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■28570 / inTopicNo.1)  メモ日記
  
□投稿者/ pipit -(2023/01/07(Sat) 12:33:40)
    みなさまこんにちは(^_^)

    今朝思いついたことをメモ日記します
    _φ(・_・

    @カント的には、感性によってしか対象は与えられない。

    Aカント的には、[カテゴリーの形而上学的演繹論]によって、人間の知性能力の源泉からアプリオリに対象を規定する(=対象の制限となる)純粋悟性概念を発見した。

    B何故@(感性能力による対象の制限)とA(思考機能による対象の制限)が同時に成り立つのか、Aの概念の妥当性を主張できる権利はいかに証明し得るのか、を追求したのが、[カテゴリーの超越論的演繹論]なのかな、という思考が今日の朝に浮かびました。

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■28569 / inTopicNo.2)  Re[34]: 超越論的論理学 序論U−4
□投稿者/ pipit -(2023/01/07(Sat) 12:32:23)
    2023/01/07(Sat) 12:36:48 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちはー(^O^)

    No28561
    > だから、空間も、また、空間についての何らかのア・プリオリな幾何学的な規定も、超越論的な表象ではない。むしろ、ただひとえに、こうした諸表象が経験的な起源を持たないという認識と、にもかかわらず、この幾何学的な規定が経験の諸対象とア・プリオリに連関し得る可能性とが、超越論的と呼ばれ得るのである。<

    マンガ『純粋理性批判』の一コマを思い出しました。(アンドロイドちゃんのマンガになってます!)

    たくさんの人がワイワイ一つのりんごを見てそれについて共に話している時、それを後方からカントが、りんごではなく、りんごを見る人たちの方をじーっと見てるんです。(記憶で書いてます)

    認識←に目を向けた認識、が超越論的の特徴の一つなのかなと感想が浮かびました。

    > *1 これまで「理念」と訳したこの”IDEE”は、今後、石川文康訳に倣って「構想」とします。<

    実際に何を行っているのかがわかりやすくなる訳語に思えますね
    (^_^)
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■28561 / inTopicNo.3)  超越論的論理学 序論U−4
□投稿者/ うましか -(2023/01/06(Fri) 22:56:31)
    2023/01/06(Fri) 22:57:15 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の構想〔*1〕
     U 超越論的論理学について〔Von der Transzendentalen Logik〕

    ◇ ところで、ここでどうしても私は、一つの注意を与えておきたい。この注意はあらゆる今後の考察に影響を及ぼすので、読者はよく念頭においておかねばならないものである。それは、あらゆるア・プリオリな認識が超越論的と呼ばれなければならないのではなくて、或る種の表象(直観ないしは概念)が、もっぱらア・プリオリに適用され、或いは可能であるということを、また、いかにしてそのように適用され、或いは可能であるのかを、私たちがそれによって認識する、ア・プリオリな認識だけが、超越論的(換言すれば、認識のア・プリオリな可能性ないしは認識のア・プリオリな使用)と呼ばれなければならない、という注意に他ならない。

     *1 これまで「理念」と訳したこの”IDEE”は、今後、石川文康訳に倣って「構想」とします。

    --- No.28436 からの続き ---

    ◇ だから、空間も、また、空間についての何らかのア・プリオリな幾何学的な規定も、超越論的な表象ではない。むしろ、ただひとえに、こうした諸表象が経験的な起源を持たないという認識と、にもかかわらず、この幾何学的な規定が経験の諸対象とア・プリオリに連関し得る可能性とが、超越論的と呼ばれ得るのである。

    ◇ 同様に、諸対象一般に関する空間の使用も超越論的であるということになるが、しかしこの使用がもっぱら感官の諸対象に制限されているときには、その使用は経験的と呼ばれる。それゆえ、超越論的なものと経験的なものとの区別は認識の批判にのみ属し、認識とその対象との連関には関わりない。


    † 原佑訳上巻、p.197参照。
    † その他に、中山元訳2、p.27〜p.28、石川文康訳上巻、p.114を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    U−4 No.28561
    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436,28561

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■28541 / inTopicNo.4)  pipitさんへ(・ω・)ノ
□投稿者/ うましか -(2023/01/05(Thu) 23:05:53)
    こんばんはー

    No.28453(pipitさん)

    >善(Kusala=Skillful,or,Wholesome)

    これおもしろいですねーφ(..)メモメモ

    まちがいかもしれないけど、

    「善」とは、「煩悩」を「滅尽」する技が巧いとか、それをするのが健全・健康なさまなことを言うのかなー(;´・ω・)

    でも、そもそもどうやって?それはまずレシピから真似びなさいということなのかなーと。

    的外れだったらごめんなさいm(__)m

    カント沼に戻ります〜(/・ω・)/




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■28521 / inTopicNo.5)  B116-119
□投稿者/ pipit -(2023/01/04(Wed) 21:42:57)
    みなさまこんばんは。
    No28452
    (pipit)
    >えーとなんだったかなぁ、昨日どこで読んだんだかなぁ
    この非経験依存的使用も、契機は経験的なものからみたいな意味内容の文を何処かで、、、
    どなたかの解説文で、カントの文章としては、B118.119あたりを指示されてた印象があります。<

    過去投稿を検索してたら、上記箇所を見つけました。山下和也先生の解説でした。

    --------------------------------

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生著、晃洋書房、p106-から抜粋引用

    『アプリオリに対象に関係しうる概念には、空間、時間とカテゴリーがあるが、「それらの産出の機会原因は経験に求めることができる」、つまり「認識能力の全体をそれに関して開始し、経験を生じさせる第一の契機は感官の印象が与える」(B118)。
    要するに実際に概念としての規則が作動するのは、それが働きかける印象が与えられたときである。
    カントの言い方では、経験は「感官からの認識への質量と、純粋な直観作用と思惟作用からの、それを秩序づけるある形式」(ibid)とを含むのであり、前者が与えられることを契機として、それに対して後者が作動し、経験が成立する。
    オートポイエーシスの言葉で言えば、概念コードに従って認識表象における現れが、感覚すなわち環境からの攪乱を契機として産出されるとき、経験となる。』

    それでそのもう少し後に、演繹論のことも記述があって、

    『超越論的演繹の課題は、「いかにして思惟の主観的諸制約が客観的妥当性をもつべきであるか、すなわち、対象のあらゆる認識の可能性の制約を与えるべきであるか」(B122)という問いの解決である。なぜ主観的制約かと言えば、まさに概念コードの一項として自律的に認識表象を産出してしまうからに他ならない。攪乱を引き起こす環境からの影響は当然攪乱に原理的に先行する。つまり、カテゴリーは対象の所与そのものの制約ではないから、そのアプリオリな対象への適用には権利上疑問の余地が残るからである。その適用は認識を生じないのではないか、と。』
    同本p107より引用終了。

    --------------------------------

    (山下和也先生の本より)
    >つまり、カテゴリーは対象の所与そのものの制約ではないから、そのアプリオリな対象への適用には権利上疑問の余地が残るからである。その適用は認識を生じないのではないか、と。<

    (pipit感想)
    感性により対象が与えられること(触発され感受すること)じたいの制約ではないカテゴリーが、どのようにアプリオリに対象に関わるのか、関わるとすればその権利はどう弁明され、その弁明は根拠として認められるのか、
    そのようなことがカントの問題意識となって記述されていくのかな、と、思いました。

    次はB120から読みまーす(^ ^)
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■28520 / inTopicNo.6)  B116- 超越論的演繹!!
□投稿者/ pipit -(2023/01/04(Wed) 20:56:36)
    みなさま、こんばんは(^○^)
    深い深い沼の底(なし?)、超越論的演繹に進みます...

    何回かこの箇所は読んでるんですよね。
    過去投稿調べてみようかな?

    カントが取り出した純粋悟性概念、この概念の根拠づけ(権限の証明など)を、経験から行うのではなく、超越論的に行う、と。
    超越論的という語については、うましかさんの先の投稿にちょうど出てきてましたね。
    No28436
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■28453 / inTopicNo.7)  うましかさんへ(*^ω^*)
□投稿者/ pipit -(2023/01/03(Tue) 15:30:34)
    うましかさん、コメントくださり嬉しいです。ありがとうございます。

    No28437
    > 「煩悩」を「滅尽」する目的に適う「道」を"善"、適わない「道」を"悪"とするの考え方はおもしろそうですねー(´-`).。oO
    >
    > ある行為(或いはその帰結)が善か悪かきめる判断基準を、それが「解脱」につながる行為か否かに求めるということなのかな?、、、などとおもいました。<

    自分の中ではそう捉えると経典がわかりやすく思えてそのように考えていました。
    でもパニチェさんにコメントいただいて、pipitの考え方だと突き詰めると解脱求めないと悪みたいになっちゃって、それは良くない気がするなぁと思い直しました^^;


    うましかさんからコメントいただいたことをきっかけに、『仏法』ポーオーパユットーさま著、野中耕一さま訳、サンガ、を読み返してみると、

    『「よい結果」ということは、求めている結果はどのような面で「よい」のか、自分ではっきりと分析するか、決めることが必要である。』
    (p200)
    とありました。

    そういう意味で、一例として、煩悩の滅尽のためによい、のためには、四法の実践があって、パーリ経典では

    『比丘たちよ。四法を行う比丘は失敗せずに成就し、漏の滅尽を生じ始める。この四法とは、出離尋、無瞋尋、無害尋、正見である』
    (同本p291)
    とあるそうです。尋は(志向、思考)みたいなものではないかなと思ってます。

    パユットー様は『善』の英訳として、
    『善(Kusala=Skillful,or,Wholesome)』とされていました。(p303)
    Skillfulとか少しドライっぽくておもしろいなと思いました。


    > 「解脱」ってとてもとても難しそうだし、「煩悩」を「滅尽」できた人のやり方を踏襲するのかな?、、、と(;´・ω・)
    >
    > (;´・ω・)違うかなー

    pipitの考えてたことは違うくないですよー
    (o^^o)
    怒られるかもだけど、pipit的にはパーリ経典はお料理レシピ本と同じ在り方をしています。
    再現性がある記述と信じているということです。
    自分には作るの無理ぽよ、ですが
    (^◇^;)

引用返信/返信 削除キー/
■28452 / inTopicNo.8)  Re[33]: 超越論的論理学 序論U−3
□投稿者/ pipit -(2023/01/03(Tue) 14:52:49)
    2023/01/03(Tue) 14:56:35 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちはー(o^^o)
    No28436
    > 最近なんとなくカント語に対する抵抗感?が少なくなってきたようにおもいます…
    >
    > 気のせいかな(;´・ω・)?
    >
    > それとも…また溺れているだけなのか(/・ω・)/沼

    まさかうましかさん、沼色に染....

    > ◇ ところで、ここでどうしても私〔カント〕は、一つの注意を与えておく。この注意はあらゆる今後の考察に影響を及ぼすので、人〔読者〕はよく念頭においておかねばならないものである。
    >
    > ◇それは、あらゆるア・プリオリな認識〔*1〕が超越論的と呼ばれなければならないのではなくて、


    > 或る種の表象(直観ないしは概念)が、
    > もっぱらア・プリオリに適用され、或いは可能であるということを、
    > また、いかにしてそのように適用され、或いは可能であるのかを、


    > 私たちがそれによって認識する、ア・プリオリな認識だけが、
    > 超越論的(換言すれば、認識のア・プリオリな可能性ないしは認識のア・プリオリな使用〔*2〕)
    > と呼ばれなければならない、という注意に他ならない。<

    うーん、難しい、ややこしい(T ^ T)
    カント本人はわかりやすく話してるつもりなんだろうなと想像はするのですが
    (^_^;)


    >  *1 試しに、「経験に依存しない、あらゆる認識」と訳してみます。〔第二版序論,原佑訳上巻,p.81参照〕(;・∀・)

    依存しない、というのはわかりやすい表現に思えますね!

    >  *2 これも試しに、認識の「非経験依存的な可能性」ないしは「非経験依存的な使用」と訳してみます(;’∀’)

    非経験依存的な使用も、私にはわかりやすく思えます。
    えーとなんだったかなぁ、昨日どこで読んだんだかなぁ
    この非経験依存的使用も、契機は経験的なものからみたいな意味内容の文を何処かで、、、
    どなたかの解説文で、カントの文章としては、B118.119あたりを指示されてた印象があります。中山先生独自番号は132(第二巻p95)ですが、そのことを思い出しました。

    少しずつですが、読解進むのおもしろいですね!
    (^_^)...あれ???

引用返信/返信 削除キー/
■28437 / inTopicNo.9)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/01/03(Tue) 01:49:37)
    2023/01/03(Tue) 09:37:10 編集(投稿者)

    No.28399(pipitさん)

    うましか宛の投稿ではありませんが、ちょっと興味をそそられた一文があったので…(・ω・)ノ

    >pipitの私見では、初期仏教の善悪は、解脱(煩悩の滅尽)を目的としたとき、その目的に適う道は「善」、解脱という目的に適わない道は「悪」と名付けられていそうな印象です。

    「煩悩」を「滅尽」する目的に適う「道」を"善"、適わない「道」を"悪"とするの考え方はおもしろそうですねー(´-`).。oO

    ある行為(或いはその帰結)が善か悪かをきめる判断基準を、それが「解脱」につながる行為か否かに求めるということなのかな?、、、などとおもいました。

    「解脱」ってとてもとても難しそうだし、「煩悩」を「滅尽」できた人のやり方を踏襲するのかな?、、、とも(;´・ω・)

    (;´・ω・)違うかなー


引用返信/返信 削除キー/
■28436 / inTopicNo.10)  超越論的論理学 序論U−3
□投稿者/ うましか -(2023/01/03(Tue) 01:29:30)
    2023/01/03(Tue) 01:31:01 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    最近なんとなくカント語に対する抵抗感?が少なくなってきたようにおもいます…

    気のせいかな(;´・ω・)?

    それとも…また溺れているだけなのか(/・ω・)/沼

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の理念〔Idee:構想〕
     U 超越論的論理学について〔Von der Transzendentalen Logik〕

    ◆ 一般論理学〔Die allgemeine Logik〕は、私たちが示したように、認識の全ての内容を、換言すれば、認識と客観との全ての連関を捨象し、認識相互の関係における論理形式、換言すれば、思考一般の形式だけを考慮する。ところが、(超越論的感性論で立証したように、)〔直観には〕純粋な直観もあれば、経験的な直観もあるので、おそらくはまた、対象の純粋な思考と経験的な思考との間にも、或る区別が見いだされ得るだろう。この場合、認識の全ての内容がそこでは捨象されるのではない、一つの論理学〔eine Logik〕があることになろう。なぜなら、単に対象についての純粋な思考の諸規則のみを含むような論理学は、経験的な内容を持っているかもしれないような全ての認識を、単に排除するに違いないからである。
    ところで、このように内容を捨象しない論理学は、また諸対象についての私たちの認識の起源〔Ursprung unserer Erkenntnisse von Gegenstandes〕をも考究するであろう。ただしそれは、この起源が、それらの諸対象に帰せられ得ない限りにおいてである。これに対し、一般論理学は認識のこうした起源を何ら問題とせず、諸表象を、それらがそもそも初めからア・プリオリに私たち自身の内に与えられていようが、或いはただ経験的に与えられていようが、悟性が思考するときに、悟性がそれらの諸表象をそれによって相互に関係付けるのに用いる諸法則に従ってのみ考察するものなのである。それ故、この一般論理学は、どこからそれらの諸表象が生じたものであろうと、それらの諸表象に与えられ得る悟性形式についてだけ論ずるのである。

     ※1 「〔認識の〕内容を捨象しない論理学〔eine Logik〕」… 諸対象についての私たちの認識の起源〔感性と悟性(知性)?(;´・ω・)〕についても考える。(ただし、この起源が、それらの諸対象に帰せられ得ない限りにおいて。)
      → これに対し「〔認識の内容を全て捨象する〕一般論理学」は、認識の起源は何ら問題とせず、与えられた諸表象を相互に関係づけるのに用いられる諸法則(悟性の形式)についてだけ論ずる。

    --- No.28383 からの続き ---

    ◇ ところで、ここでどうしても私〔カント〕は、一つの注意を与えておく。この注意はあらゆる今後の考察に影響を及ぼすので、人〔読者〕はよく念頭においておかねばならないものである。

    ◇それは、あらゆるア・プリオリな認識〔*1〕が超越論的と呼ばれなければならないのではなくて、
    或る種の表象(直観ないしは概念)が、
    もっぱらア・プリオリに適用され、或いは可能であるということを、
    また、いかにしてそのように適用され、或いは可能であるのかを、
    私たちがそれによって認識する、ア・プリオリな認識だけが、
    超越論的(換言すれば、認識のア・プリオリな可能性ないしは認識のア・プリオリな使用〔*2〕)
    と呼ばれなければならない、という注意に他ならない。

     *1 試しに、「経験に依存しない、あらゆる認識」と訳してみます。〔第二版序論,原佑訳上巻,p.81参照〕(;・∀・)
     *2 これも試しに、認識の「非経験依存的な可能性」ないしは「非経験依存的な使用」と訳してみます(;’∀’)

    † 原佑訳上巻、p.196〜p.197参照。
    † その他に、中山元訳2、p.27、石川文康訳上巻、p.114を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436

引用返信/返信 削除キー/
■28428 / inTopicNo.11)  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/01/02(Mon) 12:08:58)
    こちらこそ、ありがとうございました。

    pipitさん宛てのレスであると同時に自分に向けた戒めのレスであったりもします。

    ^^;
引用返信/返信 削除キー/
■28425 / inTopicNo.12)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/01/02(Mon) 10:40:23)
    2023/01/02(Mon) 10:42:26 編集(投稿者)

    パニチェさん、明けましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いします!
    (o^^o)

    No28421
    > 私は唯識の三性を立てる善・悪・無記(非善非悪)が仏教らしい善悪価値だと思っています。
    > 西洋的な白黒とか01のデジタル思考ではなく善悪を両極と見なしたグラデーション的な価値観です。
    > 日常のほとんどの行為、例えば空を見上げるとか顔を洗うとか電車に乗る等々、善でも悪でもない行為が大半です。<

    そうかぁ、たしかにpipitが書いたように、
    悟りに至る道か否かで善悪を二分すると極端すぎですね。

    > pipitさんが指摘されたように仏道の目的が悟りですから、ある行為や思いにどれだけ煩悩の汚れやにおいを纏っているかどうかによって区別します。
    > 特に仏教らしいのは無記(非善非悪)のなかにも、わずかな汚れのにおいがする有覆無記(非善非悪)と、全く汚れのにおいのない無覆無記(非善非悪)があることを教示している点です。<

    私は未勉強なのですが、有覆無記と無覆無記というものがあるのですね。
    ほんの少しのことにも気づく、という印象を持ちました。

    > こういう善悪価値ってのが今の世界にとっても有益ではないかと考えています。
    > 仏教では見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)も悪だし、同じ行為であってもそれを行う当人の心の状態によっては善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)となりますから、常に己の心と向き合うこと(内観)が必要となりますね。
    >

    自分の見解を絶対視することから苦しみは生まれるんだろうなぁ…
    自分の心からいろいろ生まれてる、その己の心に向き合う(内観)...

    私は未熟でなかなか実践はできませんが、それでもこのような教えに出会えて、心よりうれしい、
    そのようなことをパニチェさんのコメントを読んであらためて思いました。

    新年に大切なことお年玉にいただいたような気持ちです
    ありがとうございます
    (*^ω^*)
引用返信/返信 削除キー/

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