□投稿者/ knowing itself -(2020/05/05(Tue) 15:47:34)
| ■No2798に返信(パニチェさんの記事) > こんにちは、レスありがとうございます。 >
こんにちは。レスありがとうございます。
> 眠りとケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディが比較されているのですがよく分かりません。
眠りは、身体や精神との同一化が切れていることの喩えだと思います。身体や精神が不活性状態になってもなお現前するのが本当の自己ということでしょう。
二ルヴィカルパサマーディは、喩えていうと、夢をみない熟睡状態に入った状態で、サハジャサマーディは、夢をみない熟睡状態に入っていながら、同時に目覚めているときの活動を行えるという状態だと思います。
ラマナ的な世界観は、夢をみない熟睡状態としての真我がそのまま現象世界でエネルギッシュに活動していることになるので、現代日本人の常識からいうと荒唐無稽かもしれませんが。
> 熟睡状態では自意識は喪失し、それはまるで死と区別がつかないし、目が覚めている状態でどんな苦に悩まされていたとしても、熟睡状態には苦を感じる自我が無いから苦もないということは以前から考えていたことですが…。
> ヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディというのは仏教で言うところの無余依涅槃と無余依涅槃みたいなものでしょうか?
仏教の無余依涅槃は、夢をまったくみない熟睡状態(ラマナの喩えとしての)に相当し、有余依涅槃は、生理現象を自覚しながらの睡眠状態になるかと思います。二ルヴィカルパとサハジャのサマーディの違いとは必ずしも対応しないのかなと。
> あと完全な熟睡状態が、全体性が全体性を意識する空であるというところもよく分かりません。これはもう少し言葉で説明することは可能ですか。
坐禅はちっぽけな自我がするものではなく、「坐禅が坐禅をする」という言い方がされますが、「全体性が全体性を意識する」も同じ事態を表現しているつもりです。
パニチェさん的には「全体運動が全体運動を意識する」、あるいは「全体運動が全体運動を全体運動する」でもいいかと思います。
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