| 2023/03/03(Fri) 22:47:51 編集(投稿者)
【第五福音書】
「例えば従来の地上的厳粛さのすべての傍らに、挙動、言語、声の響き、眼付き、道徳、使命における従来のあらゆる荘重さの傍らに、この理想が置かれて、それらそっくりそのままの意図せざるパロディーとなる場合に、非人間的に見えるであろう。──もっとも、それはそうであるにしても、この理想があるおかげで、大いなる厳粛がやっと始まるもであり、この理想をもってしてはじめて、本格的な疑問符が打たれるのである。かくて魂の運命は向きを変え、時計の針はぐいと動き、悲劇が開始されるに至るであろう。(ニーチェ著白水社版『この人を見よ ツァラトゥストラはこう語った2』より引用)」
「生成に存在の性格を刻印すること──これが権力への最高の意志である。・・・全生起の解釈の動物的な起源と有用性がみとめられてしまったからには、この解釈のために古い理想は無用である。そのうえすべての理想は生と矛盾している。機械論的理論の無用、──それは無意味性という印象をあたえる。これまでの人類の全理想主義は、まさにニヒリズムへと一変しようとしている、──絶対的無価値性、言いかえれば絶対的無意味性によせる信仰へと。理想の絶滅、新しい沙漠。私たち両性動物が、それに耐え抜く新しい技術。前提は、勇敢さ、忍苦、「逆行」せず、前進をあせらないこと。(備考、ツァラトゥストラは、力の充実から、すべての以前の価値に対してたえずパロディー的な態度をとる。)(ちくま学芸文庫版『力への意志 第617番』より引用)」
「神は死んだ」という金言とともに、数千年にわたって人類を支配してきた絶対価値ならびに、そこから演繹的に導かれるところの諸価値の覆いが拭いさられた時、それらに対する信仰は絶対的無価値性および絶対的無意味性故に地に落ちる。これがニヒリズムであり、悲劇の始まりではあるが、「生成に存在の性格を刻印する」力への最高の意志から生じる溢れるばかりの力の充実の前では、それらの古典的諸価値は茶化される(パロディー的な態度をとる)対象ともなり、生成の玩具ともなる。普遍的な生の意味や価値、目的など無いからこそ、真っ白なキャンパスに生の主体者たる自己が意味や価値や目的を創出する創造者となりえる。
ツァラトゥストラは聖書のパロディとして書かれた書籍ではない。第五福音書として書かれたという説もあり、その根拠として1888年11月26日のパウル・ドイセンへのニーチェの書簡には「なにしろ僕のツァラトゥストラは聖書のように読まれるだろうからね(ちくま学芸文庫版『ニーチェ書簡集2』より引用)」と記している。そしてこの福音書こそパウロやアウグスティヌスによって捏造された諸価値をパロディー化する「万人のための、そして何人のためのものでもない一冊の書(ツァラトゥストラの副題)」である。
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