□投稿者/ たーぼー -(2020/10/25(Sun) 14:41:45)
| ただ。自我というものを考えた際、「他者と自分を区別」したものが自我であることは間違いないと思いませんか? (この質問が、今、新たにたーぼーさんにこちらからしたいものです。この部分について、教えてください。) 他者=自分 であるなら、自我とは言わないですよね。
それはそうでしょうね。これはその通りだと思います。
自我がどのようにして形成されるかというのを考えてみると、そこには思考が関わっているというのはあると思います。
ただここは、ありのままに理解するべきだと思います。 私自身のことを考えると、仕事などで大勢の人に囲まれている時は自我の塀が高くなるように感じてます。 やはり心の何処かで自分を防御しようとしてるんだと思います。 その代わり、家に帰って回りも安全な環境でリラックスして、自己の探求などに集中してるときは全く自我の塀を感じません。 そういう時は、思考の何処に自他の区別する働きがあるのかという感じです。
他者から「あなたは○○だよ」とか幼少の頃に言われ、そうした記憶が溜まっていき、自分でも自分について思考する中で、自我という自己イメージとも言っていいものが形成されていきます。 この文脈の中で、自我と思考が繋がってくるのだ、というのをminoriは先の文章で書きたかったのですが、上手く伝わらなかったようです。 (一つには私の表現が上手くなかったことも原因の一つかもしれません。)
もう一つ質問したいのですが。 たーぼーさんは、普段の生活の中で、何か仕事をされながら、または、誰かと会話をしながらとかの際に、自分の思考・感情の動きについていつも気づいていらっしゃいますか? 気づいていよう、という努力なしに自然に気づいている、気づいていることが自然だ、という状態にいらっしゃいますか?
これは私もあります。気づいているということは大事だと思います。 でも何か作業などに没頭してるときは、忘れてます。 誰かと会話しながらでも、常にとまでは言わないけど、大体は気づいてますね。 最初は努力してたけど、今は自然に気づいているという感じです。 これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。 この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。 阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。
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