出ることはできず、だから形式にではなく内容に関する誤謬を、この論理学はいかなる試金石によっても発見することはできないのである。

    † 原佑訳上巻、p.199〜p.200参照。
    † その他に、中山元訳2、p.32〜p.33、石川文康訳上巻、p.116〜p.117を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−4 No.29173
    V−1 No.28726、V−2 No.28740、V−3 No.28816
    U−4 No.28561、U−5 No.28709
    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436,28561,28709
    V No.28726,28740,28816,29173

引用返信/返信 削除キー/
■29060 / inTopicNo.64)  英訳
□投稿者/ pipit -(2023/01/24(Tue) 23:43:07)
    The “I think” must accompany all my representations, for otherwise something would be represented in me which could not be thought; in other words, the representation would either be impossible, or at least be, in relation to me, nothing.
引用返信/返信 削除キー/
■29059 / inTopicNo.65)  純粋理性批判・B131-132
□投稿者/ pipit -(2023/01/24(Tue) 23:42:44)
    2023/01/24(Tue) 23:56:26 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは☆彡

    ぎゃー、B131
    『私は考える』が私のすべての表象に伴うことができるのでならなくてはならない、の箇所です!

    (J. M. D. Meiklejohnさん英訳) 
    ※アクセス禁止になるので、あとで英文だけで投稿してみます。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43

    (pipit日訳andDeepL日訳)
    「私は考える」が私のすべての表象に伴うことができるのでならなくてはならない。
    なぜなら、そうでなければ、私の中に、考えることのできない何かが表象されてしまうからです。言い換えれば、表象は不可能か、少なくとも、私との関係においては無であるかのどちらかでしょう。

    ※※※※※※※※
    (2023年のpipit感想)

    表象を私は知る。
    知ると同時にその表象は思考対象が可能なものとなる。
    これ(知ったもの)なあに?

    表した all my representations

    The “I think” の統一があるとき、 my representations の 総合がある。

    ※※※※※※※※
    =============
    以下、見つけてきた過去投稿より、再投稿
    =============
    No21243
    (pipit雑感)
    conjunction(結合)の概念には、
    多様と、その総合に加え、
    統一の概念も含まれてる、と。

    レゴで考えてみます。
    レゴの結合という概念には、
    レゴブロックの多様、その多様の総合、そして統一という概念が含まれてる、と。

    前の箇所でカントは

    > DeepL機械翻訳
    この行為に対して、我々は一般的に合成という名称を与え、それによって同時に、我々は以前に我々自身で結合したことがなければ、対象の中で結合したものとして何かを表すことはできないということを示すことにする。<

    としてあり、
    結合像は、結合する行為によって可能となると言っていましたね。

    そして、結合する行為部分に、(synthesis)総合という単語をあてがっていましたね。

    レゴで言えば、

    バラバラのブロック→( the manifold)多様
    お城→(conjunction)結合
    お城を作る行為→(synthesis)総合

    というイメージかな、と。(違うかったらすみませんm(_ _)m)

    ここで最初のDeepL機械翻訳に戻りますね。

    > (DeepL機械翻訳)
    しかし、結合の概念には、多様体の概念とその合成の概念に加えて、それの統一の概念も含まれる。<

    レゴで考えてみますね、

    お城という作品には、ブロック(感性による多様)とブロックを結合していく行為(総合)に加えて、【統一】the unityの概念も含まれてる、と。

    これ、まだわからないけど、今思ってるのは、
    単一体として捉えることかなーと。
    違うかなあ。
    .....

    ここで、御子柴善之先生の解説読みました。
    ほー、なるほどー!(◎_◎;)
    ↓御子柴先生の解説

    『、この結合には「統一」という共通の場が必要なのです。多様なものを結合することができるのは、その多様が共通の場に位置しているからです。』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生、p200)

    いろんな解釈あるかもだけど、御子柴先生的には、この統一の場に、「私は考える」という自己意識を持ってくるのかも!
    ※p201の小題が、
    〈統一の場は「私は考える」という自己意識である〉となっていました。
    このあたりは今読んでいる箇所よりもう少し後ででてくるかな。またその時にあらためて考えてみます。

    =================
    再投稿終了

    次はB132 (・ω・)ノ

引用返信/返信 削除キー/
■29055 / inTopicNo.66)  雪日記
□投稿者/ pipit -(2023/01/24(Tue) 17:48:25)
    予報外れてほしかったけど降ってきたなー
    (><)
引用返信/返信 削除キー/
■28968 / inTopicNo.67)  うましかさんへ(*^◯^*)
□投稿者/ pipit -(2023/01/22(Sun) 10:25:22)
    うましかさん、こんにちはー(*^ω^*)

    No28964
    > pipitさんが、みずからの思考する主体を客体化して何かしらの自己として意識するとき、それは「クオリア」と言える、かもしれないなどとおもいました(間違いかもしれませんが(;´・ω・))<

    純粋理性批判のB152-158あたりに、内的触発(←自らが自らによって触発され現象として表象される、みたいな意味にpipitには読めます。)についてなどが述べられていて、
    その中でもさらに、客体として表される自己についての意識と、(表われるというなにかがある)ことに対する直接知のような意識についての違いの言及もなされている気がします。(B157)

    まだ未勉強箇所なので理解には遠いのですが、
    御子柴善之先生の『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』NHK出版のp201に載っているカントの文章↓
    抜粋引用
    『「私」は、ある現存在の感情に他ならず、いささかも概念を含まない。』
    抜粋引用終了
    も、思い出していました。


    クオリアは、見られたものが(主観の感じ)
    聞かれたものも(主観の感じ)、で、

    No28809で紹介されていた、論子ちゃんみたいに(面白い書き方の論文ですね!)、クオリアが現れてるからクオリアが現れる場を「私」と名付けてもいいかもですが、


    カント的には
    ☆「クオリアが現れる場」という現存在があることと、
    ★その現存在は破壊されない単一存在であると断定すること、
    この二つは、別の話しだと述べてるのかなと、今の段階での推測です。

    にしても、カントの文章読解、細かすぎて疲れますね(^◇^;)
    絶対変◯さんですよね!
    しかも、この純粋理性批判のあと、実践理性批判、判断力批判、そして最期の「オープス・ポストゥムム」....

    沼沼沼
引用返信/返信 削除キー/
■28964 / inTopicNo.68)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/01/21(Sat) 21:54:00)
    2023/01/21(Sat) 22:20:29 編集(投稿者)

    こんばんはー

    こんな論文がありましたー

    でも難しいな〜( ノД`)シクシク…


    ◇ 篠崎大河『意識の表象理論における例化の問題』,2022年

    https://philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2022/03/e10ef1c4f8b57d6b1120a75e724b383d.pdf

    *******

    No.28956(pipitさん)

    >「私は考える」というクオリア

    pipitさんが、みずからの思考する主体を客体化して何かしらの自己として意識するとき、それは「クオリア」と言える、かもしれないなどとおもいました(間違いかもしれませんが(;´・ω・))

    それはさておき、pipitさんが「私は考える」をクオリアとするとき、つぎにどんな話、おもいつきが生まれ展開されるのか、、、興味津々(/・ω・)/沼



    【追記】

    この篠崎って人、こんな論文も出してますねー

    学びになりますm(__)m

    ◇ 篠崎大河『ゼロ・クオリアとは何か』,2022年

    https://researchmap.jp/shinozakitaiga/published_papers/36537946




引用返信/返信 削除キー/
■28963 / inTopicNo.69)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2023/01/21(Sat) 20:16:06)
    悪魔ちゃん、こんばんは(*^◯^*)

    No28957に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■28956、
    >
    > >「私は考える」というクオリア<
    > pipitさま、ちがうんじゃない?
    > 「クオリア」は〈感じること〉じゃないかしら?
    >
    > たしか、カントの始まりは「感性」と「悟性」は区別してるんじゃなかったっけ?
    > そして「感性」→「悟性」だったはず?<

    表象(←あらわれ、みたいな意味で)をクオリアって言うの変かなあ

    苺 ← この文字とか、イチゴの赤い姿のイメージ思い出すのとか、意味を思うのとか、クオリアって言うのおかしいかなぁ

    でも悪魔ちゃんが言ってくれたから、とりあえず思考抜きの感性がクオリアって考え直してみるね。
    ありがとーう(*^ω^*)




引用返信/返信 削除キー/
■28957 / inTopicNo.70)  Re[8]: 夕方に思いついた日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/01/21(Sat) 19:04:36)
    ■28956、

    >「私は考える」というクオリア<
    pipitさま、ちがうんじゃない?
    「クオリア」は〈感じること〉じゃないかしら?

    たしか、カントの始まりは「感性」と「悟性」は区別してるんじゃなかったっけ?
    そして「感性」→「悟性」だったはず?




引用返信/返信 削除キー/
■28956 / inTopicNo.71)  夕方に思いついた日記
□投稿者/ pipit -(2023/01/21(Sat) 18:25:26)
    「私は考える」というクオリア
引用返信/返信 削除キー/
■28920 / inTopicNo.72)  今朝思いついた日記
□投稿者/ pipit -(2023/01/21(Sat) 07:35:13)
    2023/01/21(Sat) 12:15:20 編集(投稿者)

    みなさまおはようございます(^_^)

    カント哲学において、『表象』を『クオリア』と考えたらどうかな?と個人的に思いました。

    対象Xを、自分の中で表そうとする人間的努力が、表象(リプレゼンテーション)することで、表したものが表象(リプレゼンテーション)。

    wiki『クオリア』より一部抜粋引用
    『辞事典による定義・解説
    編集
    2016年、『脳科学辞典』で神経科学者の土谷尚嗣が執筆した項「クオリア」によると「脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える」[1]。また前掲書には、「哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている」とある[1]。
    2009年、『スタンフォード哲学百科事典』で哲学者のマイケル・タイが言うにはクオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面である[10]。』
    引用終了。

    表象の連関づけにも人間能力が関与する。
    以下はpipitのスマホメモに残ってたカントの文章関連。
    ドイツ語原文はうましかさんが投稿してくださった記憶があります。ありがとうございますm(_ _)m

    ☆☆☆☆☆

    【カント原文】B377あたり?『理念一般について』の最後らへん。

    (英) J. M. D. Meiklejohnさんの英訳 https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html
    (日)『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
    (D)翻訳アプリDeepl無料版にて翻訳した英訳
    ====================

    【Hier ist eine Stufenleiter derselben. 】

    (英)The following is a graduated list of them.
    (日)ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
    (D)Here is a stepladder of the same.
    ====================

    【Die Gattung ist Vorstellung ueberhaupt (repraesentatio). 】

    (英)The genus is representation in general (representatio).
    (日)まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
    (D)The genus is representation at all (repraesentatio).
    ====================

    【Unter ihr steht die Vorstellung mit Bewusstsein (perceptio).】

    (英)Under it stands representation with consciousness (perceptio).
    (日)この類の下に、意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    (D)Under it stands the conception with consciousness (perceptio).

    ☆☆☆☆☆

    人間の記憶というものもずいぶん関与してくるかな。
    今日もヲ仕事わーん ヽ(;▽;)ノ
    いってきます!
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -