| ラカンの鏡像段階のでわたしが見ようとしてるのは、生後6〜18ヵ月が自他融合の状態だとしたら、 @ 自と他の区別がどのようにして出来てくるの?(自を主、他を客、ってして見てもいいよ) A 自と他は区別されている、ってわたし思ってるけど、それって本当にそうなのかな? B 私(自)と他人(他)っていうけど、じゃ、そもそも私ってなあに?他人ってなあに? C 自己認識(外界ではなく自分自身に向けられる意識) みたいなのに関わってるんじゃないかな〜、って。
〈体自〉ちゃんの場合と、猫やチンパンジーの場合とを比較して見た。
(1)初めて自身の鏡像を見たとき、 〈体自〉ちゃんもチンパンジーや猫の場合と同じように、「(これ)、なあに?」ってなってるんだと思う。 異なるのは、チンパンジーのばあい「威嚇する行動」なのかもしれないけど、〈体自〉ちゃんのばあいはそういうんじゃなくて「知りたいっていう行動」なんじゃないかしら、って。(子猫ちゃんの場合もそうなのかな?)
(2)自身の鏡像を見て「あれ、これ、わたし?」ってなっとき。 チンパンジーや猫の場合と同じように〈体自〉ちゃんは、「鏡に映った像を自分であると理解できる」ってして、そのときね、 〈体自〉ちゃんの場合の反応が問題なのね。 No30710にあるような、 (2) 生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。 (3)-A チンパンジーであれば、鏡に映った自分の姿を見ても、ひとたびその鏡像が生きたものではないということを確かめさえすれば、それで事足れりとなるけれど、人間の子供はそうではない。ラカンは、幼児が「ああそうか体験 Aha-Erlebnis」の際の輝くような表情とともに自分の姿をそれと認知するのだと言う。 (7) 鏡像段階になると幼児は自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示し欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するが、これは全体としてまとまりのある身体像をみいだすことができるからであり、全体としてまとまりのある自分というものを発見することができるからである。
ここにあるような〔歓喜に満ちた表情を見せる〕とか〔特別の関心を示し欣喜雀躍する〕(こういうのをAha-Erlebnisっていってるんだとわたし見てるけど)っていうところが問題なのね。 チンパンジーや猫の場合、そういうのあるのかしら?
なんか、書いてて思ったんだけど、猫やチンパンジーの場合、「ああそうか体験 Aha-Erlebnis」みたいなのはなくて、人乳幼児(だから人アプリオリにね)に見られる特性なことなのかも?って。これって「自己意識」(外界ではなく自分自身に向けられる意識)が人には備わってるっていうことになるんじゃないかしら?「私とはなにか?」みたいな問いが人には産まれること自体がそうなんじゃないかしら?ひょっとしたらこういうの、猫やチンパンジーにはないのかもしれない、って。 No30710の(2)にあるような 〔チンパンジーの、鏡の自己像に一旦興味は示すもののそれが単なる鏡像だと分かればたちまち興味を失ってしまう〕 のようなのとは異なって。
「省察」を、 〔自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること。〕 〔みずからかえりみて、その善悪、是非を考えること。〕 ってすると、 〔「よしあし」を「考える」こと〕、〔「善悪、是非」を「考える」こと。〕っていうのは別として、〔自分自身をかえりみて〕とか〔みずからかえりみて〕は「自己意識」になるんじゃないかしら? デカルトは、「自己意識」――外界ではなく自分自身に向けられる意識――したのかもね。こういう営みは、人ならではの――アプリオリに備わっているもののうちで、っていうことになるんじゃないかな〜?
もっとも、わたし、「Aha-Erlebnis」っていうのは本当のことなの?みたいなんはあるけどね。
この機会に人のとチンパンジーのを比較して見るのもいいかな、って思って。
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