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■31693 / inTopicNo.13)  超越論的分析論Y−1
  
□投稿者/ うましか -(2023/07/10(Mon) 21:15:15)
    2023/07/10(Mon) 21:17:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    >ほんまにカントはすごい変◯やと思う..... ( No.31664  pipitさん)

    カント先輩は、、、

    すごーい\(-o-)/変○だー


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第二節 (第九項) 判断における悟性の論理的機能について

    *******

    ◆4 判断の様相は、判断の全く特殊な機能であって、この機能は判断の内容には何一つとして寄与せず、(なぜなら量、質及び関係以外には、判断の内容を決するものはもはや何も無いからである。) 思考一般との連関における けい辞〔Copula〕の価値だけに関わるという特質をそれ自体で持っている。
    蓋然的〔Problematische〕#サ断〔AはBかもしれない〕は、肯定または否定が、単に
    可能的〔moeglich〕(任意的〔beliebig〕)とみなされるときの判断である。
    実然的〔Assertorische〕判断=kAはBである〕は、肯定または否定が現実的〔wirklich〕(真〔wahr〕)とみなされるときの判断である。
    確然的〔Apodiktische〕判断=kAはBでなくてはならない〕は、肯定または否定がそこでは必然的〔notwendig〕≠ニみなされる判断である。〔註*1〕

    *1 註: あたかも思考は、第一の場合には悟性の機能であり、第二の場合には判断力の機能であり、第三の場合には理性の機能であるかのようである。これは後になって初めてその解明が期待される注意である。

    それで、それらの関係が仮言判断〔もしAがBなら、CはDである〕を形成する二つの判断(前件antecedensと後件consequens )、同じくそれらの相互作用によって選言判断が成立する諸判断(諸選言肢)は、ことごとく蓋然的でしかない。
    前述の実例〔「完全な正義があるならば、常習の悪人は罰せられるだろう」〕においては、「完全な正義がある」という命題は、実然的に主張されているのではなく、誰かがそう想定することが可能であるような一つの任意的な判断としてのみ考えられているのであり、ただ後件のみが実然的なのである。
    だから、そうした判断は明白に偽でもあり得るが、しかし蓋然的に解すれば、真理を認識するための条件でもあり得る。
    同様に、「世界は盲目的な偶然によって現存する」という判断は、前述の選言判断〔「世界は盲目的な偶然によって現存しているか、さもなければ内的な必然性によって現存しているか、さもなければ外的な原因によって現存しているかである」〕においては、蓋然的な意味しか、つまり誰かがこの命題を多分一瞬は想定するかもしれないという意味しか持たないが、しかし(私たちが取り得る全ての道のうちで、この道は誤っていると明記するように)、真なる命題を見出すのにも役立つのである。
    それ故、蓋然的命題〔「AはBかもしれない」〕は、単に論理的可能性(客観的ではない可能性)を表現するような命題であり、換言すれば、そうした命題を妥当せしめる自由な選択を表現するような、そうした命題を悟性の内へと単に随意に取り入れることを表現するような、そうした命題である。
    実然的命題〔「AはBである」〕は、論理的現実性または真理について主張するものであって、それは、例えば、仮言三段論法において、大前提における前件は蓋然的に現われるが、小前提における前件は実然的に現われ、だからこの命題は悟性の諸法則に従って悟性と既に結びついているということを暗示しているような命題である。
    確然的命題〔「AはBでなくてはならない」〕は、実然的命題を、悟性自身のこれらの諸法則によって規定されたものと考え、だからア・プリオリに主張するものと考え、このような仕方で論理的必然性を表現する。
    ところで、この場合全てのものは順次、悟性と同化し、かくして、まず或るものが蓋然的に判断され、ついでそれがおそらく実然的に真とみなされ、最後に、悟性と離れがたく結合しているものとして、換言すれば、必然的で確然的なものとして主張されるので、様相のこれら三つの機能はまた、思考一般の三つの契機とも名づけられ得るのである。

    --- No.31639 からの続き ---

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十項) 純粋悟性概念またはカテゴリーについて〔Von den reinen Verstandesbegriffen oder Kategorien〕

    ◇ 一般論理学〔Die allgemeine Logik〕は、既に何度も言ったように、認識の全ての内容を捨象して、どこからにせよ他所から表象が己に与えられることを期待するのであって、かくしてその表象はまず概念へと変ぜられるが、このことは分析的に〔analytisch〕行われる。

    ◇ 他方、超越論的論理学は、ア・プリオリに提供された感性の多様なものを持っているのであって、この多様なものを超越論的感性論は、純粋悟性概念に素材を与えるために超越論的論理学に提供したが、この素材が無ければ超越論的論理学は全ての内容を欠き、従って完全に空虚となるに違いない。

    ◇ ところで、空間と時間は、ア・プリオリな純粋直観の多様なものを含むが、にもかかわらず私たちの心がその下でのみ諸対象についての表象を受け取り得るところの、私たちの心の受容性の諸条件に属しているのであり、従って、それらの諸条件はそれらの諸対象の概念をもいつでも触発しなければならない。

    ◇ しかしながら、私たちの思考の自発性は、この多様なものが、まず或る種の仕方で、見渡され〔durchgegangen〕、受容され〔aufgenommen〕、結合され〔verbunden〕、かくしてこのことから一つの認識が作られることを要求する。この働きを私は綜合〔Synthesis〕と名づける。


    † 原佑訳上巻、p.220〜p.221参照。
    † その他に、中山元訳2、p.66〜p.67、石川文康訳上巻、p.132〜p.133を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Y−1 No.31693
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693

引用返信/返信 削除キー/
■31687 / inTopicNo.14)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/07/10(Mon) 12:33:37)
    こんにちは(^○^)♪
    返信ありがとうございます!

    pipitの今の段階の私見書きますね。
    「純粋理性批判」は、私たちにとって[対象]なるものがどのように生じるのか、が探求点の一つだと思っています。

    例えば、ある人が
    「地球は瞬間ごとに生じては滅するを繰り返しているのですよ」
    と言う時、

    ある人の目の前で、
    @感じているものAが生じて消える
    A感じているものBが生じて消える
    B感じているものCが生じて消える

    を経験して、
    ある人の中では、

    感じたAもBもCも「地球」という一つの対象で、その一つの「地球」が生滅を繰り返す、と、認識してますよね。

    様々な感性的情報を、「地球」という一つの対象に統一している。
    そのようなことを、先に引用したカントの文章からpipitは想像させられました。
    先に引用したものを2つ再掲しますね。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p193より引用。A102-103
    [ ]は中山先生による補註。

    『 ここでわたしが頭の中で一本の線を引こうとしてみるとしよう。あるいはある日の正午から翌日の正午までの時間について考えてみるとしよう。あるいは一つの[自然]数を思い浮かべてみるとしよう。
    そのときわたしはまず、これらの多様な像を頭の中で一つずつ思い浮かべる必要があるのは明らかである。
    しかしわたしがもしも[その一つずつ思い浮かべられる像に]先行する像を(たとえば一本の線の最初の部分とか、その時間よりも前の時間とか、その数よりも[自然数の順列で]前にある数を)いつも忘れてしまっているとしたら、そしてその次に来る像を思い浮かべるときに、その前にあった像を[忘れてしまって]再生しないとしたら、いかなる全体的な像を思い浮かべることもできないだろうし、すでに述べたような思想を思い浮かべることもできなきだろう。ましてや、空間と時間という、もっとも純粋で第一の根本的な像がうまれることもありえないだろう。
    (略)
    もしもわたしたちがこの瞬間に考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという意識がなければ、[心に思い描いた]像の系列のうちで、像を再生しても意味のないことだろう。
    というのは[こうした意識がないとしたら]わたしがいま思考したものは、現在という瞬間に思い描かれた新しい像であって、像の系列のうちでさまざまな像を次々と生み出してきたはずの働きに、まったく属さないことになり、その場合には[それまでの像の系列と新しい像で構成される]多様なものが、一つの全体を作りだすことはなくなるからである。
    多様なものにおいて統一を作りだすのは、[今わたしが考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという]かの意識だからである。』
    引用終了

    カントの文章の中山元先生訳、第二巻p196、[]は中山先生補註、A103-104
    『[物を掴む ベグライフェン という語から派生した] 概念 ベグリッフ という語そのものが、そのことに留意するきっかけとして役立つかもしれない。[物を掴むという]この意識こそが、次々と直観してきた像や、再生された像など、多様なものを集めて、一つの像としてまとめる働きをするからである。』
    引用終了

    みのりさん、ありがとうございます!


引用返信/返信 削除キー/
■31683 / inTopicNo.15)  pipitさんへ
□投稿者/ みのり -(2023/07/10(Mon) 08:03:15)
    2023/07/10(Mon) 08:19:54 編集(投稿者)
    pipitさん、ありがとうございます♪^^

    No31678に返信(pipitさんの記事)
    > 2023/07/09(Sun) 22:18:42 編集(投稿者)

    > No31667
    >>紙の上に何も書いてないところから始まって、短い直線から長い直線へと引きながら変化していく時、その変化を視覚が捉えることにより時間の経過も認識できると言ってるのかな、と感じたのだけど。。。<
    >
    > カントはpipitにとってはすごく迷路で(/ _ ; )
    >
    > いまのpipit的には、視覚を入力とすると、それを記憶として出力することで&多数の出力を統一することで、[一つとしての対象]を作成してる、と言ってるのかな?と思ってます。

    > @--------_φ(・_・
    >
    > A------------------------_φ(・_・
    >
    > B----------------------------------------_φ(・_・
    >
    > と線を引いて行った時、Bの対象としての線には@とAの行為も(再生的な像として)含まれて統一されてBという一つの対象として捉えられてる、みたいな感じかな?と。
    > 特に頭の中で線を引く場合、Bの行為の瞬間は、(BマイナスA)の線分を引いてるので、Aまでの記憶を再生しなければ、B全体の線分にならないのかと、pipitは考えてみましたが、、、
    >
    > 分かりにくいですよね(T ^ T)

    いえいえ、ほぼ理解できたと思います。 
    丁寧に教えてくださってありがとうございます。^^

    > pipitが今訳しているのは第二版の純粋理性批判なんですけど、第一版に、線を引くことなどについて、(記憶的な)像の再生を絡めて記述してる箇所があるので、引用しますね。
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p193より引用。A102-103
    > [ ]は中山先生による補註。
    >
    > 『 ここでわたしが頭の中で一本の線を引こうとしてみるとしよう。あるいはある日の正午から翌日の正午までの時間について考えてみるとしよう。あるいは一つの[自然]数を思い浮かべてみるとしよう。
    > そのときわたしはまず、これらの多様な像を頭の中で一つずつ思い浮かべる必要があるのは明らかである。
    > しかしわたしがもしも[その一つずつ思い浮かべられる像に]先行する像を(たとえば一本の線の最初の部分とか、その時間よりも前の時間とか、その数よりも[自然数の順列で]前にある数を)いつも忘れてしまっているとしたら、そしてその次に来る像を思い浮かべるときに、その前にあった像を[忘れてしまって]再生しないとしたら、いかなる全体的な像を思い浮かべることもできないだろうし、すでに述べたような思想を思い浮かべることもできなきだろう。ましてや、空間と時間という、もっとも純粋で第一の根本的な像がうまれることもありえないだろう。
    > (略)
    > もしもわたしたちがこの瞬間に考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという意識がなければ、[心に思い描いた]像の系列のうちで、像を再生しても意味のないことだろう。
    > というのは[こうした意識がないとしたら]わたしがいま思考したものは、現在という瞬間に思い描かれた新しい像であって、像の系列のうちでさまざまな像を次々と生み出してきたはずの働きに、まったく属さないことになり、その場合には[それまでの像の系列と新しい像で構成される]多様なものが、一つの全体を作りだすことはなくなるからである。
    > 多様なものにおいて統一を作りだすのは、[今わたしが考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという]かの意識だからである。』
    > 引用終了

    例えばですが、画家が自分で絵を描いていく時、一日で描き終わるってまずないですよね。
    デッサンからはじまって色付けして仕上げるまで、大作だったら数か月数年とかかる場合もあります。
    今日はここまで、今日はここまで・・・の繰り返しで絵は仕上がっていくけれど、描きたいものという自分の中で決まっているものを仕上げていくためにそれは行われるのだから、昨日の作業と今日の作業は当然に繋がっている。
    昨日描いたものと今日に描こうとしているものとがまったく同じものだという意識が、一つの全体(ここで言えば、大作絵画)を生み出す。
    こんなことを思い浮かべました。

    誰でもが普段の生活で普通にしていることを実は説明しているんだと思うのです。

    > 多様なものにおいて統一を作りだすのは、[今わたしが考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという]かの意識だからである。

    これですね。

    > 関連するかなと思う、片山光弥さんの論文のアドレスを貼りますね、pipitはちゃんと読めてないんですけど(T . T)
    >
    > https://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron40/05-Katayama.pdf
    > 論文の最初に「対象を追跡可能な個体として』という片山さんの文章が出てきますが、
    > いろんな像を総合して、一つの対象として追跡可能なものにする過程に、直観の形式としての時間と、その時間を再(?)規定する知性の関わりが、カントの時間論で展開されてるのかなと思っています。
    > でも全然違ったらすみませんー
    > 。゚(゚´ω`゚)゚。

    論文は難しいと思うので開けませんでした。
    せっかく貼ってくださったのにごめんなさい。_(._.)_

    > 質問していただいて、調べたりすることで、すごく勉強になりました。
    > ありがとうございます(^○^)

    こちらこそです。
    ありがとうございました。^^
引用返信/返信 削除キー/
■31682 / inTopicNo.16)  Re[11]: pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/07/10(Mon) 07:10:46)
    pipitさん、おはようございます。
    何か、朝から変な汗かいちゃいました(笑)


    No31680に返信(pipitさんの記事)
    > 悪魔ちゃん、いらっしゃーい(o^^o)
    >
    > ■No31676に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    >>pipitさま、お邪魔〜
    >>
    >>■31668、
    >>御子柴善の
    >>>哲学は概念で生きているからである<
    >>に、わたし、ちょとひかっかちゃう、
    >>え、そうなの?って。
    >>
    >>でね、「概念」、英語では「conception]になるのかな?
    >>この意味をpipitさまのばあい、どう言語で表現します?<
    >
    > それがさぁ、みのりさんに返信するためにカントの引用してたらさぁ、
    > 続きで、概念出てきたん!!
    >
    > 引用するね。カントの文章の中山元先生訳、第二巻p196、[]は中山先生補註、A103-104
    > 『[物を掴む ベグライフェン という語から派生した] 概念 ベグリッフ という語そのものが、そのことに留意するきっかけとして役立つかもしれない。[物を掴むという]この意識こそが、次々と直観してきた像や、再生された像など、多様なものを集めて、一つの像としてまとめる働きをするからである。』
    > 引用終了
    >
    > それで、pipitの場合は、、、
    > 概念というと、感性で得たものを頭で考えた表象が概念って感じかなー
    > そんなに考えてないけど…
    >
    > pipitが勉強になったなーと思ったふくろうさんの記事、検索したら見つかったので、No投稿させていただくね。
    >
    > No27032
    > です。
    > 抜粋引用させていただくと、
    >
    > (ふくろうさん)
    >>未知の概念の理解
    > @ 既知の概念の意味に落とし込んで理解する。未知を既知へと還元すること。理解=納得。
    > A 既知の概念の使用をマスターし、新たな世界の観方を習得する。既知から未知への超出。理解=発見。<
    >
    > pipitは@ばっかりで、Aを全然できてないと、、、
    >
    > ※もしかしてAは「未知の概念の使用をマスターし」の入力間違いの可能性も?と思いましたけど、
    > 意味的には【既知から未知への超出。理解=発見。】ということで、、、
    >

    ご指摘通り、明らかな誤入力ですね(^_^;)
    すみません。

    > 全然実行できてませんけど、、、
    >

    エラそうに言ってる私も同じです(汗)

    ただ『論考』を解釈するとき、どうしても@で理解しようとしてしまうのですが、どう考えても凡庸化しちゃうんですね。
    数学の「虚数」の概念の理解というか、受け容れる難しさと似ているかもしれません。
    常に肝に命じていないと直ぐに楽な解釈に逃げてしまいがちなので、注意したいと思ってます。
引用返信/返信 削除キー/
■31680 / inTopicNo.17)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 23:46:11)
    悪魔ちゃん、いらっしゃーい(o^^o)

    No31676に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま、お邪魔〜
    >
    > ■31668、
    > 御子柴善の
    > >哲学は概念で生きているからである<
    > に、わたし、ちょとひかっかちゃう、
    > え、そうなの?って。
    >
    > でね、「概念」、英語では「conception]になるのかな?
    > この意味をpipitさまのばあい、どう言語で表現します?<

    それがさぁ、みのりさんに返信するためにカントの引用してたらさぁ、
    続きで、概念出てきたん!!

    引用するね。カントの文章の中山元先生訳、第二巻p196、[]は中山先生補註、A103-104
    『[物を掴む ベグライフェン という語から派生した] 概念 ベグリッフ という語そのものが、そのことに留意するきっかけとして役立つかもしれない。[物を掴むという]この意識こそが、次々と直観してきた像や、再生された像など、多様なものを集めて、一つの像としてまとめる働きをするからである。』
    引用終了

    それで、pipitの場合は、、、
    概念というと、感性で得たものを頭で考えた表象が概念って感じかなー
    そんなに考えてないけど…

    pipitが勉強になったなーと思ったふくろうさんの記事、検索したら見つかったので、No投稿させていただくね。

    No27032
    です。
    抜粋引用させていただくと、

    (ふくろうさん)
    > 未知の概念の理解
    @ 既知の概念の意味に落とし込んで理解する。未知を既知へと還元すること。理解=納得。
    A 既知の概念の使用をマスターし、新たな世界の観方を習得する。既知から未知への超出。理解=発見。<

    pipitは@ばっかりで、Aを全然できてないと、、、

    ※もしかしてAは「未知の概念の使用をマスターし」の入力間違いの可能性も?と思いましたけど、
    意味的には【既知から未知への超出。理解=発見。】ということで、、、

    全然実行できてませんけど、、、

引用返信/返信 削除キー/
■31678 / inTopicNo.18)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 22:11:49)
    2023/07/09(Sun) 22:18:42 編集(投稿者)

    みのりさんこんばんは、書き込みありがとうございます!

    No31667
    > 紙の上に何も書いてないところから始まって、短い直線から長い直線へと引きながら変化していく時、その変化を視覚が捉えることにより時間の経過も認識できると言ってるのかな、と感じたのだけど。。。<

    カントはpipitにとってはすごく迷路で(/ _ ; )

    いまのpipit的には、視覚を入力とすると、それを記憶として出力することで&多数の出力を統一することで、[一つとしての対象]を作成してる、と言ってるのかな?と思ってます。


    @--------_φ(・_・

    A------------------------_φ(・_・

    B----------------------------------------_φ(・_・

    と線を引いて行った時、Bの対象としての線には@とAの行為も(再生的な像として)含まれて統一されてBという一つの対象として捉えられてる、みたいな感じかな?と。
    特に頭の中で線を引く場合、Bの行為の瞬間は、(BマイナスA)の線分を引いてるので、Aまでの記憶を再生しなければ、B全体の線分にならないのかと、pipitは考えてみましたが、、、

    分かりにくいですよね(T ^ T)

    pipitが今訳しているのは第二版の純粋理性批判なんですけど、第一版に、線を引くことなどについて、(記憶的な)像の再生を絡めて記述してる箇所があるので、引用しますね。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p193より引用。A102-103
    [ ]は中山先生による補註。

    『 ここでわたしが頭の中で一本の線を引こうとしてみるとしよう。あるいはある日の正午から翌日の正午までの時間について考えてみるとしよう。あるいは一つの[自然]数を思い浮かべてみるとしよう。
    そのときわたしはまず、これらの多様な像を頭の中で一つずつ思い浮かべる必要があるのは明らかである。
    しかしわたしがもしも[その一つずつ思い浮かべられる像に]先行する像を(たとえば一本の線の最初の部分とか、その時間よりも前の時間とか、その数よりも[自然数の順列で]前にある数を)いつも忘れてしまっているとしたら、そしてその次に来る像を思い浮かべるときに、その前にあった像を[忘れてしまって]再生しないとしたら、いかなる全体的な像を思い浮かべることもできないだろうし、すでに述べたような思想を思い浮かべることもできなきだろう。ましてや、空間と時間という、もっとも純粋で第一の根本的な像がうまれることもありえないだろう。
    (略)
    もしもわたしたちがこの瞬間に考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという意識がなければ、[心に思い描いた]像の系列のうちで、像を再生しても意味のないことだろう。
    というのは[こうした意識がないとしたら]わたしがいま思考したものは、現在という瞬間に思い描かれた新しい像であって、像の系列のうちでさまざまな像を次々と生み出してきたはずの働きに、まったく属さないことになり、その場合には[それまでの像の系列と新しい像で構成される]多様なものが、一つの全体を作りだすことはなくなるからである。
    多様なものにおいて統一を作りだすのは、[今わたしが考えているものが、一瞬だけ前の瞬間に考えていたものとまったく同じであるという]かの意識だからである。』
    引用終了

    関連するかなと思う、片山光弥さんの論文のアドレスを貼りますね、pipitはちゃんと読めてないんですけど(T . T)

    https://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron40/05-Katayama.pdf

    論文の最初に「対象を追跡可能な個体として』という片山さんの文章が出てきますが、
    いろんな像を総合して、一つの対象として追跡可能なものにする過程に、直観の形式としての時間と、その時間を再(?)規定する知性の関わりが、カントの時間論で展開されてるのかなと思っています。
    でも全然違ったらすみませんー
    。゚(゚´ω`゚)゚。

    質問していただいて、調べたりすることで、すごく勉強になりました。
    ありがとうございます(^○^)
引用返信/返信 削除キー/
■31676 / inTopicNo.19)  Re[9]: つぶやき日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/09(Sun) 19:50:21)
    pipitさま、お邪魔〜

    ■31668、
    御子柴善の
    >哲学は概念で生きているからである<
    に、わたし、ちょとひかっかちゃう、
    え、そうなの?って。

    でね、「概念」、英語では「conception]になるのかな?
    この意味をpipitさまのばあい、どう言語で表現します?
引用返信/返信 削除キー/
■31669 / inTopicNo.20)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 19:01:30)
    みのりさん、こんばんは!
    もうちょっと後で返信させてもらいますね、
    書き込みありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■31668 / inTopicNo.21)  つぶやき日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 18:59:22)
    2023/07/09(Sun) 20:12:37 編集(投稿者)

    ふくろうさんがこの掲示板で教えてくださったことは、ずっと心に残ってる気ではいるんだけど、pipitはすごい怠け者で、、、

    あの後、御子柴善之先生の「さまざまな概念を正確に翻訳することを断念することで表面的に分かりやすくすればよいかと言えば、そうではない。それでは哲学が死んでしまう。哲学は概念で生きているからである。」という言葉を読みました。
    (今、目にしてるのは『道徳形而上学の基礎づけ』人文書院、御子柴善之先生訳、p227訳者あとがき)

    きちんと勉強せずに、、、

    でも、そのことに気づかせていただいただけでもとてもありがたく思っています

引用返信/返信 削除キー/
■31667 / inTopicNo.22)  Re[37]: 純粋理性批判B154
□投稿者/ みのり -(2023/07/09(Sun) 18:47:08)
    pipitさん、お邪魔します。

    No31662に返信(pipitさんの記事)
    > 2023/07/09(Sun) 16:58:38 編集(投稿者)
    >
    > みなさまこんばんは!
    > No31660英訳のpipit日訳(意訳)です。
    > ==========
    > 英訳略
    >
    > (想像力の超越論的な働きを自分自身で意識できる例として)、
    >
    > 私たちは直線・・・時間を外的に形象化するための直線・・・を引くことなしには、時間について考えることもできないのである。
    >
    > 直線を引くことで、私たちは私たちの注意を多様の総合行為に向け、
    > それによって内官の感覚を連続的に規定し、
    > そのようにこの規定の連続性に注目することができるのである。
    >
    > ============
    >
    > (pipit感想)
    > いろんなものが、心(内官)、に浮かぶ。
    > 見たもの、聞いたもの、考えたもの。
    >
    > そのような多種多様な浮かんだもの(生じたもの)を、
    >
    > →過去→現在→未来→
    >
    > という、直線的に形象化した時間の上に、総合的に秩序づける。(内官的には触発により受動的に秩序づけられる)。
    > そのような行為なしには、時間というものについて考えることすらできない。
    >
    > そんな感じのことをカントは考えてるのかなーと思いました。
    > 全然違ったらすみません!
    >
    > 次こそは、B155!

    紙の上に何も書いてないところから始まって、短い直線から長い直線へと引きながら変化していく時、その変化を視覚が捉えることにより時間の経過も認識できると言ってるのかな、と感じたのだけど。。。

    pipitさんも同じようでしたか?

    読解力チェック(自分の)をしたい 思いが・・・
    pipitさんのと遠からずだといいな。
引用返信/返信 削除キー/
■31664 / inTopicNo.23)  Re[6]: 日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 17:05:28)
    ほんまにカントはすごい変◯やと思う.....
引用返信/返信 削除キー/
■31663 / inTopicNo.24)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/09(Sun) 17:04:30)
    全然違うかもだけど、、、

    もしかしたら、知性と感性を結ぶ図式を想像力により作成される時間としてる、、、


    ふと、そんな妄想が頭に浮かびました
    (´-`).。oOモウソウ

    図式論、興味あるけど、遠い--------
    (´;Д;`)
引用返信/返信 削除キー/

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