| パニチェさん、bwv602さん こんにちは。 横から失礼します。
>パニチェさん
お二人の対話を少し拝見していて、私にはbwv602さんの的確な引用と説明が分かりやすく、パニチェさんの方が分かりにくく感じていました。 これは「本質」についてのパニチェさんの定義など、議論の筋道が通常の哲学のそれと異なるからかなぐらいに思ってたんです。 が、今朝、朝の珈琲を用意している最中に、アレ?要はこういうことかな?と思いついたので、確認したくなってお邪魔した次第です。
【〈パニチェ氏の考え〉についてのふくろうの理解】
存在者は語り得る。 しかし、存在者を存在者たらしめるその本質、即ち〈存在〉は語り得ない。
同様に、
「私」は語り得る。 しかし、「私」を「私」たらしめるその本質、即ち〈私〉は語り得ない。
その対象が「私」であれ花であれ、認識論的問題は「である」の問題であり、語り得る問題である。(私はデカルトである。これは花である。)
しかし〈私〉は語り得ぬものであり、〈私〉についての問いは「がある」への問い、即ち存在論的問題である。(私は今此処にある。) ********** 後半2節は若干言い(読み込み)過ぎかもしれませんが、このように図式化してシンプルに捉えると、私的には、内容理解としては腑に落ちる気がします。
というわけで、 上記の私の理解は、パニチェさんの仰っていることの理解としてどうでしょうか?
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