| パニチェさん、田秋さん、横失礼いたします。
>> >西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感があります。
>> >私は『・・・である』で表現される対象は私の属性(そのものの性質や特徴の意)であると考えています。 >> >例えば「私は父親である」で表現するところの「父親」が「私が私であるところの欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」ではないですからね。 >> >結論から言えば〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。
>> 最後の引用文に『その実存こそが「私」の本質である』と「〜である」が使われています。パニチェさんの解釈によれば「本質」も「父親」と同様、述語が「である」故、「最も大事な根本の性質・要素」ではないことになります(その前の「<私>は実存であり」も「〜である」の形です)。 >> もしも「その実存こそが「私」の本質である」がパニチェさんの本意を正しく表現しているとするならば、「〜である」の形が「本質規定である」とも言える様な気がします。
>上記は先の私の論旨とは異なりますので(伝わらないかもしれませんが)返信してみます。 私の先の論旨はあくまでも『西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感がある』さらに言えば反対だ、否定するということです。
be動詞なのですが、例えば I am の後に名詞や形容詞がくれば、その時点での属性を示すことになると思いますが、I am.で終われば、私はある(存在する)という意味になると思います。つまりbe動詞は構文により、属性を現すこともあれば本質を現すこともあると思います。
皆様ご存じのデカルトのCogito ergo sum 我思う、ゆえに 我あり、ラテン語ですから主語を省略してありますが、最後のsumは英語で言えばamになります。確かデカルト自身も色々な著作の中でsumと existo (exist)を互換していたと思います。(『省察』) 結果を言えば著者の方がbe動詞を例に挙げたのは、適切ではなかったと思います。
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