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No4245 の記事


■4245 / )  〈仏教3.0〉を哲学するU>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/19(Sun) 17:37:37)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    パニチェさんが番号をつけて書いてくださった部分についてももちろん拝見しました。
    ただ、私としては見解の相違については、「それぞれ違うよね。」で終わらせたいほうでもあり、こちらから書くことは特にありません。
    (物足りないですよね。すみません。)

    以下は、質問になっているので書いていきますね。

    >>慈悲ということに関しては。第四図にはそれはない、というのはパニチェさんとminoriで共通の理解でいいかな、と思うんです。
    >
    > いえ、慈悲が生じるとすれば第四図または第五図の四角内だと思います。これは一照さんも同じようです。・・・(2)
    >
    >>第五図以降でないとそれは発生しないですね。
    >
    > ここが意見の違うところです。
    > 慈悲が分別なく生じるというのがパニチェには理解できません。
    > 仮に見性体験の真っ只中(三昧)で世界が慈悲に溢れていると体得するとすれば、世界と体得する主体が分かれている(分別)ということになり、三昧(自他の区別がない体験)とは矛盾すます。
    > minoriさんが第五図から慈悲が生じると思われている理由を聞かせていただければ有難いです。
    >


    第四図いわゆる娑婆世間では、分離して見えているものでも「体験」している時には、そうは見えず、自他の境界がないように感じる、というようなことがあるようです。
    その他にも、「世界は光だった。」とわかった、というような話も聞きます。
    実際にそのような体験をしてしまったら、日常においての見方、考え方も変化せざるをえないのではないでしょうか。
    第五図というのを私は、そのような「体験」をする場として考えているんです。
    そうした体験をした結果として慈悲といわれるものが、体験した人に生じるようになる、ということです。

    生まれつき慈悲深い人もいますし、娑婆世間の中で慈悲が生じる人ももちろんいると思います。(無私なのか?と思われるような人です。)
    ですから、何がなんでも体験が必要だという話でもなく、体験したからすごいんだ、という話でもないとは思うのですけどね。
    探究においても体験しなければそれ(探究)ができない、という話でもないと思います。
    知的な探究によって、いわゆる「体験」以上に理解する人というのもいると思います。
    その場合、その知的な理解による変容が、第五図に位置するものと言ってもいいのではないか、と考えます。

     答えになっていなかったらすみません。

    >> ※永井さんの〈私〉については、山下さんの青空関連の話が終わった後に、再度きちんとやる、ということでいかがでしょうか?
    >>なんか、頭がパンクしてしまいそうなので。
    >>できたらそのようにお願いします。
    >
    > 了解しました。ただ「〈仏教3.0〉を哲学するU」を良道さんを主として読解するのと、第五図=〈私〉として読解するのでは、かなり異なった解釈になるとは思います。
    > これは提案ですが「〈仏教3.0〉を哲学するU」の正確な読解ということを主とすればどうでしょうか。
    > そういうことであれば(言い出しっぺで申し訳なかったのですが)良道さんとパニチェの見解の相違は捨ておきましょう。^^


    いや〜、それは難しいです。 永井さんの〈私〉はさっぱり理解できないですし。。。
    というより、わからなすぎて興味を失ってしまいました。
    読書会をせっかく提案いただいたのに申し訳ありません。
    せっかく買ったので、わかりそうなところだけ一人で読んでみます。
    (読むのじたいをやめるかもしれませんが。)

    > 全然、大丈夫です。^^
    > ちなみに投稿後も編集できますが、そのやり方は分かりますか?

    わからないです。 削除キーの使用法はまだしてませんがやればできそうです。
返信/引用返信 削除キー/


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