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■30550 / inTopicNo.61)  超越論的分析論X−2
  
□投稿者/ うましか -(2023/05/04(Thu) 23:12:53)
    2023/05/05(Fri) 21:59:58 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(;´・ω・)

    No.30543 (pipitさん)

    >「物体」←「金属」←「直観」←●(対象)

    なるほど〜(*‘∀‘)

    うましかも、なんとな〜く、ここでは悟性ライン?の話しなんだけど、感性ライン?も入れておきたいなあとおもっていました!m(__)m

    >『全称判断』とは、人間がその事象を全称と判断したことであり、この判断に使われている概念は、、、例えば「Unity」、、、かな?「Unity」という概念による認識が、全称判断と呼ばれる判断になるのかな、と、考えました。

    うーむ(゚Д゚;)沼 
    これ気になるけど、なんだかモヤモヤします(;゚Д゚)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕
    第一篇 概念の分析論
    〔略〕

    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて〔Von dem Leitfaden der Entdeckung aller reinen Versatandesbegriffe〕
    〔略〕

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第二節 (第九項) 判断における悟性の論理的機能について〔§9 Von der logischen Funktion des Verstandes in Urteilen〕

    ◆ もし私たちが判断一般の全ての内容を捨象し、判断における単なる悟性の形式だけに注目するならば、私たちは判断における思考の機能が四つのタイトル〔Titel〕に分けられることができ、それぞれのタイトルが三つの契機〔Momente〕を自身の下に含んでいることを見出すだろう。それは次の表で適切に示されることができる。

    1 判断の量=kQuantitaet der Urteile.〕
    ・全称判断 〔Allgemeine〕 〔すべてのAはBである〕 *1
    ・特称判断 〔Besondere〕 〔あるAはBである〕
    ・単称判断 〔Einzelne〕  〔ある一つのAはBである〕

    2 〔判断の〕質=kQualitaet.〕
    ・肯定判断 〔Bejahende〕 〔AはBである〕
    ・否定判断 〔Verneinende〕 〔AはBでない〕
    ・無限判断 〔Unendliche〕 〔Aは非Bである〕

    3 〔判断の〕関係=kRelation.〕
    ・定言判断 〔Kategorische〕 〔AはBである〕
    ・仮言判断 〔Hypothetische〕 〔もしAがBなら、CはDである〕
    ・選言判断 〔Disjunktive〕 〔Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである〕

    4 〔判断の〕様相=kModalitaet.〕
    ・蓋然的判断〔Problematische〕 〔AはBかもしれない〕
    ・実然的判断〔Assertorische〕 〔AはBである〕
    ・確然的判断〔Apodiktische〕 〔AはBでなくてはならない〕

    *1 〔〕内の文は、御子柴善之『カント 純粋理性批判』, p.126〜p.128の解説を参照。

    ◆ この区分は、たとえ本質的な点ではないとしても、いくつかの点で、論理学者たちの慣れ親しんだ手法とは違っているように見えるから、心配されるような誤解を防ぐために以下のような注意をしておくのも無用ではないだろう。

    --- No.30542 からの続き ---

    ◇ 1 論理学者たちが、「理性推論*1〔Vernunftschluessen〕において判断する際、単称判断〔einzelnen Urteile〕は全称判断〔allegemeinen〕と同じものとして取り扱われる」と言うのは正当である。というのも、単称判断は全く外延をもっていないというまさにこの理由で、単称判断の述語が主語の概念の下に含まれているものの幾つかとだけ連関し、他の幾つかからは排除されるということはあり得ないからである。

    *1 三段論法

    ◇ それ故、その〔単称判断の〕述語は主語の概念に例外なく妥当するが、それは、あたかもこの〔単称判断の〕主語の概念が一つの外延をもつ全称的な〔gemeingueltiger〕概念であって、この外延の全ての意味〔ganzer Bedeutung〕にその述語が妥当するかのようである。

    ◇ これに対して、私たちが単称判断を単に認識として、その量〔Groesse〕からみて全称判断〔gemeingueltigen*2〕と比較するならば、単称判断の全称判断に対する関係は、単一性〔Einheit〕の無限性〔Unendlichekeit〕に対する関係と同様である。それ故、単称判断はそれ自体としては全称判断から本質的に区別されている。

    *2 「全称(判断)」と訳される原語は、gemeingueltigen (Urteil)。英訳では、例えば、”generally valid (judgement)”と訳される。

    ◇ それ故、私が単称判断(judicium singulare)を、単にその内的な妥当性〔innnern Gueltigkeit〕にしたがってのみならず、認識一般として、それが他の諸認識との比較においてもっている量にしたがって評価するならば、単称判断はもちろん全称判断〔gemeingueltigen Urteil〕(judicia communia )から区別されている。

    ◇ だから〔単称判断は、〕思考一般の諸契機を示す完璧な表においては、(たとえ単に判断の使用相互の関係にのみ制限される論理学においてはそうでないことは言うまでもないとしても、)一つの特別な位置を占めるに値するのである。


    † 原佑訳上巻、p.213〜p.214参照。
    † その他に、中山元訳2、p.55〜p.56、石川文康訳上巻、p.128を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−1 No.30542、X−2 No.30550
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550

引用返信/返信 削除キー/
■30543 / inTopicNo.62)  Re[10]: 超越論的分析論X−1
□投稿者/ pipit -(2023/05/04(Thu) 00:37:04)
    2023/05/04(Thu) 06:30:58 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんはー( ^ω^ )♪
    No30542
    >概念:「物体」 ← 表象:「金属」 ← ●(対象)  (;´・ω・)?<

    先程、思い浮かんでいたことを書かせていただきます。

    『ただ、直観以外のいかなる表象も直接的にその対象と関わることがないから、概念が直接的に連関付けられるのは、対象とではなく、対象についての何らかの他の表象(その表象が直観であるせよ、それ自身が既に概念であるにせよ)とである。
    それ故、判断は、対象の間接的な認識、従って対象の表象の表象である。』

    このカントの文章から考えるに、pipitの元の表現は[直観]を端折ってしまってて、[直観]も表現するなら、

    「物体」←「金属」←「直観」←●(対象)

    になるかなと考えています。

    「 」はみな、表象となりますが、「直観」だけが『直接的にその対象と関わる』ものであり、それ以外で、
    『直観の他には概念による認識以外のいかなる認識様式もない。従って、あらゆる悟性の認識は、少なくとも人間の悟性の認識は、概念による認識なのであり、直覚的〔intuitiv〕ではなく、思弁的〔diskursiv〕なのである。』
    とあるので、
    ある「直観」を「金属」と認識し、また別のある「直観」も「金属」と認識するなら、その認識に使用された「金属」という表象は概念とも呼ばれるのかなと思いました。
    その表象が、知性の統一作用に使用されたなら、概念と呼ばれるのかなと思いました。
    カントの言葉で言えば、概念とは高次の表象なのかなぁ?↓
    『従って、全ての判断は、私たちの諸表象の間を統一する機能〔Fanktionen der Einheit〕であって、つまりそこでは、直接的な表象の代わりに、この直接的な表象及び若干の諸表象をそれ自身のうちに含む一つの高次の表象が、その対象を認識するために使用され、多くの可能な認識が、このことによって一つの認識においてまとめあげられるのである。』

    『しかし私たちは、悟性の全ての働きを判断に還元することができ、従って悟性≠ヘ総じて判断する能力≠ニして考えられ得る。なぜなら、悟性は、前述の通り、思考する能力だからである。
    思考は概念による認識である。しかし概念は、可能的な判断の述語として、まだ°K定されていない対象についての何らかの表象と連関する。』


    「物体」←「金属」←「直観」←●(対象)

    @ある「直観」を「金属」と認識する。
    A「金属」を「物体」と認識する。

    このとき、@の判断は、「金属」という概念による認識であり、
    Aの判断は、「物体」という概念による認識である。

    このように概念による認識が思考であり、判断と呼べるなら、
    『全称判断』とは、人間がその事象を全称と判断したことであり、
    この判断に使われている概念は、、、例えば「Unity」、、、かな?
    「Unity」という概念による認識が、全称判断と呼ばれる判断になるのかな、と、考えました。

    今久しぶりに実家に遊びに来てて、手元に「純粋理性批判」がないので(Kindleにはあるけど)いつもにも増していい加減になって申し訳ないですが、考えたことを書かせていただきました。

    書き込みありがとうございます。
    おやすみなさいませー
    (-_-)zzz

引用返信/返信 削除キー/
■30542 / inTopicNo.63)   超越論的分析論X−1
□投稿者/ うましか -(2023/05/03(Wed) 22:35:54)
    2023/05/03(Wed) 22:40:16 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(・∀・)

    No.30539(pipitさん)

    >私もついついカント先輩沼から遠のいちゃうのですが(だって沼だもの!!)、でもやっぱり、超越論的演繹論も理解したいし、図式論も理解したい。。。なら、、、
    >がんばるしかないかー( ;∀;)

    (´;ω;`)ウッ… m(__)m 
    がんばるしかないか−( ;∀;)

    >「物体」ー(金属)ー対象

    概念:「物体」 ← 表象:「金属」 ← ●(対象)  (;´・ω・)?
      

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕
    第一篇 概念の分析論
    〔略〕

    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて〔Von dem Leitfaden der Entdeckung aller reinen Versatandesbegriffe〕
    〔略〕

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第一節 論理的な悟性使用一般について〔Von dem Logischen Verstandesgebrauche ueberhaupt〕

    ◆ 先に、悟性は一つの非感性的な認識能力として単に消極的に説明された。
    ところで私たちは、感性に依存せずにはいかなる直観〔Anschauung〕にも与ることはできない。従って、悟性は直観の能力ではない。
    しかし、直観の他には概念による認識以外のいかなる認識様式もない。従って、あらゆる悟性の認識は、少なくとも人間の悟性の認識は、概念による認識なのであり、直覚的〔intuitiv〕ではなく、思弁的〔diskursiv〕なのである。
    全ての直観は感性的なものとして触発に基づいており、〔これに対して、悟性による〕概念は機能に基づいている。しかし、私の理解する機能とは、様々な諸表象を一つの共通の表象の下に秩序付けるような働きという統一〔die Einheit der Handlung〕のことに他ならない。従って、概念は思考の自発性に根拠付けられており、それは、感性的な直観が印象の受容性に根拠付けられているのと同様である。
    ところで、こうした諸概念を、悟性は、それがそれら諸概念によって判断する以外には使用することはできない。ただ、直観以外のいかなる表象も直接的にその対象と関わることがないから、概念が直接的に連関付けられるのは、対象とではなく、対象についての何らかの他の表象(その表象が直観であるせよ、それ自身が既に概念であるにせよ)とである。
    それ故、判断は、対象の間接的な認識、従って対象の表象の表象である。
    あらゆる判断の内には多くの諸概念に妥当する一つの概念があり、この概念はそれら多くの諸概念の内に一つの与えられた表象をも含んでおり、そこでこの表象がその対象と直接的に連関付けられる。
    それで、例えば、全ての物体は分割され得る≠ニいう判断においては、「分割され得る」という概念は様々な他の概念と連関し、しかも、これらの諸概念の内でこの「分割され得る」という概念は、この場合は特に「物体」という概念と連関付けられているが、この「物体」という概念は、私たちに現われる或る種の諸現象と連関付けられている。それ故、これらの諸対象は「分割され得る」という概念によって間接的に表象される。
    従って、全ての判断は、私たちの諸表象の間を統一する機能〔Fanktionen der Einheit〕であって、つまりそこでは、直接的な表象の代わりに、この直接的な表象及び若干の諸表象をそれ自身のうちに含む一つの高次の表象が、その対象を認識するために使用され、多くの可能な認識が、このことによって一つの認識においてまとめあげられるのである。
    しかし私たちは、悟性の全ての働きを判断に還元することができ、従って悟性≠ヘ総じて判断する能力≠ニして考えられ得る。なぜなら、悟性は、前述の通り、思考する能力だからである。
    思考は概念による認識である。しかし概念は、可能的な判断の述語として、まだ°K定されていない対象についての何らかの表象と連関する。
    そこで〔例えば〕「物体」という概念は、この概念によって認識され得る或るもの、例えば「金属」を意味する。それ故「物体」という概念は、この概念を元に他の諸表象を含んでいて、それらの諸表象を介してこの概念が諸対象と連関し得ることによってのみ概念となるのである。
    それ故「物体」という概念は、可能的な判断、例えば「あらゆる金属は物体である」という判断のための述語である。従って悟性の機能は、判断における統一の機能が完璧に示されることができるならば、ことごとく見いだされ得るのである。このことが遺憾なく成就されるということは次節が明示するであろう。

    --- No.30139,30154,30529 からの続き ---

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第二節 第九項〔*1〕 判断における悟性の論理的機能について〔§9 Von der logischen Funktion des Verstandes in Urteilen〕

    *1 第二版(B版)。中山元訳2,p.244訳注によれば、この第九項は、第一部門 超越論的感性論の最終、第二節 第八項の「つづきのようである」とのこと。

    ◇ もし私たちが判断一般の全ての内容を捨象し、判断における単なる悟性の形式だけに注目するならば、私たちは判断における思考の機能が四つのタイトル〔Titel〕に分けられることができ、それぞれのタイトルが三つの契機〔Momente〕を自身の下に含んでいることを見出すだろう。

    ◇ それは次の表で適切に示されることができる。

    1 判断の量=kQuantitaet der Urteile.〕
    ・全称判断 〔Allgemeine〕
    ・特称判断 〔Besondere〕
    ・単称判断 〔Einzelne〕

    2 〔判断の〕質=kQualitaet.〕
    ・肯定判断 〔Bejahende〕
    ・否定判断 〔Verneinende〕
    ・無限判断 〔Unendliche〕

    3 〔判断の〕関係=kRelation.〕
    ・定言判断 〔Kategorische〕*2 断言判断(中山元訳)
    ・仮言判断 〔Hypothetische〕
    ・選言判断 〔Disjunktive〕

    4 〔判断の〕様相=kModalitaet.〕
    ・蓋然的判断〔Problematische〕*3 可能判断(中山元訳)
    ・実然的判断〔Assertorische〕*4 現実判断(中山元訳)
    ・確然的判断〔Apodiktische〕*5 必然判断(中山元訳)

    ◇ この区分は、たとえ本質的な点ではないとしても、いくつかの点で、論理学者たちの慣れ親しんだ手法とは違っているように見えるから、心配されるような誤解を防ぐために以下のような注意をしておくのも無用ではないだろう。


    † 原佑訳上巻、p.212〜p.213参照。
    † その他に、中山元訳2、p.53〜p.55、石川文康訳上巻、p.127〜p.128を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−1 No.30542
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542

引用返信/返信 削除キー/
■30539 / inTopicNo.64)  Re[15]: 超越論的演繹・ B145
□投稿者/ pipit -(2023/05/03(Wed) 16:19:11)
    うましかさん、こんにちは!(^○^)

    No30529
    >久しぶりのカント沼来訪ですm(__)m<

    私もついついカント先輩沼から遠のいちゃうのですが(だって沼だもの!!)、でもやっぱり、超越論的演繹論も理解したいし、図式論も理解したい。。。なら、、、
    がんばるしかないかー( ;∀;)

    >そこで〔例えば〕「物体」という概念は、この概念によって認識され得る或るもの、例えば「金属」を意味する。<

    [物体]に(金属)という表象が含まれてるということかな?

    >それ故「物体」という概念は、この概念を元に他の諸表象を含んでいて、それらの諸表象を介してこの概念が諸対象と連関し得ることによってのみ概念となるのである。<

    「物体」という概念に(金属)という表象が含まれてて、(金属)という表象を介して、「物体」が諸対象と関連できる、ということかな?

    >それ故「物体」という概念は、可能的な判断、例えば「あらゆる金属は物体である」という判断のための述語である。<

    「物体」ー(金属)ー対象

    『あらゆる金属は物体である。』

    悟性は判断の能力、、、

    > ...という概念は、この概念を元に他の諸表象を含んでいて、それらの諸表象を介してこの概念が諸対象と連関し得る...<

    もし「物体」が「◯◯」に含まれる表象とするなら、

    「◯◯」ー「物体」ー(金属)ー対象

    『あらゆる物体は◯◯である。』
    ◯◯という概念が判断のための述語となっている。

    次に◯◯が△△に含まれる表象とすると、

    『あらゆる◯◯は△△である。』
    △△という概念が判断のための述語となっている。

    >従って悟性の機能は、判断における統一の機能が完璧に示されることができるならば、ことごとく見いだされ得るのである。このことが遺憾なく成就されるということは次節が明示するであろう。<

    すべての△△は××である。すべての××は☆☆である。すべての☆☆は◇◇である...

    もしこの統一(判断のための述語)の機能が完璧に把握できるなら、
    悟性の能力の完璧な把握がなされたことになる。

    うましかさんの書き込みを契機に、pipitもカントの言ってることを推測してみました。
    いつも書き込みありがとうございます
    m(_ _)m
    おつかれさまです♪
引用返信/返信 削除キー/
■30529 / inTopicNo.65)  超越論的分析論W−3
□投稿者/ うましか -(2023/05/02(Tue) 00:26:34)
    2023/05/02(Tue) 00:27:54 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    久しぶりのカント沼来訪ですm(__)m

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕
    第一篇 概念の分析論
    〔略〕

    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて〔Von dem Leitfaden der Entdeckung aller reinen Versatandesbegriffe〕□
    〔略〕

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第一節 論理的な悟性使用一般について〔Von dem Logischen Verstandesgebrauche ueberhaupt〕

    ◇ところで、こうした諸概念を、悟性は、それがそれら諸概念によって判断する以外には使用することはできない。ただ、直観以外のいかなる表象も直接的にその対象と関わることがないから、概念が直接的に連関付けられるのは、対象とではなく、対象についての何らかの他の表象(その表象が直観であるせよ、それ自身が既に概念であるにせよ)とである。
    それ故、判断は、対象の間接的な認識、従って対象の表象の表象である。あらゆる判断の内には多くの諸概念に妥当する一つの概念があり、この概念はそれら多くの諸概念の内に一つの与えられた表象をも含んでおり、そこでこの表象がその対象と直接的に連関付けられる。
    それで、例えば、全ての物体は分割され得る〔alle Koeper sind teilbar.〕≠ニいう判断においては、「分割され得る〔Teilbaren〕」という概念は様々な他の概念と連関し、しかも、これらの諸概念の内でこの「分割され得る」という概念は、この場合は特に「物体」という概念と連関付けられているが、この「物体」という概念は、私たちに現われる或る種の諸現象と連関付けられている。それ故、これらの諸対象は「分割され得る」という概念によって間接的に表象される。
    従って、全ての判断は、私たちの諸表象の間を統一する機能〔Fanktionen der Einheit〕であって、つまりそこでは、直接的な表象の代わりに、この直接的な表象及び若干の諸表象をそれ自身のうちに含む一つの高次の表象が、その対象を認識するために使用され、多くの可能な認識が、このことによって一つの認識においてまとめあげられるのである。

    --- No.30154 からの続き ---

    ◇ しかし私たちは、悟性の全ての働きを判断に還元することができ、従って悟性≠ヘ総じて判断する能力≠ニして考えられ得る。なぜなら、悟性は、前述の通り、思考する能力だからである。思考は概念による認識である。しかし概念は、可能的な判断の述語として、まだ°K定されていない対象についての何らかの表象と連関する。

    ◇ そこで〔例えば〕「物体」という概念は、この概念によって認識され得る或るもの、例えば「金属」を意味する。それ故「物体」という概念は、この概念を元に他の諸表象を含んでいて、それらの諸表象を介してこの概念が諸対象と連関し得ることによってのみ概念となるのである。

    ◇ それ故「物体」という概念は、可能的な判断、例えば「あらゆる金属は物体である」という判断のための述語である。従って悟性の機能は、判断における統一の機能が完璧に示されることができるならば、ことごとく見いだされ得るのである。このことが遺憾なく成就されるということは次節が明示するであろう。


    † 原佑訳上巻、p.211〜p.212参照。
    † その他に、中山元訳2、p.51〜p.52、石川文康訳上巻、p.126を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529

引用返信/返信 削除キー/
■30385 / inTopicNo.66)  Re[14]: 超越論的演繹・ B145
□投稿者/ pipit -(2023/04/22(Sat) 07:11:08)
    みなさまおはようございます(*^◯^*)
    No30382
    > 換言すれば知性の力とは、[全く異なる方面から直観の中に表される多様]の総合を、統覚(自己統合の意識)の統一に提出する行為のうちにある。<

    ( pipit感想)
    統一に提出する行為、、、この行為を指して『機能・ファンクション』とカントは名付けてるのかと、B93を思い出しました。

    B93を過去投稿No11599より再掲します。

    >By the word function
    I understand
    the unity of the act of arranging diverse representations
    under one common representation. <

    >さまざまな表象を、一つの共通な表象の下に秩序づける行為の統一作用を、機能という言葉の意味と捉えてる<

    この箇所あたりの、光文社古典新訳文庫『純粋理性批判2』中山元先生の訳を引用させていただきます。(過去投稿No11121より再掲)

    『(カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。

    B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜
    『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、
    概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。
    わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。
    だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。
    知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
    ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。
    これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。
    概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。
    だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。
    (略)
    このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。
    まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。
     ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。
    だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
    すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。
    思考とは、概念によって認識する行為である。
    (略)』』
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■30383 / inTopicNo.67)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/04/21(Fri) 22:59:15)
    No30382
    > したがって、知性の能力は、それ自体は何も認識しない。<

    どうして『認識しない』と言うのかといえば、
    カントは、認識には、感性により与えられた対象が必要という立場をとるからかなと。

    この箇所の次に
    『だから対象を思考するということと、対象を認識するということは同じことではない。』B146、中山元先生訳
    という文章が出てきます。

    ツチノコが目の前に現れないままなら、
    「ツチノコを思考する。」という表現がお似合い。

    ツチノコが目の前に出てきたなら、
    「ツチノコを認識する。」という表現がお似合い。

    眠さの中、そんなことが心に浮かびました。

    おやすみなさーい (( _ _ ))..zzzZZ

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■30382 / inTopicNo.68)  超越論的演繹・ B145
□投稿者/ pipit -(2023/04/21(Fri) 21:23:53)
    みなさまこんばんは。B145の J. M. D. Meiklejohnさんの英訳をpipitが日訳しながら読んでいます。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap48

    They are merely rules for an understanding,

    カテゴリーは単なる知性の規則である。

    whose whole power consists in thought,

    知性の力とは、思考にある。

    that is,
    in the act of submitting the synthesis of the manifold which is presented to it in intuition from a very different quarter, to the unity of apperception;

    換言すれば知性の力とは、[全く異なる方面から直観の中に表される多様]の総合を、統覚(自己統合の意識)の統一に提出する行為のうちにある。



    a faculty, therefore, which cognizes nothing per se,

    したがって、知性の能力は、それ自体は何も認識しない。

    but only connects and arranges the material of cognition, the intuition, namely, which must be presented to it by means of the object.

    認識の素材、すなわち対象によって表示されなければならない直観を連結し、整理することだけが、知性の能力なのである。

引用返信/返信 削除キー/
■30367 / inTopicNo.69)  Re[12]: 超越論的演繹・ B145
□投稿者/ pipit -(2023/04/20(Thu) 22:57:47)
    2023/04/20(Thu) 23:37:59 編集(投稿者)
    2023/04/20(Thu) 23:05:58 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは( ^ω^ )

    No30345
    > ---(§16で述べたように)カテゴリーが与えられた直観においての多様に課せたもの、に他ならぬことを、<

    この『多様』、英訳では『manifold』、

    wiki【マニホールド】より
    『マニホールドまたはマニフォールド(Manifold)とは、物事の多面性・多様性を意味する英語。
    * 多様体
    * 多岐に分離させたり集合させたりする装置』

    この『多様』についての、御子柴善之先生の解説を引用します。

    (御子柴善之先生の解説)
    『私たちはここで、経験的直観における「多様なもの」はどのように多様なのかを考えておきましょう。
    たとえば、量的に多様である、強さ(質)において多様である、継起的であるか同時的であるかの関係において多様である、などを考えることができます。
    こうした多様なものは、直観においてはたんに多様であるとしか表象されません。
    しかし、それがどのように多様であるかと考えるなら、「ひとつの経験的直観」に与えられた多様は、先に揚げた判断表に見られた仕方で判断されるのです。』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p213より引用)

    ここでもう一度、読み直してみます。
    > that which the category (according to § 16) imposes on the manifold in a given intuition,
    >
    > ---(§16で述べたように)カテゴリーが与えられた直観においての多様に課せたもの、に他ならぬことを、<


    、、「カテゴリー」が(直観における「多様」)に課す、、、何を?


    『the unity 』『統一』を課すんだね。

    どうやって、というのは、意識の集約としてかな。

    直観の多様が、カテゴリーや判断という機能によって、集約(統一)される、、、と、カントは言ってるのかな?と思いました。

    わたしがNo30345で読んだ箇所、田村一郎先生の日訳がわかりやすいきれいな訳に感じたので、引用させていただきます。(※§の数字が英訳とは違うんですよね。)

    (田村一郎先生のB145の訳文)
    『後に(§26)、どのようにして感性において経験的直観が与えられるかという仕方を通じて明らかにされるが、
    経験的直観の統一とは前の§20で述べたとおり、カテゴリーが与えられた直観一般の多様に指示する統一にほかならない。
    したがってわれわれの感官のすべての対象に関するカテゴリーのア・プリオリな妥当性が説明されることで、はじめて演繹の意図は十分に達成されるのである。』
    (『純粋理性批判 上』以文社、p196より引用)

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■30345 / inTopicNo.70)  Re[11]: 超越論的演繹・ B145
□投稿者/ pipit -(2023/04/19(Wed) 22:23:14)
    みなさまこんばんは。No30343の日訳をしてみました。

    In what follows (§ 22),
    it will be shown,

    以下、§22では、示されるだろう。

    from the mode in which the empirical intuition is given in the faculty of sensibility,

    感性の能力により与えられた経験的直観の様式から、

    that the unity which belongs to it is no other than

    それにもたらす統一が---

    that which the category (according to § 16) imposes on the manifold in a given intuition,

    ---(§16で述べたように)カテゴリーが与えられた直観においての多様に課せたもの、に他ならぬことを、

    and thus, its a priori validity in regard to all objects of sense being established,

    したがって、カテゴリーの、すべての感覚的対象に関するアプリオリな妥当性が確立されることが示され、


    the purpose of our deduction will be fully attained.

    我々の演繹の目的は完全に達成されることになるだろう。

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■30343 / inTopicNo.71)  超越論的演繹・ B145
□投稿者/ pipit -(2023/04/19(Wed) 21:16:02)
    純粋理性批判を読んでみる、続けます!

    次は、やっとB145

    、、、うそやろ、これで一文……

    (J. M. D. Meiklejohnさん英訳)
    In what follows (§ 22), it will be shown, from the mode in which the empirical intuition is given in the faculty of sensibility, that the unity which belongs to it is no other than that which the category (according to § 16) imposes on the manifold in a given intuition, and thus, its &#224; priori validity in regard to all objects of sense being established, the purpose of our deduction will be fully attained.
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■30339 / inTopicNo.72)  妄想リクエスト☆彡日記
□投稿者/ pipit -(2023/04/19(Wed) 16:50:24)
    三度目の読み通しにも挫折_| ̄|○

    できれば、御子柴善之先生の反応解説文章とセットで読みたいなぁ
    (*^◯^*)願☆彡
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