□投稿者/ Flora -(2020/03/18(Wed) 02:13:42)
| こんちには。
>> クリシュナムルティの観察するものは、観察されるという言葉を思い出しました。 >> 他を観察している自分を自分が観察しているという、2つに分離している自分。
>クリシュナムルティが言ってることは自己が自己を観察することの不可能性ではないでしょうかねぇ〜。 >目で目が(鏡像とかではなく直接に)見れないように、自己で自己を見る(内観)ことはできない、というような。。。 >問題は観察するものや観察されるものが(多くの自意識がある中で)〈私〉に限定されているということです。
私の最初のレスが大きなまちがいだったようで、ごめんなさい。 どうも観察者(自分)観察されるもの(自分の問題等)、本来は自分=問題で、すなわち、自分が問題をつくっているというような。自分と問題が一体化(分断化の反対として)すれば問題がクリアに見え、解決しやすくなる・・・という風じゃないでしょうか。分断化が問題だとは、ボームさんもおっしゃっていたような感じがします。
>> または、自分は特異点にいる、つまり時間のない場所です。 >> 仏教(禅?)でいうと即今というのでしょうか・・・
>究極的には即今ですが、〈私〉がいる地点から世界を見ているわけですから日常的には時間は流れていますね。
ここでいう<私>=眼ではないのですね? もし属性のない単なる眼ならば、時間を作る主体がないので、特異点という表現になったのかな?と想像してしまいました。
>フローラさんは眼から世界を見ていますよね? >そこにはフローラさんの手や足や胴体は見ている世界に(他者や事物と同じく)あります。 でも、眼の手前にある見ている主体は見ている世界の中にはないというような意味です。 フローラさんの精神や自我や私秘性は世界の中には属さないというようなことなんですが、やっぱ分かりにくいでかねぇ〜。 >以下のウィトゲンシュタインの言っていることはどう解釈、または解釈でききないでしょうか?(なんか表現が失礼になっているかもしれませんが、これも他意にない質問です。^^;)
>『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』
子供のころ、自分はどこに属しているのか、自分の身体=自分なのかそうじゃないのかよく疑問を感じたことがありました。成長するにつれ感性が鈍くなり、また忙しくなり、自分をいうこのを顧みる機会がほとんどなくなりました。
子供のころの不思議な感じは、当然言葉にはできず、単に感じとしか言い表すことができません。空間を浮遊している感じもありました。
ハムレットがホレーショに『天地には哲学の及びもつかないことがいくつもあるんだ』というんですが、考えて見ればこれも哲学では知ることのできないことがたくさんあるんだよ、ということなんでしょうね。 言葉を巧みにつかったシェークスピアがこのように主人公に言わせるのも面白いものがありますね。
ところでパニチェさんはご自身がどこにおられると感じられますか?この世ではないということはこの宇宙では無いということなんでしょうか?
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