■28045 / inTopicNo.39) |
超越論的論理学 序論T−5
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□投稿者/ うましか -(2022/12/20(Tue) 22:02:00)
| 2022/12/20(Tue) 22:03:50 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
No.28031(pipitさん)
>すみません、「捨象」と書くべきところをpipitが間違えて「捨像」と書いてしまっていました
こちらこそ、瑣末なことですみませんでしたm(__)m
>B89に『この分析論では、わたしたちのアプリオリな認識の全体を、純粋な知性[=悟性]による認識の要素に分割する。(略)純粋な知性の全体の領域を完全に包括するものであること。』(中山元先生訳、光文社古典新訳文庫第2巻p43より引用)とあり、 >カントとしては、知性によるアプリオリな認識の要素を全て網羅した(知性認識要素のアプリオリ部門の)【学】としてカテゴリーを提示して、また、それがカントによる恣意的な要請ではないことを示すために『演繹論』で根拠づけを行なってるという主張になるのかなと思う
ありがとうございましたm(__)m
中山元訳2のp.28の「超越論的な論理学の理念」で、既にカント自身がこの「学」(の理念)について説明しておりました(;´Д`A ```
同p.258では「カントは知性の理論を論理学(ロギック)と呼ぶ」と明快にまとめられています。私もそのように考えるようにします(;´・ω・)
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学
序論 超越論的論理学の理念 T. 論理学一般について〔Von der Logik ueberhaupt〕
◇ ところで、一般論理学〔Die allgemeine Logik〕は、純粋な〔die reine〕論理学であるか、応用〔die angewandte〕論理学であるかのいずれかである。純粋な論理学においては、私たちは、私たちの悟性がそのもとで行使される全ての経験的な条件を、例えば、感官の影響とか、空想の戯れ、記憶の諸法則、習慣の力、好みその他とかを、従ってまた偏見を生ずる源泉をも、いやそれどころか、総じて、或る種の認識が私たちにとって生じたり、或いはその認識がすり替えられる恐れのある全ての原因を、捨象する〔abstrahieren〕。というのも、これらのもの〔原因〕は、悟性が適用される或る種の事情のもとでのみ悟性に関わり、こうした事情を知るためには経験が必要だからである。
--- No.28011 からの続き ---
◇それ故、一般的≠ナ、しかも純粋な論理学=kEine allgemeine, aber reine Logik〕は、純粋な〔lauter〕ア・プリオリな諸原理を問題とし、だから悟性°yび理性の規準=kein Kanon des Verstandes und der Vernunft〕である、 しかしそれは、その内容がどのようなものであれ(経験的なものであれ、超越論的なものであれ)、悟性及び理性の使用の形式的なものに関する規準である。
◇だが、一般的論理学〔Eine allgemeine Logik〕≠焉A心理学が私たちに教える主観的で経験的な諸条件の下で悟性が使用される諸規則へ向けられているときには、応用論理学≠ニ呼ばれる。
◇それ故、応用論理学は、それが対象の区別無しに悟性使用と関わる限りにおいては、たとえ一般的であるとしても、経験的な諸原理を持っている。
◇このため、応用論理学はまた、悟性一般の規準でもなければ、特殊な学の機関でもなく、もっぱら常識を浄化するものなのである。
† 原佑訳上巻、p.193〜p.194参照。 † その他に、中山元訳2、p.22、石川文康訳上巻、p.111〜p.112を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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T−4 No.28011、T−5 No.28045 T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310
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序論 No.27245,27255,27310,28011,28045
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