□投稿者/ パニチェ -(2019/07/15(Mon) 11:45:31)
| ■No1487に返信(pipitさんの記事)
> 純粋理性批判の感性論序文の中に以下の記述があります。
> 『この超越論的感性論という学において、わたしたちは最初に、 > 受け取るものに、知性の概念によって付け加えられるものから、(知性によるものを)分離して、 > 感性あるいは感覚の能力を孤立させてみよう。 > そうすれば、経験的な直観だけが残される。 > > 次に、わたしたちはその(経験的な)直観から感覚に属するものを全て取り去ってみよう、 > そうすれば、純粋な(=経験的ではない)直観だけが残されるだろう、 > (残されたもの、純粋なものは)現象の単なる形式であり、それだけが感性がアプリオリにもたらすことのできるものなのである。』
ここだけ読んだ印象としては、臨済宗で言うところの「無為の真人」とか、西田哲学の「純粋経験」をアプリオリなるものとして説明しているのかな、と。
|
|