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■28421 / inTopicNo.13)  善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/01/02(Mon) 08:53:22)
    2023/01/02(Mon) 09:44:32 編集(投稿者)

    pipitさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
    ついでに(笑)横レス失礼します。

    No28399に返信(pipitさんの記事)
    > ふと、仏教の世俗諦(せぞくたい)というワードを思い起こしました。
    > pipitの理解では、世間の人たちの合意で決めた事柄、みたいな。
    > 仏教の場合は、最終的にはこの「世俗諦」も超越して、悟りの真理が「勝義諦」(しょうぎたい)と呼ぶかもなのですが。
    > pipitの私見では、初期仏教の善悪は、解脱(煩悩の滅尽)を目的としたとき、その目的に適う道は「善」、解脱という目的に適わない道は「悪」と名付けられていそうな印象です。

    私は唯識の三性を立てる善・悪・無記(非善非悪)が仏教らしい善悪価値だと思っています。
    西洋的な白黒とか01のデジタル思考ではなく善悪を両極と見なしたグラデーション的な価値観です。
    日常のほとんどの行為、例えば空を見上げるとか顔を洗うとか電車に乗る等々、善でも悪でもない行為が大半です。

    pipitさんが指摘されたように仏道の目的が悟りですから、ある行為や思いにどれだけ煩悩の汚れやにおいを纏っているかどうかによって区別します。
    特に仏教らしいのは無記(非善非悪)のなかにも、わずかな汚れのにおいがする有覆無記(非善非悪)と、全く汚れのにおいのない無覆無記(非善非悪)があることを教示している点です。

    こういう善悪価値ってのが今の世界にとっても有益ではないかと考えています。
    仏教では見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)も悪だし、同じ行為であってもそれを行う当人の心の状態によっては善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)となりますから、常に己の心と向き合うこと(内観)が必要となりますね。

引用返信/返信 削除キー/
■28399 / inTopicNo.14)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/01/01(Sun) 13:39:37)
    マジモンさん、明けましておめでとうございます!
    今年もよろしくお願いします
    ( ^ω^ )♪

    No28395
    > 『 善 』なんですけど、マジモンは善悪の研究をしており、
    > この『 善 』は、『 噂 』という意味合いがあり、
    > もしかしたら、『 全ての人が口(発言)にする事 』かもしれない。
    > 100人いたら、100人とも同じ事を言うみたいな。
    >
    > 飽くまでも推測です。それではまた。<

    善悪は難しいですよね。
    一般的には、やっぱり人工的判断っぽいのかなぁ。

    > もしかしたら、『 全ての人が口(発言)にする事 』かもしれない。
    > 100人いたら、100人とも同じ事を言うみたいな。<

    ふと、仏教の世俗諦(せぞくたい)というワードを思い起こしました。
    pipitの理解では、世間の人たちの合意で決めた事柄、みたいな。
    仏教の場合は、最終的にはこの「世俗諦」も超越して、悟りの真理が「勝義諦」(しょうぎたい)と呼ぶかもなのですが。

    pipitの私見では、初期仏教の善悪は、解脱(煩悩の滅尽)を目的としたとき、その目的に適う道は「善」、解脱という目的に適わない道は「悪」と名付けられていそうな印象です。

    (善と訳される仏教の古代語はクサラ、悪と訳される語は否定形のアクサラで、
    クサラは巧みという意味もあって、
    だから善とは巧みなこと、
    悪とは巧みではないこと、という意味にもとれるっぽいです。)

    解脱という目的地についてる時は、クサラ(巧み・善)の道も、アクサラ(巧みではない・悪)の道も、関係ないと言うことも可能かなとかも思います。もう着いてるから道は関係ない、みたいな。

    【善】についてコトバンクさんで調べてみました。
    コトバンクさんより引用※記号省略

    https://kotobank.jp/word/%E5%96%84-87958

    『善&#8232;ぜん&#8232;agathos; bonum; good; das Gute; bien
    意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて。ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。特異な立場では,強烈な生の力の高揚を善とした F.ニーチェの思想がある。仏教では,法にのっとり理に従い自他の利益をなす力を善 kusalaという。仏教では種々の善を説いているが,大別すると有漏 (うろ) 善 (世間の善のこと) と無漏 (むろ) 善 (涅槃の悟りを得るための善) がある。日本の西田哲学が「純粋経験」としての善を主要テーマにしているのは有名。』


    ちょうど今『純粋理性批判』を読んでて、わかりきれなかった箇所に参考になるところがありました!

    > スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。<

    カントは上記文を批判した形になるのかなと思ってるのですが、
    マジモンさんの投稿がきっかけにこの文を読めました、ありがとうねー。

    今年一年がマジモンさんにとってよい一年になりますように!
    (^○^)v
引用返信/返信 削除キー/
■28395 / inTopicNo.15)  ご挨拶 +α
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/01/01(Sun) 10:43:41)
    親愛なるPipitさん

    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いします。

    さっそく、話は変わります。

    『 善 』なんですけど、マジモンは善悪の研究をしており、
    この『 善 』は、『 噂 』という意味合いがあり、
    もしかしたら、『 全ての人が口(発言)にする事 』かもしれない。
    100人いたら、100人とも同じ事を言うみたいな。

    飽くまでも推測です。それではまた。
引用返信/返信 削除キー/
■28392 / inTopicNo.16)  日記思いつきメモ_φ(・_・
□投稿者/ pipit -(2023/01/01(Sun) 09:25:42)
    >『カント哲学の核心』御子柴善之先生、NHKブックス、p136
    >『全判断の論理的契機には、すべての判断の数だけ、諸表象を一つの意識において結合する可能な仕方がある<

    この場合は、分析的結合みたいな、、、

引用返信/返信 削除キー/
■28391 / inTopicNo.17)  Re[32]: 超越論的論理学 序論U−2
□投稿者/ pipit -(2023/01/01(Sun) 09:23:46)
    うましかさん、こんにちはー
    今年もよろしくお願いします!
    (o^^o)♪

    No28383
    > ◇これに反して、一般論理学は、認識のこうした起源を何ら問題とせず、諸表象を、それらがそもそも初めからア・プリオリに私たち自身の内に与えられていようが、或いはただ経験的に与えられていようが、悟性が思考するときに、悟性がそれらの諸表象をそれによって相互に関係付けるのに用いる諸法則に従ってのみ考察するものなのである。<

    --------------------------------

    >悟性が思考するときに、悟性がそれらの諸表象をそれによって相互に関係付けるのに用いる諸法則に従ってのみ考察する<

    その【諸法則】が、
    No28382で引用したカントの文章(御子柴先生訳)に出てくる

    >『カント哲学の核心』御子柴善之先生、NHKブックス、p136
    >『全判断の論理的契機には、すべての判断の数だけ、諸表象を一つの意識において結合する可能な仕方がある<

    になるのかなと感想しました。

    今年一年がよい年になりますように!
    (*^◯^*)v

引用返信/返信 削除キー/
■28390 / inTopicNo.18)  おめでとうございます
□投稿者/ pipit -(2023/01/01(Sun) 09:02:31)
    みなさま新年明けましておめでとうございます!

    今年もよろしくお願いします♪

引用返信/返信 削除キー/
■28383 / inTopicNo.19)  超越論的論理学 序論U−2
□投稿者/ うましか -(2023/01/01(Sun) 00:36:23)
    2023/01/01(Sun) 00:38:39 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    今年もよろしくお願いいたします(`・ω・´)ゞ

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の理念
     U 超越論的論理学について〔Von der Transzendentalen Logik〕

    ◇ 一般論理学〔Die allgemeine Logik〕は、私たちが示したように、認識の全ての内容を、換言すれば、認識と客観との全ての連関を捨象し、だから、認識相互の関係における論理形式、換言すれば、思考一般の形式だけを考慮する。ところが、直観には純粋な直観もあれば、経験的な直観もあるので(超越論的感性論が立証するように)、おそらくはまた、対象についての純粋な思考と経験的な思考との間にも、或る区別が見いだされ得るだろう。この場合、認識の全ての内容がそこでは捨象されるのではない、一つの論理学〔eine Logik〕があることになろう。なぜなら、単に対象についての純粋な思考の諸規則のみを含むような論理学は、経験的な内容を持っているかもしれないような全ての認識を、単に排除するに違いないからである。

    --- No.28334 からの続き ---

    ◇ところで、このように内容を捨象しない論理学は、また諸対象についての私たちの認識の起源をも考究するであろう。ただしそれは、この起源が、それらの諸対象に帰せられ得ない限りにおいてである。

    ◇これに反して、一般論理学は、認識のこうした起源を何ら問題とせず、諸表象を、それらがそもそも初めからア・プリオリに私たち自身の内に与えられていようが、或いはただ経験的に与えられていようが、悟性が思考するときに、悟性がそれらの諸表象をそれによって相互に関係付けるのに用いる諸法則に従ってのみ考察するものなのである。

    ◇それ故、この一般論理学は、どこからそれらの諸表象が生じたものであろうと、それらの諸表象に与えられ得る悟性形式についてだけ論ずるのである。


    † 原佑訳上巻、p.196参照。
    † その他に、中山元訳2、p.26、石川文康訳上巻、p.113〜p.114を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    U−1 No.28334、U−2 No.28383
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383

引用返信/返信 削除キー/
■28382 / inTopicNo.20)  御子柴善之泉
□投稿者/ pipit -(2022/12/31(Sat) 23:55:23)
    一般論理学と超越論的論理学の違いについての記述、、、
    カントのプロレゴーメナからの記述が、
    『カント哲学の核心』御子柴善之先生、NHKブックス、p136に載ってるのをたまたまみつけました。
    !(◎_◎;)

    引用します。御子柴善之先生訳のカントの文章です。
    『全判断の論理的契機には、すべての判断の数だけ、諸表象を一つの意識において結合する可能な仕方がある。
    他方、まさにその諸契機が概念として働く場合、それらは一つの意識における諸表象の必然的結合の概念なのであり、したがって、客観的に妥当する判断の原理なのである。(Ak305、中公88、岩波112)』

    御子柴先生によれば、第一文は一般論理学についての話で、第二文は超越論的論理学についての話とのことです。

引用返信/返信 削除キー/
■28381 / inTopicNo.21)   マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/12/31(Sat) 23:40:34)
    2023/01/01(Sun) 07:57:40 編集(投稿者)
    2023/01/01(Sun) 00:07:01 編集(投稿者)

    No28374
    うん。「善」みたい。

    中山先生の解説としては、
    カントの主張は、
    スコラ哲学の存在なら善の「善」は、量の完全性(総体性)という概念を転用して派生したもので、
    カント的にはこの派生概念をカテゴリーと考えるのは誤りと考えてる、ようです。(多分)
    (参考記述『純粋理性批判2』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p316-318)
引用返信/返信 削除キー/
■28374 / inTopicNo.22)  Re[35]: マジモンさんへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/12/31(Sat) 22:16:53)
    No28368に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは!
    > この箇所はカントの意見というより、
    > スコラ哲学者が言ってることに対するカントの考察みたいです。
    >
    > スコラ哲学の主張に興味ありますか?
    > もし興味あるなら調べてみますよー(^○^)v

    善なんや!
引用返信/返信 削除キー/
■28368 / inTopicNo.23)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/12/31(Sat) 20:07:54)
    こんばんは!
    この箇所はカントの意見というより、
    スコラ哲学者が言ってることに対するカントの考察みたいです。

    スコラ哲学の主張に興味ありますか?
    もし興味あるなら調べてみますよー(^○^)v
引用返信/返信 削除キー/
■28366 / inTopicNo.24)  Re[33]: B113-116
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/12/31(Sat) 19:46:39)
    No28364に返信(pipitさんの記事)
    > 2022/12/31(Sat) 19:31:18 編集(投稿者)
    >
    > みなさまこんばんは。
    >
    > §12(B113-116)
    > (pipit的感想メモ_φ(・_・)
    > ★★★さっぱりわからないので、強引にまとめています。めちゃくちゃ誤読してるかもです。★★★
    >
    > スコラ哲学者は、「存在するものは一であり、真であり、善である」というが、これらはカテゴリーなのか?(カントの問いかけ)
    > ↓
    > カントの見立てでは、[現象としての物の量についての純粋悟性概念]を、【物自体の質のカテゴリー】へと誤使用してしまった例である。※カントとしては物自体と純粋悟性概念は客観妥当的な関係を持てない。現象にのみ純粋悟性概念は客観妥当的関係を持ち得る。
    >
    > 【一】・・・質的単一性として[量の単一性]が誤使用された。
    > 【真】・・・徴表の質的数多性として[量の数多性]が誤使用された。
    > 【善】・・・質的完全性(総体性)として[量の全体性]が誤使用された。
    >
    > (pipit的本音)
    > 細かい記述などさっぱりわかりません
    > (T ^ T)
    > とりあえず上記のように理解して、次へ進もうかなぁと思います
    > (T . T)カント沼....


    はい、こんばんわ、Pipitさん
    善って…、その善?全?
引用返信/返信 削除キー/

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