| パニチェさん、ご返信をありがとうございます。
> > この皆苦の世界観は、二元や一元の世界観の人の世界でのお話ですね。仏陀の説いた世界観はこれを超えています。ですので、最終的に苦の滅尽の世界が現れるのですね。 > > 上記は世俗諦と勝義諦のことを言っておられるのでしょうか? > 時さんが言うところの「仏陀の説いた世界観」というのは言語化可能ですか?
世俗諦と勝義諦という表現されるという事は、大乗仏教の概念ですね。すみません、大乗仏教の概念は不勉強で分かりません。実は、一度書いたのですが、正確ではないとの判断で削除しました。
仏陀の説いた世界観を言語化すると、非想非非想処を超えた想受滅ですが、想受滅そのものを言語化することは私には不可能です。つまりは、有頂天と表現されるようにこの世での最終的に言語化可能なのは、非想非非想処までだと思います。想受滅・・あえての表現ならば、想と受の滅尽した境地でしょうか。
> > なるほど。パニチェさんのご認識は了解しました。 > > 例えばの仏教のお話で、パニチェさんと時とでお話がかみ合わないだろうと感じた原因が理解できたように思います。私という仮我の人生観や世界観、そしてその仮我の自己探求においては同じだったのですが、仏教の哲学的側面で列記していただいている、存在論、認識論、実在論等々への考察を私は行っていません。一応理由を書いてみますと、存在とは、無常なるものを存在すると観、常住なるものを存在しないと観る。 > > 常見と断見の偏った観方を戒めるのも仏教ですし、大乗仏教では如来を法(真如)とみなし永遠なるもの(六不:不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)を説く教説(説一切有部や金剛般若経)もあります。 > > > 認識については、五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の中の四蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊)に識が行く。実在論については、世間の生起を如実に正慧をもって見る者には、虚無論や実在論は存在しない。なんていう表現があったように記憶していますが、私の仏教での理解は、これで十分なのですね。ですので、仏典内では論として説かれていませんし、それ以上は探求しません。 > > 仏教と言っても幅広いですからね。時さんも上記で述べられているように、例えば唯識は仏教的な認識論(認知科学)とか観念論と捉えることができますし、大乗起信論とか密教はヴェーダーンタ学派を根底にしており、アドヴァイタ的な実在論と捉えることもできます。中論は時空間や言語についても言及してます。 > 時さんは大乗は非仏(大乗非仏論)とお考えですか?
うーん、どうなのでしょうか。。現代では、仏教と一言で表現していますが、この場合には仰るようにいろいろなものが含まれていますね。実は、私が仏教を学び初めのころ、調べても調べても、道理としての仏陀の教えが浮かんでこなかったのですね。そんな時、ある人との出会いがあり、時さん、大乗と原始は違うよという一言で眼から鱗状態でした。なるほど、道理として通らないはずでした。仏陀以降のいろいろな方々の考察や解釈を仏陀一人の思想体系として捉え、理解しようとしていたのですから。
ネットで検索しますと、大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)は、大乗仏教の経典はゴータマ・シッダッタの直説ではなく、後世に成立した偽経という説である。という意味が最初に出てきますが、ここだけにフォーカスしますと、大乗仏教の経典はゴータマ・シッダッタの直説ではない気がしますが、偽経だ!とまでは偏りませんかね。これは、〜だけが真理で、それ以外は幻想だ!という見解を持ってはいけませんよという単純な教えの理解からですが、ただ、原始の内容と比較しますと、全てではなにしても、かなりの違いを発見できるように思います。
と言うことで、大乗であれ小乗であれ密教であれ、それぞれの人による仏教があってよいと思います。そのような中で、私個人は原始に惹かれ、私の思っている仏陀の教えという道理の理解に努めたというだけでしょうか。
> > 後は、私が説いたことを説いたと、説かないことを説かないと憶持せよ。といった仏典内での表現をそのまま鵜呑みにしています。 > > 無記のことですか?
はい。無記の事とも言えますが、その他諸々も含めてになるでしょうか。
> > 現代日本での常識非常識で考えますと、原始の世界観は完全に非常識なものです。そして哲学でも同じだと感じるのですが、今回、初めて学んだ意味論と語用論で言いますと、私も意味論的意味での対話を中核に据えた方が良いと思いました。ですので時の場合にも「こんなクソ社会なのに 云々」と問いかけられてもそのままで問題なく返信するのであれば返信できると思いますね。 > > このBBSに限らずネットでもリアルでも他者との対話においては意味論と語用論の両方を加味しないとコミュニケーションに齟齬が生ずると私は考えています。 > 今の自分に問われても大丈夫な問いは他者に向けても大丈夫というのは短絡的だと思います。 > > 何故ならほとんどの人はのその時々で精神状態が違うと想像できるからです。 > 唯識無境(外界とは自己が対象化されたもの)とか万法不離識(すべての外界は見るものの心を離れない)も留意すべき教説ですし、バランス感覚は重要だと思います。 > 他者との会話において意味論と語用論を念頭におくというのは中道にも相通ずると思いますが、如何でしょうか?
少し誤解があるようにも感じますが、今の自分に問われても大丈夫な問いは他者に向けても大丈夫とは考えてはおりませんで、時からの言語発信の場合には、可能な限りその辺には配慮しているつもりではいます。ただ、予測不可能なお相手からの発言での場合には、時個人は、意味論的意味で捉えられるだろうという意味で書きました。中道については、パニチェさんの解釈と原始に書かれている内容とを統合したお話が今は私にはできませんので、スルーとさせてください。
> PS.仏教に関する議論が噛み合わないとお感じであれば返信はスルーしてもらっても構いません。
ご配慮をありがとうございます。では今回はこの辺りで、一度お休みをいただきたいと思います。有意義な時間でした。お付き合いをありがとうござました。
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