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Re[39]: 第五図理解における違い
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□投稿者/ パニチェ -(2020/07/29(Wed) 22:31:40)
| 2020/07/30(Thu) 07:49:49 編集(投稿者)
レスありがとうございます。
■No4728に返信(knowing itselfさんの記事) > 上記で永井氏が定義している意味とは、同書p153ー154に書かれている内容のことです。
結論から言うと〈私〉は超越論的存在ということですね。
>>私も永井さんや一照さんと同じく第五図、あるいは坐禅をせずとも第五図的なところに慈悲の源泉を認めることは超越的だと考えるからです。
> 第五図に慈悲の源泉を認めること自体は、超越的と超越論的を分けるものではないと言えませんか?
私はそのように考えています。 同じく永井さんも「そこに慈悲とかを入れるのであれば、超越論的では足りないんですP.172」と述べており、私はこれに同意です(P.170〜P.172)。 〈私〉はただそこにあるだけです。
>>誤解をおそれずに言えば先験的に慈悲や仏性が備わっているというのはあくまでも宗教的な発想、つまり超越的発想であり、哲学とは言い難い。・・・(A) > 例えば良道氏は、先験的に慈悲や仏性が備わっているとは言っていないと思いますが。第五図に触れることが慈悲です。それは直接体験です。外にある慈悲や仏性を宗教的に信仰して、それを第五図に埋め込んでいるわけではありません。
一照さんも言っているように、第五図の四角内に慈悲が発生する、厳密に言えば三昧から戻った後に第四図か、または第五図の四角内が慈悲に満たされていたということが分かるということであれば同意です。何故なら、三昧は自他の境界認識が消失しているはずですから、そこに他者に対する慈悲が発生するということは倫理的に矛盾することから何らかの飛躍(超越)があ必要となります。
また見性体験には刷り込み効果が関与している可能性も排除しきれません。 つまり一切衆生悉有仏性という教義が刷り込まれているために体験に慈悲が発生するということです。 これは一切衆生悉有仏性への信仰であるとも言えます。 クリスチャンの神秘体験と禅者の見性が微妙に違うのはこのためだと思ますし、脳をスキャンした結果も微妙に異なるようです。
>>そういう意味でカントの理性や道徳についてトートロジー的な言明は究極的には信仰によるものだと判断しています。 ・・・・(A)
> カントこそが超越論的な発想の代表であると、永井氏も言っているのではないですか。
P.154ですね。 これは言葉不足でした。(A)は永井さんがそのように考えているということではなくて、私がそのように考えているということでした。 私はカントの解説書程度しか読んでおりませんし、ニーチェを通じて知っているところもあり、カント理解は浅いです。 浅いなりに最終的にカントは信仰の人だと現段階では判断しているということです。
knowing itselfさんに確認したいのですが、カントは人間が理性的な理由というか根拠、また最高善を担保するものは何だと述べているのでしょうか。 まずはknowing itselfさんの理解を教えていただければ有難いです。
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