□投稿者/ おくったがわ(okt -(2020/07/25(Sat) 20:54:05)
| > ■No4414(〈私〉について 4) に返信(パニチェさんの記事)
こんばんは。
> > 「何故、私はこの私なのか?」という問いに触れた時、私おくたがわは『同様の問いを自らに問うことはできる』というまさにその問題として考えていると思います。 > > しかしたしかに、「意識とは」の問いと同じように、多数の異なる<私>とそれに対応する多数の異なる人間との関係として括り一般化して考えていたと思います。それは、誰が問うた場合でも同じ問いであるとして括っていたことになるかなと。 > > 同感です。 > 「意識とは」の問いは、デイヴィド・チャーマーズらによって提起された「意識の難問」と呼ばれ「1.物質としての脳の情報処理過程に付随する主観的な意識的体験やクオリアというのは、そもそも一体何なのか?2.そしてこれら主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?(Wikipediaより引用)」というものです。この問いへは「これこれこのような脳や神経細胞の物理的プロセスによって説明あるいは記述可能である」という回答がイメージできます。 > > 一方、ティム・ロバーツが提起した「意識の超難問」と呼ばれる「なぜ私は他の誰かではないのか?」は上記のような回答がイメージできない、あるいは物理的プロセスでもって生じる「私」や自我意識は万人に共通するものであって「なぜ私は他の誰かではないのか?」への回答になりえないと考えますが、おくったがわさんは如何でしょうか。
万人に共通する自我意識や「私」を扱う場合は『何故その中のとある「私」に「その自我意識」が結びついたのか』という問いになり、トートロジーか「たまたま」と答えるしかないのではないでしょうか。 ここは同意いただけますか? 例えば私oktは、意識は脳活動の随伴現象というイメージを持っていて、それによれば上記の問いはトートロジーになると思います。 (パニチェさんと同じ理由で自分自身のことは名前で書こうと思いますが、長いのと平仮名は紛らわしいので、oktと省略します)
そこで、「なぜ私は他の誰かではないのか?」が超難問として成立するとしたら、<私>の特異性によるのだろう。 そのように考えて、その超難問の可否については、いったんベンディングして、<私>(の特異性)についての理解を深めようと思っていたのですが、それについては、現在の minoriさんとパニチェさんの会話をロムした方が良いと思い直しました。
そこでやはり、超難問について直接進めるということで、
1「なぜ〜は〜なのか?」という問いが成立するためには「〜は〜である」が真である必要があると思います。 そこで、超難問には「私は他の誰でもない私である」が(真であることが)前提となるはずです。 この前提はそもそも何を意味しているのか。これを明らかにしたいと思うのですが、いかがでしょうか。 2 そのために、今さらながらですが、「なぜ私は他の誰かではないのか?」は「なぜ<私>は、この「私」以外の誰かではないのか?」 という問いと考えていいでしょうか?
<私>については、 <私>はなんらの説明なく端的に他者ではなく自分であると分かる実存である。 <私>が見るもの・考えるものが世界であり、私が無ければ世界が無い。しかし世界の中に<私>はなく、<私>は<私>を外から見て知るということはない。 このような理解でよろしいでしょうか?
********** 「進みと安らい」では、オキカエやクリカエシが可能な多数の自己を「自己一般」とし、これが自然科学を可能にすると表現しています。この自己一般の経験としてなりたつのが客観性である、と。 今回までのパニチェさんとの会話の、一般化による回答がイメージできる範囲というのが同じ事情を指していると思います。
的外れ・不毛・おもろくない・遅レスでリズム狂う などのお叱りの言葉もなく(?)お読みいただきありがとうございました。
|
|