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■10015 / inTopicNo.13)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/12/13(Sun) 22:54:19)
    No10003に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま、■9998、わざわざありがと。
    > ■9890がフッサール現象学なんじゃないかな?って思ったから抜粋してみました。
    >
    > 「認識」っていうとどうもかたいから、わたし「知ること」ってしてます。
    > 自転車に乗れるようになることもわたし「知ること」に入れちゃってる。
    >
    > ごめんね。わたしの志向(intention)を書かせてもらうね。前にも抜粋したと思うけど、メルロの『知覚の現象学』から、
    >
    > 【現象学とは何か。フッサールの最初の諸著作が世に出てからもう半世紀もたつのに、今なおこんな問いをたてなければならないことは、一見、奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの問いはまだ解決されていはいない。現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。<


    現象学は、それぞれXの本質を定義することによって解決されるはずの学問だが、

    >しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。<


    本質を実存の中に戻し、事実から出発する学問でもある。

    >それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、<

    自然な態度、アリが居る。コップがある。川の音が聞こえて来る。などの主張を理解するために、
    上記主張を保留して、上記がどのように生まれるのかを哲学するのであるが、


    >しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。<

    世界が、わたしがすでに生まれた自己意識を対象に意識しようがなにしようが、すでにそこに『ある』ことを認める哲学でもある。


    >そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。<

    世界は『ある』、そして素朴にその世界と触れ合う、その触れ合いを哲学的に認証することに努力する。


    >現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。<

    厳密に、生きている空間、世界についての記録報告でもある。

    >それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。<

    経験を、先入観なしに、記録してみる。


    >だがフッサールは、晩年の諸著作のなかで「発生的現象学」、いや「構成的現象学」にまで言及している。こうした矛盾は、フッサールの現象学とハイデガーのそれを区別することによって、解決されるだろうか。しかし『存在と時間』はすみずみまで、フッサールの指示に由来するものであって、要するにこれは、フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。‥‥】<

    ここわからないよ。悪魔ちゃん、説明してみてくれる?




    > ■9890でわたしが気になったのが【日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。】っていうとこ。<


    上記のことを自然的態度って言うの?


    > 現象学って、哲学者でもなんでもないふつうのわたしのことを知ろうと(かたくいうと哲学しようと)してる、っていう感じを受けいてる。<


    うん。


    > ついでに抜粋しちゃうけど。前にどこかで書いたと思うけど、メルロの『見えるものと見えないもの』にはこんなこと書いてある。
    >
    > 【われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである<
    、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。<

    自然的態度のことかな?みんなたいがいはそう思って生活してるだろうね。

    >だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。】<


    考えなきゃ、迷宮に入らないね。


    > 【哲学者といえども】っていうの、ふつうなわたしと根源的には同じ見たいに言ってるとこ、わたし好み。<


    人間が哲学する。人間が農作業する。人間が絵を描く。人間を対象にした学問が人間学かな?

    > ちょっとわたしがいいたいこと少し言えたかな?
    > っていうか、わたしのうちで整理したいがためなのかも?
    > ごめんね長くなっちゃて。<


    冒頭の志向がどのような意味で使われてるのか最初わからなかったけど、
    ヘルシー志向
    ボリューム志向、などに使われるような、志向で、

    上記引用文の内容が、悪魔ちゃんの知りたい、志向なんだね。

引用返信/返信 削除キー/
■10013 / inTopicNo.14)  Re[60]: 生
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/12/13(Sun) 21:48:26)
    Pipitさんへ

    返信不要です。
    Pipitさんは絵に描いたような善人で、
    「おにぎり餓死遺体画像」を見て、思った所があるのだと思う。
    私も幼き頃、「おにぎり餓死遺体画像」を見て衝撃をうけたのだが…、
    今思うと、遺書に「おにぎりが食べたかった」なんて書くわけないと思っています。
    品質能力でしょうね、フェイクはわかってしまいます。

    私はボランティア精神は尊重しており、ボランティア精神を持っている方は、
    とても人間性が高くビジネスでも高確率で成功するだろうと思います。
    ボランティア精神のある方は基本、怠惰欲が少なく、サボらないですね。

    さて、ドヤ街巡りをした私ですが、目的をもってドヤ街巡りをします。
    東京(山谷・歌舞伎町)、横浜(寿町)、大阪(西成)、兵庫(尼崎)、福岡(中洲)と
    自ら進んで旅行に行きましたね。
    宿泊先も激安なので何の問題もないのですが、やっぱり危険ですね。

    人間の贅沢は、お独り様、大体40万円当たりがMAXかと思います。
    その逆の貧困はどのような世界かという事です。

    私は「お前は貧乏人の気持ちはわからん」とよく言われたんですよ。
    正直、むかっ腹立っているんですが、きっとPipitさんも言われるタイプです。
    ですので、私は正直、やさしい性格のPipitさんを心配しているわけです。

    ドヤ街はね、youtubeでも出ていますが、ハッキリ言って日本じゃないですよ(笑)
    どちらかというとインドや東南アジアに近いと思います。一言でいうと土臭いですね。

    ホームレスさんは何かしらの特殊能力をもっておるが、
    現代人として欠陥がありますね。
    私の第一印象は、ホームレスさんは、
    ★★ お金が無いのに物があるという非常に摩訶不思議な生命体です ★★
    私は、ホームレスと一週間過ごすチャレンジをして、体臭がキツイと
    半日でギブアップしましたが、ホームレスさんは何と風呂まであるんですよ。
    風呂があるというか、風呂を自力で作り上げるという力があるわけです。
    けど風呂には入るが、服は洗わないというクソやろうですね(笑)
    ホームレスさんは物の活用ができても、計算ができないんだよね。
    自分の計算を信用していないというのが正解かもしれない。
    また、偉そうな態度のホームレスに、私は
    「前歯のない奴がビジネスなんかできるわけないだろ!」とブチ切れた事もあります。
    つまり、ホームレスは自分姿が見えていないんですよ。

    では、次に

    世界は残酷について

    私も世界は残酷だと思います。
    ただ私が思う、世界の残酷さは、
    ★★ 人間は地球から離れて宇宙に飛び出しても食料はない ★★
    という意味で、世界は残酷だなと思っています。

    人間自体はそこまで残酷ではありません。
    残酷な情報を真似て、言い訳を添付し残酷な行動をしているだけです。
    私の見聞では、本当に残酷な人間は30人に1人ぐらいかと思います。
    多いと言えば多いですね、自分の知り合いが3000人なら100人はいる計算ですから、
    その100人に囲まれたら、残酷な人生になってしまいます。

    残酷な人間100人に囲まれる事はあるのか?
    無いですね、奴らは単独行動ですからね。

    悪の研究をすると、悪は輪廻している私は言いますが、
    ほぼ、彼ら悪人は映画・アニメ・物語から学んでいますね(笑)
    だから、人間社会における残酷さってのは、フィクションです。

    本当の残酷は、数奇な運命を孕んでいるよ。
    人の幸福はどれも一緒です、しかし、人の不幸は千差万別です。
    だから、ドヤ街にすんでいるホームレス達は、あれはフィクションです。
    よくテレビがホームレスを題材にしノンフィクションというが、
    彼ら自体の脳はフィクションだよ。

    ホームレス「なぜ、私は人から嫌われる」
    俺「臭いから」
    ホームレス「なぜ、私はビジネスができない?」
    俺「前歯がないから」
    ホームレス「なぜ、家がない?」
    俺「段ボールとビニールシートで作った家があるじゃねーか」
    ホームレス「金がない」
    俺「物があるじゃねーか、金がないのに物がある方が吃驚だわ」
    ホームレス「抜け出したい」
    俺「勝手に抜けろ(笑)、好き込んでこういう人生を送っているんだろうが」

    いやね、No9976でみのりさんが、
    1人1人が意識をもって生きなければいけないとおっしゃったが、
    その通りで、現代人は隙(すき)を作ってはいけないわけですよ。
    隙をまず言葉や思想で埋めろと言いたいね。

引用返信/返信 削除キー/
■10003 / inTopicNo.15)  Re[59]: 生
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/12/13(Sun) 17:29:57)
    pipitさま、■9998、わざわざありがと。
    ■9890がフッサール現象学なんじゃないかな?って思ったから抜粋してみました。

    「認識」っていうとどうもかたいから、わたし「知ること」ってしてます。
    自転車に乗れるようになることもわたし「知ること」に入れちゃってる。

    ごめんね。わたしの志向(intention)を書かせてもらうね。前にも抜粋したと思うけど、メルロの『知覚の現象学』から、

    【現象学とは何か。フッサールの最初の諸著作が世に出てからもう半世紀もたつのに、今なおこんな問いをたてなければならないことは、一見、奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの問いはまだ解決されていはいない。現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。だがフッサールは、晩年の諸著作のなかで「発生的現象学」、いや「構成的現象学」にまで言及している。こうした矛盾は、フッサールの現象学とハイデガーのそれを区別することによって、解決されるだろうか。しかし『存在と時間』はすみずみまで、フッサールの指示に由来するものであって、要するにこれは、フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。‥‥】

    ■9890でわたしが気になったのが【日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。】っていうとこ。

    現象学って、哲学者でもなんでもないふつうのわたしのことを知ろうと(かたくいうと哲学しようと)してる、っていう感じを受けいてる。

    ついでに抜粋しちゃうけど。前にどこかで書いたと思うけど、メルロの『見えるものと見えないもの』にはこんなこと書いてある。

    【われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。】

    【哲学者といえども】っていうの、ふつうなわたしと根源的には同じ見たいに言ってるとこ、わたし好み。

    ちょっとわたしがいいたいこと少し言えたかな?
    っていうか、わたしのうちで整理したいがためなのかも?
    ごめんね長くなっちゃて。




引用返信/返信 削除キー/
■10000 / inTopicNo.16)  実践理性批判
□投稿者/ pipit -(2020/12/13(Sun) 08:19:20)
    No9993に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > pipitさま、わたし『実践理性批判』を聞きたい。<


    『純粋理性批判』飛ばして、『実践理性批判』に進もうか迷うんだけどね。

    『純粋理性批判』の初版と第二版の演繹論は、ざっくりとでも理解したい欲望があるんだよ。

    迷うよ。

    ちなみに、『実践理性批判』まだ購入してないよ(^^;) 『道徳形而上学の基礎づけ』という中山元先生訳の光文社古典新訳文庫は待ってるけどね。苦行的に無理やり目を通したものの、全然理解できてないよ(^^;)
    でも、理解していくのは、楽しそうな予感もするけど。

    書き込み、ありがとね!

引用返信/返信 削除キー/
■9998 / inTopicNo.17)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/12/13(Sun) 08:09:32)
    おはよー

    No9890に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > わたし、なにを知りたいって思ってるんだろ?
    > わたしが知りたいもの、あるいはそれを見つけだすためのヒント的なものが現象学のなかにあるんじゃないか、っていうこと?わたしの欲望ってなんだろ?って。
    >
    > フッサールの『デカルト的省察』から
    >
    > 【…日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるのにもかかわらず、匿名的に行なわれる。<

    志向的な働きは匿名的に行われる。


    >経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これから現れてくるもののみが視野に入る。<


    志向的働きがあるとき、数などが現れるが、
    経験者は数などのみが視野に入る。


    >実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。<

    志向的な働きがあるとき、科学も現れるが、
    現れてる科学理論ばかりが視野に入り、
    志向的な働きは解明されていないまま。

    >学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基いているが、その批判は究極的な認識批判(3)なのではない。<

    学問は、理論に対する正当性を自己チェックすることが義務として課されているが、
    その自己チェックは、究極的な(認識に対する自己チェック)ではない。


    >究極的な認識批判とは、根源的な働きについての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。…】<


    究極的な認識自己チェックとは、認識の根源的な働きの分析であり、根源としての志向的地平の露呈まで至ることなのだ。



    > 訳注(3)
    > ロックの『人間知性論』からカントの『純粋理性批判』に至る近代哲学の課題は「認識批判」であった。フッサールが現象学的還元の着想を得た頃の覚え書きにも「理性の批判」という語が見られる。<



    > ジョン・ロック、わたしの参考書では、
    > 〔『人間知性論』(『人間悟性論』)
    > ロックの主著で、1690年の刊行。人間に生まれつき備わっている生得観念を否定し、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、人間の認識作用を考察した。心の意識に現れる観念は、外から印象を受ける感覚と、心の内の働きを観察する反省という二つの作用をもとに発生し、理性はこれらの経験から生まれた観念を使って推理や思考を行う。〕
    > ロックで有名なのは「タブラ=ラサ」みたい。
    > 〔tabula rasa白紙
    > 経験によって外から知識や観念を与えられる前は、生まれつきの人間の心は、何も書かれていない白紙の状態であるというロックの言葉。タブラ=ラサとは、ラテン語で何も書かれていない板・白紙を意味する。ロックは、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、デカルトの説いた神や実体についての生得観念を否定し、感覚と反省という二つの経験の作用によって、心にさまざまな観念が刻まれていくと説いた。〕
    >
    > わたしが知りたいと思ってるのは、人間の認識、なのかな?って、ふと。
    > わたしごとでごめんなさい、でした。<


    人間の認識の根源を知りたいということ?

    なにがあるとき、人間の認識が現れるのか。
    なにがないとき、人間の認識が滅するのか。

    一番簡単に思いつくのは、人間の身体を根源とすることだけど、
    脳死された方の認識は、今の自分では直接確かめられないからね。

    根源に入るところは、複数のものがあるかもだしね。

    ヨーグルト作る根源は牛乳かもだけど、ヨーグルト菌?も要るんやろうしね。

    悪魔ちゃんは、志向性というものに、人間認識の源泉として、興味あるのかな?
    と、思いました。

    人の認識の根源には欲があるのかもしれないな、と、ふと思いました。


引用返信/返信 削除キー/
■9993 / inTopicNo.18)  Re[57]: 生き方
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/12/12(Sat) 21:22:37)
    じゃ、どうしましょうか?

    pipitさま
    ■9890、読んでくれたかしら?わたしの意味のスルーは慣れっ子だから別にいいんないけど。たしかロックって、タブラ=ラサの他に「社会契約説」っていうのも説いてた気がする。

    キリストとかゴータマ=シッダルタっていう「人」の教え?から人の生き方を考えようとする?あ、考えるじゃなくて”教わる”なのかな?「○○教」っていうなかにはイスラム教っていうのもあるみたい。これわたしの参考書ではムハンマドっていう「人」に〈思われたこと〉みたい。

    ■9986
    >聖書のマタイ福音書25章なら、飢えた人を見て食べ物を差し上げることはキリストに差し上げることであり、飢えた人を見ても無視するのはキリストを無視することになる。<
    こういうごこの人が言ったのか知れないけど、「キリストに捧げる」?だって。あ〜こういうのムカつく〜。ま、わたしの感情はどうでもいいとして、聖書のマタイ福音書25章からすると、わたしは飢えてる人だからわたしはキリストね。

    pipitさま、わたし『実践理性批判』を聞きたい。












引用返信/返信 削除キー/
■9992 / inTopicNo.19)  Re[57]: マジモンさんへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/12/12(Sat) 21:03:47)
    No9987に返信(pipitさんの記事)
    > わたしは、ぬるい世界が好きなのです。
    >
    > みんなニコニコで生きることができればいいな、と、思うのです。
    >
    > 現実は甘くないのはなんとなく知っているとこもあるかも。
    >
    > 小学生の時、ホームレスみたいな方に胸を触られ、家でめちゃめちゃシャワーで洗いました。
    >
    > その大昔の記憶があるから、食べ物差し上げる時も、危なそうな所には近寄らないし、
    > 執着も持たれないように、早々と立ち去るようにしていました。
    >
    >
    > この世界の成り立ちが、仕組みじたいが
    >
    > 残酷なものにわたしには思えています


    なるほど、残酷なものを考えすぎているね。
    楽しい事を考えればいいんじゃないですか?

    私は悪の研究をして、悪人の中身は分かるけど、
    善人は悪人は理解できないからね。
    ならば、楽しい事から世界を見ていけばいいんじゃないかな〜と思うな。

    画像:解放
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引用返信/返信 削除キー/
■9987 / inTopicNo.20)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/12/12(Sat) 20:04:29)
    わたしは、ぬるい世界が好きなのです。

    みんなニコニコで生きることができればいいな、と、思うのです。

    現実は甘くないのはなんとなく知っているとこもあるかも。

    小学生の時、ホームレスみたいな方に胸を触られ、家でめちゃめちゃシャワーで洗いました。

    その大昔の記憶があるから、食べ物差し上げる時も、危なそうな所には近寄らないし、
    執着も持たれないように、早々と立ち去るようにしていました。


    この世界の成り立ちが、仕組みじたいが

    残酷なものにわたしには思えています



引用返信/返信 削除キー/
■9986 / inTopicNo.21)  飢えた人を見たら食べ物を差し上げる
□投稿者/ knowing itself -(2020/12/12(Sat) 19:56:43)
    聖書のマタイ福音書25章なら、飢えた人を見て食べ物を差し上げることはキリストに差し上げることであり、飢えた人を見ても無視するのはキリストを無視することになる。永遠の命に入るかどうかをこれが決めることになります。脳内でキリストを崇拝してもそんなことに意味はないよって言っているのです。仏教とも共通するところ大。


引用返信/返信 削除キー/
■9984 / inTopicNo.22)  Re[55]: コロナで・・・
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/12/12(Sat) 19:24:13)
    チビの頃のマジモンは生徒会長と暴走族という二足の草鞋で過ごしていたが、
    学生になったら、一気にインテリ集団になったんですよ。
    私の学生の頃のボランティアは、
    小児癌のボランティアと海に潜って掃除などをしていました。
    アルバイトは不登校生専門の家庭教師です。

    youtubeでもドヤ街巡りしているyoutuberもいますね。
    つまり、私らインテリ集団は、悪趣味にも浮浪者の世界に興味を持ったわけです。

    そのインテリ集団でも、飛びぬけて行動するのが、私で、
    仲間とこんな賭けをしたのです。

    「 一週間、ホームレスと過ごせたら、5万円 」

    実際に東京まで出向き、実行に移したんですが、
    その賭けは、私の負けでしたね。

    ホームレスと一週間過ごせないのですよ。
    理由は、体臭がきついから。


    そこで私は思うんですが、Pipitさんは、そういう世界を知って、
    貧困に対する慈悲の心があるのかな?と思うんですよね。

    この後にも私は、ドヤ街に繰り出して、勉強したんですが、
    ハッキリ言って、貧困にかんしては本人のせいが殆どですよ。
    ちなみに、おにぎりが食べたくて餓死した方の遺体写真をみた事がありますが、
    これは本当に事実なのでしょうか?

    画像:貧困
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引用返信/返信 削除キー/
■9976 / inTopicNo.23)  コロナで・・・
□投稿者/ みのり -(2020/12/12(Sat) 12:00:45)
    お邪魔します。

    コロナ不況もあり、若い世代でもホームレスにならざるをえない人が出ているようです。

    個人の生き方の問題点から生活が破綻してしまう例というのもたしかにあるとは思うのですが、それだけでは済まされないものがあると思っています。

    働きたい人が普通に働けて、普通に暮らしていける社会。
    それが何かしら正当な理由で不可能な人でも、なんとか暮らしていける社会。
    飢えたりする人が一人もいない社会になるといいなと・・・私の願いはこれだけ、といってもいいぐらいに思っています。
    親戚の中にも行方不明になってしまった人というのもいて、心配しています。


     マジモンさんは、もしかしたらですが・・・
    一人一人がしっかりとした意識で生きなければならないのだ、という思いを表現されたのかもしれないですね。
    それも一理あるとは思うのですが・・・、何分それだけではすまない構造的な問題というのもありますね。
引用返信/返信 削除キー/
■9974 / inTopicNo.24)  慈悲の瞑想
□投稿者/ knowing itself -(2020/12/12(Sat) 11:33:00)
    こんにちは。

    慈悲の瞑想の対象、範囲をできるだけ広げるというのが、慈悲の瞑想でしょう。

    忘れた方がいいという発想はそこにはないでしょう。
引用返信/返信 削除キー/

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