□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/21(Tue) 19:17:28)
| おくったがわさん
現象学についての本をもっているなんて、現象学について知ろうとしている人がいただけでもうれしい。
引用の部分の『いわば内面的なものと外面的なものとの同一性が成り立つ場面なのである』のとこなんだけど、 わたし「内面てきなもの」を〈精神〉と見て、「外面的なもの」を〈身体〉って見ちゃう。メルロは“結び目”を見ようとしてるとも思ってる。『同一性が成り立つ場』っていうのは「知覚」のことだと思う。精神と身体の結び目を「知覚」ってしてるんじゃないかしら?
「ゲシュタルト」の意味をよく表している語として「分節」っていう語があると思う。
日本語訳の「論」について 『デカルト的省察』の訳注にこんなことが書いてありました。 〔「自我論」と「独我論」はどちらも日本語では「…論」となってしまうが、前者は「自我についての研究・学問」の意であるのに対し、後者は「我一人のみが存在するという主張・考え方」の意であることに注意。ちょうど、例えば、認識論というのは認識についての研究・学問であるが、経験論というのは認識の根源は経験にあるという主張・考え方である(それゆえ、経験主義とも訳される)のと同様。…〕 「観念論」は〈観念主義〉って見ておいうた方がよさそう。「実在論」っていうのはどうなのかしら?主義?それとも研究・学問の方に入るのかしら?よくわかんない。学者さん?たちって、なんかぬけてる気がする。
おくったがわさん、詩なのね。わたし詩を書こうなんて思っても見なかった。 ちょっとメルロ的?に詩を書いて見ます。
わたしが見、触れるもの このことによってわたしは世界と通じていた 見ることは触れることおんなじ わたしのはじめは言葉のない世界で世界と戯れていた いつのまにかわたしは言葉でしか世界と交わらなくなってしまった いや、それはもう言葉じゃなくて記号
どう?どう?詩としてはどう? 酷評おねがいします。
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