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Re[20]: 「場所的論理と宗教的世界観」
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□投稿者/ minori -(2020/10/30(Fri) 21:06:48)
| 2020/10/31(Sat) 07:38:59 編集(投稿者)
■No8523に返信(knowing itselfさんの記事) > こんばんは。 > > 引用開始 > > 我々の自己の根柢には、何処までも意識的自己を越えたものがあるのである。これは我々の自己の自覚的事実である。自己自身の自覚の事実について、深く反省する人は、何人も此に気附かなければならない。鈴木大拙はこれを霊性という(日本的霊性)。而して精神の意志の力は、霊性に裏附すけられることによって、自己を超越するといっている。(「場所的論理と宗教的世界観」『西田幾多郎哲学論集V』 > > 引用終わり > > 西田幾多郎の代表作とされる論文からの引用だが、これは第五図に相当すると思う。
> 我々の自己の根柢には、何処までも意識的自己を越えたものがあるのである。
これは、スクリーンという言葉で表されるものと同じものを指していると考えていいのでしょうか?
スクリーンに映し出されるものではなく、スクリーンそのものが文中の「意識的自己を超えたもの」に当たるのだと思うのですが、いかがでしょう。
そして。第五図=スクリーンでもあるということで。
・・・・・ スクリーン、スクリーン言ってるけどそれ何?って思って見てる人もいるかもしれないので、この投稿で書いてみます。 私たち・世界が存在していると見えていることの基盤、がスクリーンの意味です。 基盤は変わらず主体(言い表すに主体という言葉を使えばですが。)として在り、そこに世界・私たちが見えている、ということを言い表すにスクリーンという言葉を使っています。
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