| 〈体自〉ちゃんの物語り、そろそろまとめて、ひとまず、おしまいにしよっかな〜。課題は残ってるけど。
〈体自〉の現出(自と体の統一)や、〈他(者)〉の現出の契機は、結局、私の可視的身体によって、なんじゃないかしら、って。
No30397の【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注(p300)の、 〔空間的場所としては、私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」と呼んだ。〕 メルポンは【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかで、 『私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。』(p253) って言ってる。 前にも書いたけど、 私の身体という絶対的なここによって、「私」は「わたし」になる、みたいな?
No31066(p36)にあるように、 「他(者)」が「人」のばあい、類比によって、同類という覚も現出してくる。
そして、 【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】から、一部書き写して見ます。 ******************* 第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている(p201)
私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)(34)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。ここでこの類比による把握に特有なことを特徴づけようとする時、まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本体的な知覚には至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。第一の特性と密接に関連することだが、我(エゴ)と他我(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる(35)」という仕方で与えられる。(p201) …‥ ここではまず、一般に「対になる」ということ(あるいは「多の形成」)に本質的な特徴を明らかにしておこう。「対になる」とは、「同じものとして捉える〔=同定〕」という受動的綜合に対立させて、「連合」と呼ぶ、受動的綜合の一つの根源的形式である。対になる連合に特徴的なのは、もっとも単純な例で言えば、次のようなことである。二つの所与が意識の統一において他から際立って直観的に与えられ、そのことに基づいて、本質上すでに純粋な受動性において、それゆえ、注意が向けられようがいまいが、それらが他と区別されて現出するものとして、類似性の統一を現象学的に基礎づけており、それゆえまさに、二つの所与は常に対として構成される、と。(p202) ……・ いまここで特に取り組んでいるのは、我による他我の連合と統覚という場面であるが、ここでは、他者が私の知覚の場に現れた時に初めて、対になるということが生じている。原初的な心理物理的自我としての私は、自分に注意を向けようと向けまいと、自分を何らかの活動に向けようと向けまいと、私の原初的な知覚の場において絶えず際立てられている。特に常にそこにあり感性的に際立っているのは私の身体物体(ライプケルパー)であるが、しかもそれは同様に原初的な根源性においては、身体性という特別な意味を備えている。そこでいま私の原初的な領分のうちに一つの物体が際立って現れ、それが私の身体と似ている、すなわち、それが私の身体と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体は意味が押しかぶせられることによって、直ちに私の身体から身体という意味を受け取るにちがいない。(p203) …… 訳注(34)Leib-Körper:注(17)に述べた、「身体」と「物体」の区別を踏まえながらも、その両面をもつと捉えられているものをこう呼んでいる。
訳注(35)Paarung:「対(Paar)にすること/なること」を指す。後にのべられるように、フッサールはこれを「受動的綜合の一つの根源的形式」として考えており、その意味で、「対にする」より「対になる」としたほうが適切と思われる。また、このあと、「対になること」は「連合と呼ばれる受動的綜合の一つの根源的形式」とされるが、「連合は受動的発生の原理である」(本書第39節)とも言われており、フッサール自身ここで論じているのは「静態的な分析」(本書第48節)であると断りながらも、発生的現象学に属する問題圏に踏み込んでしまっている。 *******************
自と他は対(つい)になって存在してる。 ん〜ん、そうね、左と右、女性と男性、善と悪、真と偽は対(つい)になって存在しているみたいなのと同じように。 だから、自だけ、他だけ、を取り出して見たところで実存的私を見ることはできないのかも? ――自と他の結び目を見ること。――〈と〉を見ること――対(つい)の結び目を見ること。 っていうのが、メルポンの現象学的方法なんかも?
あと、「自」を「主」、「他」を「客」と言いかえてもいいかな。 ――自(主)から見た他(客)、他(自)から見た自(客)っていう関係性。 主――主体とか主観 客――客体とか客観
ラカンの鏡像段階――生後6〜18ヵ月――のころの私を体自ちゃんってして見て、現象学のと結びつけてわたし見てきたんだけど、こういうのって、一般的に大人になった私のうちにも原初・自然的にあるんじゃないかな?ってわたし思ってる。ただそれは自明なこと(あたりまえのこと)として処理されてしまっていて、話題にもならない、大人私になっちゃた人には、どうでもいいこと。
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