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■31875 / inTopicNo.13)  Re[75]: 言葉のざわめきの下
  
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/07/23(Sun) 12:33:48)
    2023/07/23(Sun) 15:45:20 編集(投稿者)

    脳の中の『 自 』ってのが…、やはり、解せん。

    俺はよく、『 脳の中のホムンクルス 』をカキコするが、
    このホムンクルスには脳がないんだが、どう解釈してよいのか?

    https://neuromas.weebly.com/uploads/1/1/8/8/118880648/hum-nculo_orig.jpg

    【 追加 】

    悪魔ちゃんのカキコだと、
    脳の中が、まるで宇宙船の操縦コントロールのような部屋で、
    そこで『 自 』が、肉体の自をコントロールしている事になる。
引用返信/返信 削除キー/
■31867 / inTopicNo.14)  Re[74]: 言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/22(Sat) 16:49:02)
    自他未分の状態の〈自〉、そして自他分化した状態の〈自〉、ってして見た。
    ――〈自〉は分化する、〈自〉の分化、っていう見方ね。

    〈体自〉ちゃんは、「体」が成長するのと同じように、〈自〉も成長するよね。
    わたしのばあい、〈自〉の成長はまず〈自〉の分化から始まるんじゃないかしら?って。
    どんなんに分化するか、っていうと、脳は機能局在性みたいだから、
    おおまかに「知覚」「思・考」「記憶」の領域に、っていふうにして見た。

    ところで、脳って大きくなるの?って思って。
    No30666では、
    (1)〔新生児の脳は成人の23%。脳幹はほぼ完成。海馬は未完成。〕
    っていうことみたい。どうやって調べたのかわかんないけど。
    ネットでいろいろ調べたんだけど、
    (2)〔脳の重さで、1歳までに大人の約70%まで成長し、3歳までに大人の約90%に成長する。〕
    (3)〔4〜5歳頃には大人と同じくらいになり、頭の大きさはその頃でほぼ完成して、後は中身の脳がどんどん発達していく。〕
    っていうのがあった。
    で、ひとまず、こういうのにしとく。

    あと、〈知覚されているも〉のは〈他(者)〉ってして見て、

    No31866の図のような〈私の意識〉になる過程――〈自〉の分化――の、わたしのイメージを絵にして見たのを添付しま〜す。

    〈自〉は分化して、〈分化した自〉になるんだけど、その状態の〈自〉を、「自分」って呼んじゃおっかな〜。

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引用返信/返信 削除キー/
■31866 / inTopicNo.15)  Re[73]: 言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/22(Sat) 14:40:29)
    ここまでわたしが見たのは、
    〈体自〉ちゃんが6〜8ヵ月のころは自他融合(自他未分)の状態ってして見た。そして、自他未分(自他融合)の状態から、自他分化の状態になるってして、それは、可視的身体(自体)によって。
    「あれ!これ、わたし?」――こういうふうにして「私」は発生した、っていうとこ。

    こういうのと、前に見てきた「意識」を絡めて見る。

    あ、わたし、大きくなった〈体自〉ちゃんを「体自」って呼ぶことにして、これを「私」とも呼ぶことにした。

    No30415に描いて見たのは、大きくなってからの〈体自〉ちゃん(「体自」)の絵になってたかな。
    もっと簡単にしてみたのを添付します。

    わたし、「脳」「意識」「精神」「心」みたいなのを「自」という語で表してる。
    わたしのイメージとして、「自」っていう語、「私」っていうのと結びつけられるし、「自ら」と「自ずから」っていうように両義的に使えるから、この語を使ってがいいかな、って。

    これから〈自〉に焦点を当てて見ていく。


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■31815 / inTopicNo.16)  Re[72]: 言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/17(Mon) 15:54:38)
    No31804
    うましかさん、ありがと。
    ここで感想を書きま〜す。

    やっぱ、自他融合の状態っていうのは、
    それを見ている当の〈自〉の存在に気づいてなくて(だから自も他もないんだけど)、で、「自は他(者)になってる」っていうことでよさそうね。

    〔他の子供の傷口を見ながら、それを自分の痛みと感じて泣いてしまったり〕は、
    他者の傷口が自の傷口になっていて(と、覚されていて)、泣いてしまった、みたいな。たぶん、痛みを感じてないにもかかわらず、なんだとわたし思う、他者の痛みに共感して、っていうんじゃなくて。

    〔ピアジェは、自己中心性の中で孤立していた幼児が、コミュニケーション能力の発達に応じて周囲に開かれていくという立場をとり、ワロンは反対に、自他未分化の状態を生きていた幼児が、次第に自他のしきりを発見していくという立場をとっている〕
    は、
    〔自我に他者を付加するのではなく、自他未分化の総体から両者を分割しようとする〕になるんだと思うけど、
    前者がピアジェ、後者がワロンになるのかな?(ピアジェの見方、わたし知らなかった)
    わたし、メルポン派だから、後者の方で見て考えてたみたい。
    で、自他未分化(自他融合)の状態から自他分化の状態になるのはどのようにして?を、これまでお喋りしてきたんだと思う。

    〔他者と癒合的社会性〕、この〔社会性〕っていうのも問題ね。
    あと、
    未分化状態から分化する、っていう見方も気になってる。

    もうちょっと、メルポンの『言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるだろう。』
    に関わると思われてるわたしの、〈体自〉ちゃんの物語り、つづけよっかな〜。


引用返信/返信 削除キー/
■31808 / inTopicNo.17)  Re[71]: 人が死ぬとどうなるの?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/17(Mon) 10:27:28)
    ■31799、マジモンさん、
    >一気に宗教観が増す。<
    なるほど〜。

    「人が死ぬとどうなるの?」
    じゃなくて、
    「人は死ぬとどうなるの?」
    っていう言い方の方がよかったかも。

    ふと思ったことなんだけど、あまり考えないことにしよっと。
引用返信/返信 削除キー/
■31799 / inTopicNo.18)  Re[70]: 人が死ぬとどうなるの?
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/07/16(Sun) 21:43:59)
    No31795に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 人が死ぬと、日本の法では
    > 焼いて骨にすることになってるみたい。
    >
    > たしかに〜、そのままそこに放置しておくと腐敗臭してくるしね。

    一気に宗教観が増す。
    死体(遺体)は『 齎すもの 』としか言えない。
引用返信/返信 削除キー/
■31795 / inTopicNo.19)  Re[69]: 人が死ぬとどうなるの?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/16(Sun) 19:11:16)
    人が死ぬと、日本の法では
    焼いて骨にすることになってるみたい。

    たしかに〜、そのままそこに放置しておくと腐敗臭してくるしね。
引用返信/返信 削除キー/
■31777 / inTopicNo.20)  Re[68]: 言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/15(Sat) 19:19:30)
    〈体自〉ちゃんの物語り、そろそろまとめて、ひとまず、おしまいにしよっかな〜。課題は残ってるけど。

    〈体自〉の現出(自と体の統一)や、〈他(者)〉の現出の契機は、結局、私の可視的身体によって、なんじゃないかしら、って。

    No30397の【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注(p300)の、
    〔空間的場所としては、私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」と呼んだ。〕
    メルポンは【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかで、
    『私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。』(p253)
    って言ってる。
    前にも書いたけど、
    私の身体という絶対的なここによって、「私」は「わたし」になる、みたいな?

    No31066(p36)にあるように、
    「他(者)」が「人」のばあい、類比によって、同類という覚も現出してくる。

    そして、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】から、一部書き写して見ます。
    *******************
    第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている(p201)

    私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)(34)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。ここでこの類比による把握に特有なことを特徴づけようとする時、まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本体的な知覚には至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。第一の特性と密接に関連することだが、我(エゴ)と他我(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる(35)」という仕方で与えられる。(p201)
    …‥
    ここではまず、一般に「対になる」ということ(あるいは「多の形成」)に本質的な特徴を明らかにしておこう。「対になる」とは、「同じものとして捉える〔=同定〕」という受動的綜合に対立させて、「連合」と呼ぶ、受動的綜合の一つの根源的形式である。対になる連合に特徴的なのは、もっとも単純な例で言えば、次のようなことである。二つの所与が意識の統一において他から際立って直観的に与えられ、そのことに基づいて、本質上すでに純粋な受動性において、それゆえ、注意が向けられようがいまいが、それらが他と区別されて現出するものとして、類似性の統一を現象学的に基礎づけており、それゆえまさに、二つの所与は常に対として構成される、と。(p202)
    ……・
    いまここで特に取り組んでいるのは、我による他我の連合と統覚という場面であるが、ここでは、他者が私の知覚の場に現れた時に初めて、対になるということが生じている。原初的な心理物理的自我としての私は、自分に注意を向けようと向けまいと、自分を何らかの活動に向けようと向けまいと、私の原初的な知覚の場において絶えず際立てられている。特に常にそこにあり感性的に際立っているのは私の身体物体(ライプケルパー)であるが、しかもそれは同様に原初的な根源性においては、身体性という特別な意味を備えている。そこでいま私の原初的な領分のうちに一つの物体が際立って現れ、それが私の身体と似ている、すなわち、それが私の身体と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体は意味が押しかぶせられることによって、直ちに私の身体から身体という意味を受け取るにちがいない。(p203)
    ……
    訳注(34)Leib-Körper:注(17)に述べた、「身体」と「物体」の区別を踏まえながらも、その両面をもつと捉えられているものをこう呼んでいる。

    訳注(35)Paarung:「対(Paar)にすること/なること」を指す。後にのべられるように、フッサールはこれを「受動的綜合の一つの根源的形式」として考えており、その意味で、「対にする」より「対になる」としたほうが適切と思われる。また、このあと、「対になること」は「連合と呼ばれる受動的綜合の一つの根源的形式」とされるが、「連合は受動的発生の原理である」(本書第39節)とも言われており、フッサール自身ここで論じているのは「静態的な分析」(本書第48節)であると断りながらも、発生的現象学に属する問題圏に踏み込んでしまっている。
    *******************

    自と他は対(つい)になって存在してる。
    ん〜ん、そうね、左と右、女性と男性、善と悪、真と偽は対(つい)になって存在しているみたいなのと同じように。
    だから、自だけ、他だけ、を取り出して見たところで実存的私を見ることはできないのかも? 
    ――自と他の結び目を見ること。――〈と〉を見ること――対(つい)の結び目を見ること。
    っていうのが、メルポンの現象学的方法なんかも?

    あと、「自」を「主」、「他」を「客」と言いかえてもいいかな。
    ――自(主)から見た他(客)、他(自)から見た自(客)っていう関係性。
    主――主体とか主観
    客――客体とか客観

    ラカンの鏡像段階――生後6〜18ヵ月――のころの私を体自ちゃんってして見て、現象学のと結びつけてわたし見てきたんだけど、こういうのって、一般的に大人になった私のうちにも原初・自然的にあるんじゃないかな?ってわたし思ってる。ただそれは自明なこと(あたりまえのこと)として処理されてしまっていて、話題にもならない、大人私になっちゃた人には、どうでもいいこと。


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■31776 / inTopicNo.21)  Re[68]: :<体自>ちゃんが猫の場合
□投稿者/ 田秋 -(2023/07/15(Sat) 19:18:06)
    こんつわ。

    論考してる人たちがバカかどうかはともかく、悪魔ちゃんがいろんな思索を深くしていることは事は十分承知しています。
引用返信/返信 削除キー/
■31775 / inTopicNo.22)  Re[67]: :<体自>ちゃんが猫の場合
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/15(Sat) 18:51:11)
    ■31769 、
    >論考のお邪魔をしますた<
    いいえ〜、

    ところで、田秋さん、わたしの、<論考>じゃないからね。
    バカな人たちといっしょにしないで。

引用返信/返信 削除キー/
■31769 / inTopicNo.23)  Re[66]: :<体自>ちゃんが猫の場合
□投稿者/ 田秋 -(2023/07/15(Sat) 10:02:24)
    おはようございます、悪魔ちゃん

    >>割とすぐ慣れるんだよね。<
    >どういうふうに慣れるのかにも関心があるんだけど。
    うちのは〈や、やんのか!?〉もせずに、
    1.びっくりした(誰かいる)。
    2.鏡の後ろを探した
    だったんだけど、最初だけだったように記憶しています。

    その後は抱っこして鏡の前に立っても、別にそわそわするでもなく、鏡に自分が写るのは

    「当たり前・・・」

    みたいな感じでした。鏡というものはモノを写すものなのだという認識があったのかどうかはわかりません。

    鏡を見て、その後ろを探すというのは、「鏡像は本物ではない」という直感があるのかなあ。

    てな感じです。論考のお邪魔をしますた。
引用返信/返信 削除キー/
■31764 / inTopicNo.24)  Re[67]: 教え
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/14(Fri) 19:29:58)
    自称指導者に従順であるように、

    「人を育てる方法」

    こういうの書くの得意な人はいっぱいいそう。
引用返信/返信 削除キー/

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