| こんにちは、floraさん、パニチェさん
《日本仏教を捉え直す》という授業を受けています。聖徳太子、空海、法然、親鸞と進み、今回は道元の講義でした。
教科書に、自分とは何であるか?というのが仏教の基本的な問いで、正法眼蔵の「現成考案」に「仏教をならうというは、自己をならふ也。自己をならふというは自己をわするるなり」とあり、「自己を忘れる」というのは「自分に対する執着がなくなる」ということとあります。自分を追い求めていたのに最後は自分にこだわらないという境地に達するのだそうです。
この後も興味ある話が続き、何によっても影響されない「本当の自分」などなく、全てのものはお互いつながり合いつつはたらき合いつつ、互いを成り立たせている、このようにわかること(このような状態)を無我といい、このことを心底、自覚することを「悟る」、「解脱する」という、と進みます。
言っていることには大変共感を覚えます。しかし頭で理解しただけではダメなのでしょう。前のパラグラムの《心底、自覚する》の、《心底》というのはやはり自分を見つめるということを最初からやって長い間試行錯誤を繰り返し、悩み考えた末に到達しないと《心底》にはならにのだと思います。
今回の講義で一番良かったのは、教科書にも先生の話にも《神さま》が一度もお出ましにならなかったことです。神さまのお手を煩わさず自問自答し続ける生き方って、好きだなあ。
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