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Re[19]: 再び >「言語批判」について
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□投稿者/ knowing itself -(2020/07/12(Sun) 13:08:44)
| レスありがとうございます。
> 以下、カントを離れてレスさせてもらいます。 > > ■No3873に返信(knowing itselfさんの記事) > >>言語批判にはだいたい三つあると考えられます。 > >>@形而上学的言語への批判 > > 私は未だにこの形而上学といのがどういうテーマを指すのかよく理解できてないのと、これって哲学のテーマでありえるんだろうかという疑問があります。 > knowing itselfさんは形而上学をどのように定義されていますか。 > そして、その定義上、哲学のテーマたりえますか?
「純粋理性批判」の純粋とは、経験から得た知識を含んでいない、その意味での純粋だそうです。形而上学の定義としては、「人間の経験領域をこえた事柄を、経験から独立した理性的思惟によって、先天的に認識していく営み」というのが一般的だと思いますが、カントが「純粋理性批判」で槍玉にあげたのも(世界は有限か無限かという設問等)まさにその種の営みですね。人間の理性には解答できる能力がないんだと。
形而上学が哲学のテーマたりえるかに関しては、プラトンなどの古代ギリシアから、哲学者は形而上学を中心テーマにして語り続けてきたという印象です。ヘーゲルなどは形而上学の滔々たる大河ドラマ。こういう西洋哲学の根幹をなす形而上学に異議を唱えたのがニーチェで、それを完成したのがハイデガーとか言われていますね。ここはあたりはパニチェさんの得意分野ですね。カントにはニーチェの先取りのようなところもあるのではないでしょうか。
>>A日常言語への批判 > > これは分かりますし、日常会話的なことでも、言語で全て表現できると思い込んでいること自体がある種の誤謬だと思います。
同意です。個人的には、哲学に興味をもつようになったのは、言語への強い不信感です。
>>B科学言語への批判 > > ここで言う科学言語とは数式のことも含まれますか?
というか、科学言語と定量性の認識は切り離せないと考えています。
> 例えば虚数を伴うショレンデンガー方程式なんかは言語化不能だとは思いますし、道具としての記述に過ぎないのではないかとさえ考えています。
科学言語への批判という意味は、科学言語はどれだけ進化して完成形をなすようにみえても、も究極リアリティーについての究極真理ではありえないという意味においてです。
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