| 時さん,パニチェさん,横レス失礼します。
仏教についてはほぼ門外漢なので、外野からになりますが、より一般的観点から少し述べさせてください。 哲学観の違いということで言うと,私は次のように感じています。
哲学や宗教・思想,あるいは芸術や文学でも,自分がそこに求める何らかの意味の“ほんとう”を「真理」と呼ぶとすると,その捉え方に少なくとも二つのタイプがあるように思います。
(1) あくまで「私にとっての真理」を求めるタイプ。これこそは“ほんとう”であると自分を納得させ,満足させるもの。極端に言えば,他人がどう思おうと,普遍的でなかろうとどうでもいい。したがって,真理が真理であることの根拠は,すなわち自己にある。例えば,究極を言えば,美の根拠は,美しいと思う私にある。善の根拠は私の内なる道徳律にある(これは異論があるかも)。 (2) それが主観的真理であろうと,真理である限り,何らかの普遍性を本質的条件とみなす。自分がほんとうだと思う、あるいは満足するから真理なのではない。それが真理であることの根拠は自己の内にはなく,外部に存する。つまり,その意味で真理は超越的根拠をもつ。たとえば,ある芸術作品が美しいのも主観(自己)が美しいと思うからそうなのではなく,例えばプラトンだったら美のイデアを根拠とする。
以上の分類に基づいて考えると,たとえばいわゆる人生論的真理は(1)に属し,学問としての真理は(2)に属することになると思います。というのも,人生論の根拠はまさに個人の人生経験における真実にあろうからですし,学問的真理は通常個人的経験を越えた普遍性をその真理性を担保するものとして要請するからです。
私からすると,パニチェさんも時さんも,ともに(1)のタイプに思えます。 私見では,悪魔ちゃんも完全にこちらのタイプです。 私は(2)のタイプです。ま,乱暴に単純化しちゃうとですが。 これは哲学作品に対する姿勢でも,その取り組み方の違いを生みます。 また,芸術作品に対する姿勢に言えるもののように思いますね。
今回の時さんからのパニチェさんへの質問は、ともに(1)のタイプのお二人の、仏教へ取り組む姿勢の違いが問題になっていると思います。 その意味で、私にもなかなか興味深い質問だと思っています。
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