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Re[8]: 空の全体性と無分別
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□投稿者/ knowing itself -(2020/05/03(Sun) 17:31:17)
| こんにちは。レスありがとうございます。
>>正しいイメージだと思います。結局、科学理論においても進化して生き残るものは、色心不二を色の側から精密に近似的に表現できている仮説なのだと思います。 > > 量子力学の観測問題は色と心が切り離せないところがあり、存在についても古典物理までの素朴実在論的なものから観念論的な性質が入り込んでいるみたいです。 > 量子力学の観測問題にせよ、脳科学の意識の難問にせよ、パニチェはジャンルを超えたパラダイムによって新しい科学、あるいは学問が成立するような気がしています。
そうですね。
> 複雑系、例えばさまざまな要素が絡みあう天候とか、水の中に一滴のインクを垂らした場合の運動とか、空気や液体が温められて対流をつくりつつ温度が均一になっていく様子とか、先に述べた海流と渦とか、そういう運動をイメージしています。
カオス理論とか非線形性という考え方もありますね。全体性を捉える上で有効だと思います。
> 全体性が全体性を意識するというのが、パニチェはあまりイメージできません。眼で眼が見れないように、自己で自己は見れない。見るものと見られるもの(能観・所観)が分離しない状態(一如)が空なのかな、と想像しています。
ラマナが真の自己を説明する喩えに、「夢一つまったく見ない完全な熟睡状態」があります。私見ではこれが、全体性が全体性を意識する空です。世界は常に完全な熟睡状態にある、と同時にダイナミックに複雑系として活動してもいる。後者は色でしょう。色はそれ自身の力でそれ自体としてリアリティをもつのではなく、完全な熟睡状態である空からすべてリアリティを与えられる。そういう解釈ですね。
> 同じことを聞いてしまうかもしれませんが、そうするとknowing itselfさんの無我の解釈は言語で語れるような自己(「私は○○だ」と表現可能な自己)は無いという意味での無我ってことになりますか?
その意味が当てはまることは同意です。なぜ言語的に同定できないかというと、言語機能は部分的な対象を追跡する機能だと理解していますが、部分はそもそも虚偽で非実在なので言語でいくら語っても全体である<私>と同一化できないからです。そう考えています。
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