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Re[12]: たーぼーさんへ
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□投稿者/ minori -(2020/10/26(Mon) 07:39:12)
| 2020/10/26(Mon) 11:23:49 編集(投稿者)
■No8372に返信(たーぼーさんの記事)
たーぼーさん、レスありがとうございます。
> しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。 > これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。 > だから上記がこれなんですよ。↓
> これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。 >この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。 >阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。 > > Minoriさんが言ってたのは普通の禅宗的なのは、自己を無にするでしょ? > つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。 > この包むようにっていうのは、難しいんだけど、目の前の客観を包括的に捉えるっていうか、全体として捉えてそこに意味を見いだすみたいな感じと思います。 > その意味が内側の気づきと一致するんです。
引用の文章については、非二元の「気づき」と同じようなことを言っている、というのは knowing itselfさんに説明していただいて理解できました。
たーぼーさんの解釈そのままが、正確なものなのかどうかについては、私には判断しかねます。 ただ、こちらからの質問する態度で、失礼だった点についてはお詫びします。 申し訳ありませんでした。
> つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。
「自分を絶対視する」という根拠は、これになるのですか? ↑
そもそも、「自分を絶対視」というのはおかしいでしょう。 そこは、たーぼーさんの勘違いだと思いますよ。
たーぼーさん自身を絶対視するのではなく、たーぼーさん自身については「空」であって、絶対視されるものは、たーぼーさんの世界観でいうなら阿弥陀仏でしょう。 それが、「仏の側から行われる」ですよ。
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