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■31244 / inTopicNo.37)  Re[36]: 論語読みの論語知らず
  
□投稿者/ 時 -(2023/06/24(Sat) 12:22:41)
    パニチェさん、ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。横レス失礼します。

    > 別名「生の哲学」と呼ばれるニーチェファンであること、仏教を信仰的側面ではなく東洋哲学として捉えていること、やっぱ哲学観の違いなのかなぁ〜。

    パニチェさんが、仏教を信仰的側面ではなく(東洋)哲学として捉えておられるのならば、私とのお話が噛み合うことはむつかしいかもしれなぁと感じました。いや、何も知ったかをするつもりもなく、少ない知識で語ると、東洋では西洋と違い、宗教と哲学の明確な区別がないと聞きます。今までいろんな方の投稿文を拝見していて、何故、噛み合わないのか?が、解決できない私の理解としての問いだったのです。

    私自身は、人生哲学としてものの見方や考え方をいろいろな側面より現在まで考察してきたつもりですが、どうも仏教(原始)や哲学(人生)が他の人と噛み合うことが少ないのですね。少ないといっても噛み合った方は過去には数名はおられますが。パニチェさんご自身は、学問としてのみの哲学をされているのでしょうか。。

    私自身が仏教を学んだのは、信仰ではなく、哲学としてではなく、ただ小説や絵本を読むような感じで、一体彼は何を言って何を行ったのだろうか?と読み始めました。ですので、信仰とか哲学的とか言われても理解しずらいのですね。

    私の知る簡単な仏教のロジックとしては、苦の原因は渇愛である。渇愛を消滅させれば苦は消滅する。一般の人は楽を感じるときにはその変化を苦ととらえ、苦を感じるときには、そこから抜け出たいと楽を求める。このサイクルから抜け出す方法を知らないので苦しむのです。といった記載があります。・・・これのどこに仰るような哲学的要素があるのかが、恥ずかしながら理解できないのです。疎い私の理解では、原始に記載されていることは、全てが実践なのですね。ですので、私の知る仏教というのは、実践を伴った理解とでもいうのでしょうか。

    そこでパニチェさんにお尋ねしたいのは、仰る東洋(仏教)哲学とは、具体的にどのような事柄の事を言っておられるのでしょうか?よろしければ教えていただければ幸いです。

    この投稿もザビビのふくろうさんのレスを待たず、タイミングを外しているのかもしれません。ご容赦ください。
引用返信/返信 削除キー/
■31232 / inTopicNo.38)  Re[35]: 論語読みの論語知らず
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/24(Sat) 07:54:06)
    2023/06/24(Sat) 08:14:46 編集(投稿者)

    お久しぶりです、ザビビのふくろうさん。

    No31208に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    ザビビのふくろうさんのレスは鋭いし、考えてみたい点が大いにあります。
    今回の悪魔ちゃんと私のやり取りとは切り離して論じたいと思いますので、まずは以下の点を先にレスしておきます。

    > これは私の想像でしかありませんが,Aさんの問いの動機には何の悪気もなく,純粋に解答を知りたかっただけなのかも,と思ったりします。
    > すなわち、「悪魔の問い」はむしろ純粋な「哲学的問い」だったのではないか。
    > この人なら本音を聞けるよい機会ではないか,と思って尋ねたのではないか。
    > したがって怒られても何が悪いのか,したがって何を反省すべきなのか,全くわからない,という可能性もありえる気がします。

    この点については同意します。
    私の至らなかった点でもあり、そこまで考えが及ばなかった反省点です。
    可能性としての悪魔ちゃんの個性まで想定してなかったし、配慮できていなかったのは片手落ち(差別用語かもしれませんがこれ以外に適当な表現が思い浮かびません)でした。

    あと、私自身も死と対峙した時にこそ自分の真価が問われると考えています。
    その時に自分が好んで学んできた仏教や哲学が本物であったのか、単なる象牙の塔にすぎなかったのかが問わることになる、と。

    ************************************

    「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いは哲学的な問いだと思います。(A氏とします)
    ところが「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いを家族を惨殺された遺族に向けた場合は、その問いよりも、誰に対してどのようなことを問うたのか?という行為が問題となる。(B氏とします)

    Aの発言も行為ではないか?と問われれば発言行為ではある。少なくとも私の記憶では彼は特定の誰かに対して発したのではなく純粋な疑問を提示しただけだった。
    この場合、Aの発言(行為)も問題となるのか?私は問題にすべきでないと考えています。

    常識も懐疑してみるのが哲学、そういう意味で哲学は非常識的である。

    Bの問いを発言する行為(言語行為)が常識的にはNGであっても、哲学的には問題がないとするなら、ここで常識と哲学は相容れない。
    問い自体が哲学的に有意義であったとしても、Bの発言行為は常識的にも哲学的にもNGであるべき。
    さもなくば、哲学は象牙の塔に限定される。

    哲学が象牙の塔に限定されれば、上座仏教(小乗仏教)が衰退したように世間からますます乖離し、世間知らずの専門馬鹿量産部門となるのではないか?
    そんなことさえ考えてしまいます。

    ザビビのふくろうさんはどう思われますか?
    またザビビのふくろうさんが常識的・道徳的観点からみてもっともだと思った土台も哲学とは言えませんか?

    別名「生の哲学」と呼ばれるニーチェファンであること、仏教を信仰的側面ではなく東洋哲学として捉えていること、やっぱ哲学観の違いなのかなぁ〜。

引用返信/返信 削除キー/
■31219 / inTopicNo.39)  Re[34]: 論語読みの論語知らず
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/06/23(Fri) 16:33:31)
    田秋さん、こんにちは。
    ご無沙汰しています。
    たまに田秋さんのスレのほうはのぞかせてもらっています^^

    No31216に返信(田秋さんの記事)
    > 2023/06/23(Fri) 10:42:29 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、ザビビのふくろうさん。
    > お久しぶりです。コメントありがとうございます。
    >
    > 『論語読みの論語知らず』の意味は、
    > 1.意味も知らずに恰もお経を唱えるようにただ読んでいる
    > 2.知識としては知っているが、実生活で実行することは無い
    > 3.言葉の表面的な部分だけ捉え、その奥に流れる精神を十分理解していない。
    > 4.得意げに知識をひけらかす
    > などがあるようです。
    >
    > この言葉は広く人口に膾炙したため、意味も少しずつ変化拡大していきました。元は2.だったようです。
    > 最近のボクは3.の意味に解釈しています。論語で語っていることわざですから、論語を例に引いてボクの考え方を述べてみます。
    >
    > 孔子には沢山お弟子さんがいました。お弟子さんがそれぞれ「仁とはなんでしょうか」と尋ねるのですが、孔子の答えは弟子によって異なるのです。こういう尋ねた人によって孔子の答えが異なるという例は論語の他の部分にも見られます。
    > これは一般的には、孔子は自分の考えを確信的に述べるのではなく、尋ねた人間一人ひとりの気質を考えた上で、その人に合った答えをしていると解釈されています。
    > 孔子は相手のことをいつも深く慮っているように思います。そういうことが論語を読むとわかってきます。
    >
    > 「相手のことを思う」という面から考えると、「本当に純粋に疑問に思ったから質問してみた」というのは自分中心に考えているように見えます。あのときに質問して良かったのか?相手が元気を取り戻したときでも良かったのではないか?広く一般的な形で質問を投げかけてみても良いのではないか?まあ、少なくとも孔子ならああいう状況でああいう質問はしないような気がします。
    >
    > 論点がボケてしまいましたが、ボクの「論語読みの論語知らず」の解釈は以上のような感じです
    >

    このあたりの田秋さんの理解内容については、さすが、ごもっともと言うほか私にはないのですが、
    まあ、この意味では悪魔ちゃんも、私もですが、そもそも「論語読み」ではありませんしね…。
    ただ、「自分中心に考えている」という表現には、少し私なりの言い訳があるので言わせてください。
    悪魔ちゃんと私の考えがどれだけ一致するかは全くわからないので、そういう可能性もあるかなくらいでご理解ください。

    「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)」
    も孔子の言葉のようですが、悪魔ちゃんはこういった道徳律に違反してはいないんじゃないかなと私は思います。
    つまり、自分が他人に投げかける問いや言葉を、自分が他人から投げかけられたとしても、何ら嫌がることはないと思うんです。
    仮に、自分は他人に言うくせに、自分が他人から言われるのは嫌というなら、何て自己チューな奴だと言われるでしょうが、たぶん、そうではないでしょう。
    実は私が当事者なんですが、たとえばADSという障害をもった人間は、田秋さんのおっしゃった他者の気持ちを理解することが非常に苦手な傾向があります。
    言葉のコミュニケーションにおいては、字義通りの意味は理解できても、言外に示される意図や意味を理解しにくいとか、場の空気を読めずに発言するなど、対人関係において支障をきたすことが多いのです。
    そうすると、自分が言われても大丈夫だから、他人に言っても大丈夫だろうと思ってしまい、大丈夫じゃなかった…っていう場合が私なんかは多々あるわけです(その意味で自分中心にしか考えられない)。
    私はそんなつもりなく場を凍らせるアイスマンになったり、相手を激怒させたりすることが珍しくありません。
    ニークラでも、私のせいである人が来られなくなってしまっているので、パニチェさんには申し訳なく思っているのです。
    悪魔ちゃんがどうかは知りませんが、ソテツの話などをみると、そういった傾向もあるのかなと思います。
    今回の場合も、そういったレベルの他者への考慮・配慮というのは、相手にとって答えたくない質問なら答えないだろうし、答えたくない質問かどうかは聞いてみなければわからないから聞いてみる、というような、ある意味あっさりしたロジックで済ませているのかもしれません。


    > 少し話が逸れますが、あのことが起こる少し前に、ボクが大事にしている庭のソテツの話をトピに書いた所、(No31035)で「ソテツを根元から切っちゃって捨てる気、ある?」と書いてきたことがあります。真意はよく分りませんが、よくよく考えた末のどうしても尋ねずにはおられなかった、という訳でもないような気がします。で件の書き込みに関しても、さして深慮の末の質問でもないような気がしました。
    >

    上に述べたことと少し矛盾するみたいですが、そんなふうに他者の気持ちを理解するのが苦手は私のようなタイプの人間でも、まったく他者のことを考えないわけではないんですね。
    これは諺の意味3にもかかわることかもしれませんが、問いの内容に即した意味についてはある程度深く考えもするんです。
    うまく言えませんが、たとえば、「なんか寒いね」と言外に「窓を閉めて」という意図を含めて言われた時、それはわからず「睡眠不足じゃないの?」と返すとか(笑)
    今回の件にひきつけて言えば、たとえば、
    「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いの裏には、自分がいつか人を殺してしまうんじゃないかと怖れを抱いている人が、真に自分で納得するその理由を得て、自分にブレーキをかけたいという思いが隠れているのではないか?
    「なんでそんなにまでして生きたいの、クソ社会なのに」
    という言葉の裏には、生存意欲が低くこの世界が嫌で生きることが苦痛でしかないものが、どうしてそんなに大変な思いをしてまであなたはなお生きたいと思えるのか、それを知りたいという意図があるのでは?という可能性を考えてしまうわけです。
    つまり、本人に自覚があるか否かは別として、自分の死への誘惑(厭世観)を断ち切る、あるいは生きる意欲を得るヒントを無意識裡に欲しての問いではないかと。

    以上述べたことは、あくまで現実性の薄い可能性、私が考えてしまう可能性にすぎません。
    だから正しいというつもりもありません。
    しかし、私のようなタイプの人間は、そもそも認知の仕方が異なり、結果行動原理、ロジックが異なりますから、正論とはわかっていても、なかなか田秋さん(孔子)がおっしゃるようにはできないわけです。
    結果、トラブルになる。
    理解が得られない場合は、私は今回の悪魔ちゃんと同様、その場を去ります。
    私の場合、迷惑をかけるのは事実だし、現実的にはそれがたいてい最善ですから。
    とはいえ、ここはパニチェ氏が管理人の掲示板なので、私としては、哲学的内容については遠慮なく批判しても、道徳的にパニチェ氏を批難する気はありません。

    なんかまるで悪魔ちゃんが私と同じ考え方であるかのような言い方になってしまい、
    「勝手にわかったふうなこと言わないで」と言われそうな気もしてきました。
    とりあえず、パニチェ氏を激怒させた者同士ということで、ご容赦くださいm(__)m
    ただ、私のグダグダ喋りが、少しでも悪魔ちゃんを理解するヒントになれば幸いです。
    今回の件、どのような落着の仕方がベストなのか、私には言えませんが、まあ、悪魔ちゃんが自分の物語をどこかで続けられるといいですね。

引用返信/返信 削除キー/
■31216 / inTopicNo.40)  論語読みの論語知らず
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/23(Fri) 09:12:41)
    2023/06/23(Fri) 10:42:29 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。
    お久しぶりです。コメントありがとうございます。

    『論語読みの論語知らず』の意味は、
    1.意味も知らずに恰もお経を唱えるようにただ読んでいる
    2.知識としては知っているが、実生活で実行することは無い
    3.言葉の表面的な部分だけ捉え、その奥に流れる精神を十分理解していない。
    4.得意げに知識をひけらかす
    などがあるようです。

    この言葉は広く人口に膾炙したため、意味も少しずつ変化拡大していきました。元は2.だったようです。
    最近のボクは3.の意味に解釈しています。論語で語っていることわざですから、論語を例に引いてボクの考え方を述べてみます。

    孔子には沢山お弟子さんがいました。お弟子さんがそれぞれ「仁とはなんでしょうか」と尋ねるのですが、孔子の答えは弟子によって異なるのです。こういう尋ねた人によって孔子の答えが異なるという例は論語の他の部分にも見られます。
    これは一般的には、孔子は自分の考えを確信的に述べるのではなく、尋ねた人間一人ひとりの気質を考えた上で、その人に合った答えをしていると解釈されています。
    孔子は相手のことをいつも深く慮っているように思います。そういうことが論語を読むとわかってきます。

    「相手のことを思う」という面から考えると、「本当に純粋に疑問に思ったから質問してみた」というのは自分中心に考えているように見えます。あのときに質問して良かったのか?相手が元気を取り戻したときでも良かったのではないか?広く一般的な形で質問を投げかけてみても良いのではないか?まあ、少なくとも孔子ならああいう状況でああいう質問はしないような気がします。

    論点がボケてしまいましたが、ボクの「論語読みの論語知らず」の解釈は以上のような感じです

    少し話が逸れますが、あのことが起こる少し前に、ボクが大事にしている庭のソテツの話をトピに書いた所、(No31035)で「ソテツを根元から切っちゃって捨てる気、ある?」と書いてきたことがあります。真意はよく分りませんが、よくよく考えた末のどうしても尋ねずにはおられなかった、という訳でもないような気がします。で件の書き込みに関しても、さして深慮の末の質問でもないような気がしました。

引用返信/返信 削除キー/
■31208 / inTopicNo.41)  Re[32]: 悪魔の問いと哲学的な問いの違い
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/06/22(Thu) 16:06:30)
    パニチェさん、お久しぶりです。
    私は,パニチェ氏,エフニ氏,田秋氏の意見は常識的・道徳的観点からみてもっともだと思いますし,したがってまた今回のパニチェ氏のこの件に関する判断・決定に反対する意図はありません。

    ただ,それでも私にはどうしてもすっきりしない点もあるので,あえて疑念の形でそれを述べてみたいと思います。

    パニチェ氏は,「なぜ人を殺してはいけないか?」と問うた少年の件と,今回のAさんの件を区別して評価し,自説を述べています。
    しかし私は,これには少し疑問を感じます。
    これらの違いはむしろ程度の差ではないのか?と。
    というのも,殺人被害者の家族も観ている可能性が十分あるテレビで,こういった発言をすることは,目の前にいる相手に向かって言うのと,どれほどの違いがあるのか疑わしいからです。
    この番組に苦情を寄せた一般視聴者も,そういった思いで苦情を述べた人がいたのではないでしょうか。

    そしてこういった視点で改めて今回の件を捉えると,パニチェ氏の立場は,むしろ少年の問いに対して嫌悪を示した識者などと同じ側に立ったものに思えます。
    いずれも,問いの内容自体を問題(哲学的問い)にするのではなく,そのような問いを発言する行為(言語行為)の意義・意図を問題にして批難しているからです。

    これは私の想像でしかありませんが,Aさんの問いの動機には何の悪気もなく,純粋に解答を知りたかっただけなのかも,と思ったりします。
    すなわち、「悪魔の問い」はむしろ純粋な「哲学的問い」だったのではないか。
    この人なら本音を聞けるよい機会ではないか,と思って尋ねたのではないか。
    したがって怒られても何が悪いのか,したがって何を反省すべきなのか,全くわからない,という可能性もありえる気がします。

    もちろん,繰り返しますが,仮に私の想像どおりであったとしても,その問うという行為が,常識に照らしてよいことだったかどうかというのは別ですけれども。

    それと私が引っかかったのは,パニチェ氏が書かれ,田秋氏がコメントを加えられた『論語読みの論語知らず』ということわざです。
    言うまでもなく,あくまで私限定の話ですが,どっちかというと解釈は逆です。
    もし,私がAさんに問われた当事者で,「こんなときに,そんな質問しなくてもいいだろ,あなたひどいな」と返したとすれば,そのとき私は「哲学読みの哲学知らず」ということになるだろうと思うのです。
    つまり,哲学読みなら歓迎すべき問いだと,私なら思います。

引用返信/返信 削除キー/
■31176 / inTopicNo.42)  私見
□投稿者/ 田秋 -(2023/06/20(Tue) 07:41:33)
    パニチェ氏は「思いやる心」のことを言っているのだ。エフニ氏が示した倫理的規範、「自分がされて嫌なことは相手にもしない」がその判断基準の一つになる。

    ものごとは突き詰めて考えるほどに何が正しいのか分らなくなる。正しさとは何か?という根本的な問いにぶつかるからだ。しかし取りあえずは病気療養中の人に対して「治療をしてまでこのクソ社会の中で生きたいのか?」と言わないことは正しいと即断できる直感が大切で、そういう直観は教養を身につけることにより培われる。ただただ知識を増やすことが教養ではない。それをパニチェ氏は「論語読みの論語知らず」と言ったのだ。

    言われた本人がどう感じたかが重要であることは言うまでもない。しかしたとえ本人が気に留めなかったとしても言うべきではない。それは単に相手の度量に助けてもらっているだけだ。

    Aが書いたことは所謂虚無主義の思想だが、その善悪はここでは問題ではない。それを透析治療始めた人に対して言い放ったことが問題なのだ。パニチェ氏は反省を促したが、Aは反省はしないと返した。そのことがパニチェ氏の逆鱗に触れることになる。

    Aは立ち去ることで「反省」を示した。本心はどうであれ形式的には反省を示した。これはいつか帰ってくるかもしれないという可能性を残したという点で重要である。私は心のどこかでこの可能性に賭けている。


引用返信/返信 削除キー/
■31147 / inTopicNo.43)  友について
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/17(Sat) 10:29:07)
    『交際と自惚れ。──いつも功労ある人々の間にいることを自覚していると、自惚れることを忘れる。ひとりでいることは傲慢を植え付ける。若い人は自惚れている。なぜならみんな何者でもないのに大した者とみせたがっているような、自分と同じ連中と交際しているからである。(ニーチェ著『人間的なあまにり人間的なT-316』より)』


    『友人への同情は、或る殻の下に隠されているべきだ。この同情〔という堅果〕をかもうとすれば、きみは歯の1本ぐらい折りかねないというようであるべきなのだ。そうであれば、同情はそのこまやかで甘美な味を持つことになろう。』

    ************************************

    真の友人であれば相手を堕落させるような同情ばかりを与えるべきではない。
    甘ったるい同情は友人に対しても自己に対しても弱体化させ自惚れを増幅させる。

    自己超克には不快や苦しみが伴い、適度な自己否定と自省が不可欠である。
    心地よい環境では生物は進化しない。
    適度な淘汰圧こそ進化や成長を促進する。

引用返信/返信 削除キー/
■31138 / inTopicNo.44)  悪魔の問いと哲学的な問いの違い
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/16(Fri) 07:57:09)
    2023/06/16(Fri) 21:01:49 編集(投稿者)

    「どうして人を殺してはいけないのか?」

    1997年8月15日、NEWS23の特別討論番組(生放送)で男子高校生が上記の問いを発した。
    テレビ局には苦情が殺到し、全国紙でも論議を呼んだ。彼の発言は十分哲学的な問いであるし、むしろ彼を批判した大人たちは、物事を深く考えようとしない軽薄短小な哲学とは無縁の人たちである。

    死刑、安楽死や尊厳死、戦争、自死、無差別殺人をまさに実行している犯人の射殺などなど、さまざまなケースがあり、この問いに対する普遍的な回答を模索することは哲学的にも有意義である。事実、この後、このタイトルで多くの本が出版されている。

    もし彼が子どもを惨殺され悲しみにくれる母親に向かって「どうして人を殺してはいけないのか?クソ社会なのに」と発言したらどうか?
    抗がん剤の副作用に苦しみながら闘病中の患者に「なんでそんなにしてまで生きたいの?クソ社会なのに」と問うたらどうか?

    悪魔の問いはこの手の類である。
    言葉は「如何なるシチュエーションで、誰に向かって、どのような意図や目的で」発せられるかによって価値や意味が異なる。これは言語論の範疇だろう。
    透析は一日の水分制限や食事制限があり週3日、1回4〜5時間はかかり日常生活に多大な影響を及ぼす。

    シチュエーションにもよるが基本的に「生きる目的」は自ら問うべきであり、他者に向けるのはお門違いで、悪魔の問いは哲学に関わる人にとっても、哲学に無縁な人たちにとっても、あまりに無神経でかつ無礼極まりない問いかけであり、常識的には相手に謝罪すべき行為でもある。

    EQが低すぎるし「論語読みの論語知らず」でしかない。
    言語論、倫理道徳、心理学も哲学の主要分野であるからだ。

    この主張に対して論理的な反論は歓迎する。
引用返信/返信 削除キー/
■31012 / inTopicNo.45)  筏の喩
□投稿者/ 時 -(2023/06/08(Thu) 12:07:57)
    筏の喩

    渡り難い、超えにくい川があったとして、こちら側を此岸、超えた先の楽ある対岸を彼岸と例えましたが、その時その川を渡るために組み上げた筏で渡るとすると、渡り切った後にはその筏は川に沈められるという、最後の執着、仏法への執着を捨する教えです。

    これは、命がけで学び、梵行を繰り返して体現した教え自体を捨て去りなさいという、一見不可能なことを教えているようにも思えますが、これは、彼岸に渡れればもうその仏陀の教えは不必要になるので、教え自体に、過去に学んだ多くの法に執着せずにその境地のままで寿命と熱の縁が切れるまで過ごしなさいという事でしょう。

    もちろんこれは、自由意思で自ら捨てられるものではなく、自然にその境地になるのを待つしかないと思われます。そもそもそのときが来て、それを捨て去りたいと思うのであれば、それ自体が欲望であり執着している証なので、川に筏が沈み去るのを待つしかないという事になりそうです。

    例えば、一桁の算数での足し算の方法や結果を最初に学校で学んだとき、一生懸命に予習や復習をしてできるようになり、テストがある度に60点だ100点だと一喜一憂していたその心の状態に留まっていたと思いますが、それも社会人になる年齢になれば、もうその時の喜びや感動はなく、一桁の算数での足し算の方法は?等と思い出すこともなく、当たり前のこととして日常生活において暗算していたりしますね。筏の喩は、こういった事なんだろうなと思います。

    仏教の場合には、捨て去ることで最終的な完成となります。何かのために等という目的があるとすれば、教えを学んだ個人の苦の滅尽やより楽な境地で過ごせるという事にあるでしょうか。ですので、筏と一言で例えられていますが、その形態や機能は多種多様であり、人によってその形は大きく変化していそうです。仏陀の一言を聞いてその境地に至れる人。仏陀の1000の言葉で彼岸に至れる人。それぞれの捨すべき筏の形や大きさが違うからです。

    教えることを目的としない教え、ですから仏教の理解は簡単ではなさそうです。そこに固執が無ければ、書き留めるという行為は起こるでしょうか?という先人たちの声を聞きながら。
引用返信/返信 削除キー/
■31002 / inTopicNo.46)  分かったブリ?
□投稿者/ パニチェ -(2023/06/07(Wed) 20:24:58)
    No30958に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > No30955
    > >「 私 」ってパニチェ殿の言っていた、あの図そのものだよね?<
    > あ、ごめん、マジモンさん。
    > <あの図>ってどういうの、どんなの?わたし見てなかったのかも。

    > ほら、パニさんってさあ、
    > 「言葉では表現できないものだよ」みたいな〜。
    > わかった人ブリするじゃん。

    分かったふりもなにも、この世界にこれ以上分かっているものはないのが〈私〉やん。
    〈私〉が言葉で表現できないことが分からないなら、かっこつけて私に「 」など付ける必要はない。

引用返信/返信 削除キー/
■30775 / inTopicNo.47)  依法不依人
□投稿者/ パニチェ -(2023/05/21(Sun) 08:01:27)
    2023/05/23(Tue) 08:02:17 編集(投稿者)

    原始仏典、大パリニッバーナ経〔大般涅槃経〕によれば、釈尊はアーナンダに『この世で自らを洲とし、自らを拠り所として、他人を拠り所とせず、法を洲とし、法を拠り所として、他のものを拠り所せずにあれ(自洲・法洲または自灯明・法灯明)』との遺言を残した。

    大乗経典(維摩経)では法四依のひとつとして「依法不依人(法に依りて人に依らざれ)」と説かれている。

    釈尊が説いた法(初転法輪で説いた中道、四諦、八正道や原始仏典「スッタニパータ」や「ダンマパダ」などなど)と自らに備わっている仏性を拠り所としなさいということ。

    ほとんどの宗教はトップを神格化したり崇拝対象にしたりする。
    仏教も例に洩れず大乗仏教に至っては人間釈尊が神格化されていった。
    妙法蓮華経では最大限に神格化(ダルマ化)され、釈尊の背後に久遠実成仏まで想定するようになる。

    大方の新興宗教のトップは尊敬を超えて奉られ崇拝対象にさえなってる。浄財と称して信者から巻き上げた金で、必要以上に豪華豪勢な衣食住に浸り、脂ぎった上に太っているが、こういうトップは聖人とはかけ離れているし、こんな人物が教祖として君臨している宗教団体は大概がカルトかカルトまがいと見て間違いない。

    少なくとも仏教系の宗教団体で教祖が崇められてるようなところは外道(非仏という六師外道の意)でしかない。

引用返信/返信 削除キー/
■29885 / inTopicNo.48)  ベストバラード 10(J-POP)
□投稿者/ パニチェ -(2023/03/04(Sat) 12:11:50)
引用返信/返信 削除キー/

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