□投稿者/ 時 -(2020/07/27(Mon) 13:36:40)
| パニチェさんへ
こんにちは♪ ご返信をありがとうございます。
> 時さんは興味ないとは思いますが、私の想像というのも頼りないので、私自身の後学のため唯識(八識説)のルーツを調べてみました。
お調べいただき、ありがとうございます。
> 「我という形而上学的原理を想定しないという点では、説一切有部は仏教本来の立場に忠実であった。しかし、経典の中には、なんらかの意味において、我に類する原理を想定するような思想も表明されていたし、小乗諸派のなかには、このような思想傾向を発展せしめたものもある。すなわち小乗諸派では有情の輪廻を認めたから、輪廻の主体を想定せざるをえず、しかし、仏教は無我説であるから、ただちに実体としてのアートマンを認めることもできない。そこで、我とは異なるが、それと類似したなんらかの輪廻の主体を想定した。そうして、それによって生存主体(有情)の連続、因果応報の可能なるゆえんを説明しようとした。(中村元選集第20巻「原始仏教から大乗仏教へ」P.118)」
ここで少し気になりましたのが、「経典の中には、なんらかの意味において、我に類する原理を想定するような思想も表明されていたし、」というところでしょうか。私の学びました原始仏典の中にはこの個所は見つけることができませんでした。上記の表明されている我に類する原理を想定するような思想の記載がある、経典名等、もしもご存じでしたら教えていただければ幸いです。ただ「私」についての記載があるのは、
「私は存在する」「この私が存在する」「私は存在することになろう」「私は存在しないことになろう」「私は有色なる者として存在しないことになろう」「私は無色なる者として存在しないことになろう」「私は有想なる者として存在しないことになろう」「私は無想なる者として存在しないことになろう」「私は非想非非想なる者として存在しないことになろう」というこのことは妄想です。
妄想は病です。妄想は腫瘍です。妄想は矢です。比丘よ、あらゆる妄想というものを超えたがゆえに、寂静なる牟尼といわれるのです。(中部140経「界分別経」)
等々といった仏典は在るようですが、もちろんこれ(私に関して)は、出世間から観た世間での法だと思います。
> 「ある所伝によると、大衆部の経典の中には根本識というものが説かれ、化地部はこれを名づけて<窮生死蘊>と呼び、また正量部は<果報識>、上座部は<有分識>というものを立てたという。ともかく、このような思想にもとづいて後の唯識哲学においてはアラーヤ識という原理が想定されるにいたったのである。(同書P.120)」
> そんなに間違ってなかったみたいです。^^
はい。そのようですね。(^^)v
> 少し補足しますと、原始仏教では非我(我ならざること)を立てていたので輪廻の主体は識としても矛盾は生じなかった。ところが説一切有部をはじめ大乗にいたる諸派はアートマンを否定する無我(我を有せざること)を立てたために新たな輪廻の主体を想定せざるをえなくなったのだと思われます。
部派仏教は「無常・苦・無我」のみが真実であり、他は虚妄であると主張し、大乗仏教は「縁起=空」のみが真実(第一義諦)であり、他は虚妄(方便)であると主張しました。・・・断見と常見の見本市のように観えています。そのまま矛盾が生じないままに教えを守れればよかったのになぁなんて、ぼんやりとですが思っています。
後世の龍樹は中論で空を説いたようですが、その冒頭の帰敬序にて八不を説き、続いて
戯論の寂滅という吉祥なる縁起のことわりを説きたもう仏陀を、諸々の説法者のうちで最も優れた人として敬礼する。と括り、最終の偈では、
一切の見解を断ぜしめるために憐愍をもって正しい真理を説き給うた仏陀に我は今、帰命し奉る。と締め括っています。
各人の中で戯論や妄想が終焉を迎え、論争が静まればよいですね。^^
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