□投稿者/ pipit -(2020/04/06(Mon) 22:59:22)
| パニチェさん、こんばんは
毒矢のたとえとして有名な、中部経典にある『小マールキヤ経』ですね。
細かい情報なんですけど、 原文では、 【タターガタ、は、死語存在するか否か?】 などと記されているみたいで、 タターガタは、一般的には《如来》という意味で使われてる単語です。 なので、wikiの十無記の説明には、
『修行完成者(如来)は死後存在するのか』 というような記述になっています。
中部経典を伝えてきたテーラワーダさん的世界観の文脈では、 《悟った人》の死語はどうなるの?とマールキヤ比丘が疑問に思った、と捉える方が一般的かな?と思いました。
でも、如来(という単語が意味するところ)を全ての有情と捉えるような、大乗仏教につながるような流れで捉える方も出てきたのかもしれませんね。
経典を解説した注釈書の中で、そのような見解を、有名な比丘の方が述べてるかも? 論文をちらっと読んだだけなのですが、 十無記(と私は覚えてるので。いろんな数え方があるようですね)についての論文のページをご紹介しておきますね。 (私もきちんと読んでないんですけど・汗)
もし、もっと、詳細に検討したいな、ということなら、私も一緒に検討したり、経典の原文が見れるページなどを知っていますので、おっしゃってくださいね。
↓ 森章司先生の十無記などについての論文
ttp://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf
とまあ、細かいことを書きましたけど、 大事なのは、あるんかないんか自分でわからんことをずっと悩むより、滅苦の実現ですよね。 パニチェさんも、きっとそういうことをおっしゃってるのかなと私は思っています。
パニチェさんは、私の印象では、禅みたいなかんじです。 禅のお坊さまでもあられる、片山一良先生のお経の紹介文を引用します。
『第六三『小マールキヤ経』は『毒矢経』としても知られ、仏が、「世界は常住である」などの十種の「解答されないもの」(無記)に捉われたマールキヤプッタ比丘に、それが無益なことを毒矢の喩えによって説き、「四諦」こそ正覚、涅槃のためになる「解答されるもの」であることを示されたものである。 仏教の学びが自己の苦に関して今ここで行われるべきことを教えている。』 『ブッダのことばパーリ仏典入門』片山一良先生、p188より引用
いろいろな新しい考え方を、私に教えてくださって有難うございます。 これからもよろしくお願いします(^_^)
おつかれさまです ! おやすみなさいです〜 ☆彡
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