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No1797,1799,1806 の記事


■1797 / )  読書籠り部屋@
□投稿者/ pipit -(2019/09/07(Sat) 21:38:03)
    読書籠り部屋@☆目指せ【カント的アプリオリな総合判断】についての理解

    『カント入門講義 超越論的観念論のロジック』
    冨田恭彦先生著
    ちくま学芸文庫
    p249〜284
    第7章
    アプリオリな総合判断はいかにして可能か

    の箇所を読んでみます。
    今まで、見を通しただけで、意味は頭に入ってませんでした。

    がんばろう、自分 ! o(^▽^)o
    (自信なし)← 逃道確保

    p250〜251

    アプリオリな総合判断はいかにして可能か。

    これに答えるためにカントが準備したもの
    ☆ 私たちの二つの認識源泉である「感性」と「知性」に、
    それぞれ、最初から備わる仕掛けを明らかにすること。
    このアプリオリに備わった仕掛けを用いて、問いに答えようとする。

    ※※※※※※※※

    カント的には、アプリオリな総合判断は二種類ある、と考える。
    一つは、「純粋哲学」、言い換えれば、「形而上学」に属する〈アプリオリな総合判断〉
    一つは、「数字」に属する〈アプリオリな総合判断〉

    ※※※※※※※※

    カントの言葉
    『哲学的認識は概念からの理性認識であり、
    数字的認識は概念の構成からの理性認識である。』
    (A713/B741)

    ※※※※※※※※

    上記カント文に出てくる(理性認識)は、アプリオリな総合的認識、言い換えれば、
    経験に依存しないアプリオリな総合判断のことです。
    (by 冨田先生)

    ということで、言葉を置き換えてみる。

    哲学的認識は概念からの(アプリオリな総合判断)であり、
    数字的認識は概念の構成からの(アプリオリな総合判断)である。

    ※※※※※※※※

    概念、から・・・哲学的認識
    概念の構成、から・・・数字的認識

    ここのところ、今から、勉強するみたい

    ※※※※※※※※

    今日の籠り部屋終わります !

    みなさま、おやすみなさい (^_^)

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■1799 / )  読書籠り部屋A
□投稿者/ pipit -(2019/09/08(Sun) 15:50:58)
    読書籠り部屋A

    p252〜258

    カントによれば、アプリオリな総合判断を生み出すのは『形而上学』と『(純粋)数字』

    え?純粋自然科学の例も出してたよね?

    カントの考え方は・・・
    純粋自然科学という学には、
    「現象に応用された」かぎりでの『数字』と、
    自然を非経験的に考察する「純粋哲学」の部門(=自然に関する「形而上学」)
    が見出される。

    つまり、カントによれば、純粋自然科学は、ある種の『数字』とある種の『形而上学』からなるので、
    上記二つのアプリオリな総合判断の可能性が解明されれば、純粋自然科学の可能性についても基本的な事柄も解明されたことになる、と、考えてたみたいです。

    カントは『自然科学の形而上学的基礎』の中で、自然科学の純粋部門は、
    【形而上学的構成物と数学的構成物が互いに入り交じるのを常とする。】と言ってるそうです。

    ※※※※※※※※

    というわけで、まずは、カントが考えてた、数字に属するアプリオリな総合判断、そして、その総合判断を得るための方法である『概念の構成』とは何か?を、冨田先生は解説されるみたいです。

    ※※※※※※※※

    ここでは幾何学を例にとりあげられてます。
    まず、カント的な用語の説明がなされていって、
    その用語の意味が了解されたあと、「三角形の内角の和は二直角である」という命題を例に解説されています。

    ※※※※※※※※※

    用語説明
    まずは、『概念の構成』

    数学的認識は「概念の構成からの理性認識」by カント

    【構成】、カント自身が綴っていた単語は、【Construction】

    動詞は「konstruieren」コンストルイーレン、「構成する」。

    『概念を構成するとは、その概念に対応する直観をアプリオリに描き出すことである。(略)。私が三角形を構成するには、この概念に対応する表象を、ひたすら想像力によって純粋直観において描き出すか、また想像に従って紙の上に経験的直観において描き出すかであり、いずれの場合にも、まったくアプリオリで、そのための見本をなんらかの経験から借りてくることはない。描かれた個別の図形は経験的であるが、にもかかわらず、概念が持つ普遍性を損なうことなくその概念を表現するのに役立つ。(略)』byカント(B741.742)

    ☆冨田先生の解説☆
    どこに描くかというと、「想像」によって心の中に描く、というのがその一つです。
    カントが使っているのはドイツ語の「アインビルドゥング」(Einbildung)ですが、その中に含まれている「ビルト」(Bild)はまさしく「像」のことであり、「アインビルドゥング」は「心の中に像を作ること」、あるいはそのようにして作られた「心象」を意味します。


    ※※※※※※※※

    『構成』とは、『概念に対応する直観をアプリオリに描き出すこと』であり、
    その描き方の一つは、
    【ひたすら「想像」によって《純粋直観において》描き出す】

    この時の「想像」を上記でみたので、次は、《純粋直観において》の意味するところを考える。

    ※※※※※※※※
    p258まで終わります。
    次は、p259の、人間の認識の仕組みのうち感性部門についてのごく簡潔な復習からみたいです。

    ※※※※※※※※
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■1806 / )  読書籠り部屋B
□投稿者/ pipit -(2019/09/11(Wed) 13:49:06)
    読書籠り部屋B
    p259〜

    物自体(対象自体)から私たちの感覚能力が刺激を受けることで、見えたり聞こえたり、という状態(現象としての対象)が生じる。

    【(人間にとっては)感性だけが直観を与えてくれる。】

    【この直観】を、カントは2つに切り分ける。
    「素材」&「形式」、の2つに区別する。

    「素材」とは、さまざまなその時々の感覚。色を感じたり音を感じたり。
    これを、「経験的直観」と言う。

    「形式」とは、アプリオリに感性に組み込まれていて、仮に感覚が与えられることがなくてもあるもの。
    物自体からの刺激がなくても、感性に表現形式として先に組み込まれているもの。
    感覚とは関わりなく存在する直観ということで、「純粋直観」と言う。

    ただし、この純粋直観は、純粋直観単独で認識できるものではなく、私たちは「経験的直観」の現れ方として、「経験的直観」と共にしか直観できない、と、カントは言ってるかも?と思いました。
    カントは純粋理性批判の序論冒頭で、

    『わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。(略)。だからわたしたちのうちの認識において、時間的にみて、経験に先立つものは何もない。すべてが経験とともに始まるのである。

    このようにわたしたちのすべての認識が経験とともに始まるとしても、すべての認識が経験から生まれるわけではない。
    というのも経験によって生まれた認識というものですら、一つの合成物であると考えられるからである。(略)。

    ここで問いたいのは、経験から独立した認識というものが、すなわち何よりも感覚のすべての印象から独立した認識というものが、存在するかどうかということである。』
    (『純粋理性批判1』中山元訳、p15〜17)

    と述べています。

    つまり、純粋直観は、
    「諸対象がどのように私たちに認識されるか」としてしか認識されない、かな?

    ※※※※※※※※

    今、思いついたんだけど、
    お絵かきソフトがJPEG形式のファイルしか読み込んでくれない時、
    お絵かきソフトで開けたなら、そのファイルはJPEG形式で書き込まれてるってことでしょう?
    どの画像開いて内容は違えども、形式はJPEG方式。
    そういう感じで、私たちが、外的に、何を感じても(どんな経験的直観でも)、
    その現れ方は、空間上・時間上に現れる、というのが、感性の形式は空間と時間ということかな、と、思いました。


    ※※※※※※※※

    それで、三角形を、
    『ひたすら想像によって純粋直観において描き出す』場合、のことからだけど、、、

    疲れたな〜

    ここで一旦切ります。次は、p260から!

    ※※※※※※※※

    ここでちょっと休憩。

    カントの『認識』わかりにくいんですよね。

    普通、夢でも、認識って言えると思うけど、

    カント、多分、めっちゃ意味を狭くとってるかんじです。

    人間にとって共通し得る知識を認識って言ってる感じ。
    だから、どこかで、感情は認識じゃない、みたいなカントの文も読んだ気が(うろ覚えやけど、無責任やけど、引きこもり部屋気分やから、、、ええのん?)

    はじめ、英訳で、認識がknowledgってなってて、違和感あったけど、
    今は理解できる気がするなー

    ちなみに、上記で引用したカント文の
    『わたしたちのすべての【認識】は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。』は、
    英訳では、
    『That all our 【knowledge】 begins with experience there can be no doubt.』
    です。

    疲れたー

    とりあえず一旦終わろう (ノ_<)
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