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■9091 / inTopicNo.97)  Re[4]: 二種の不二
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/15(Sun) 19:52:08)
    雑談ね。
    唯一無二の存在は私の身体。
    っていうどうかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■9059 / inTopicNo.98)  二種の不二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/15(Sun) 08:44:25)
    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    今、レス交換しているテーマについては永井哲学(永井さんがどのように考えているか)とパニチェの探究しているテーマからすればどのようなどのような返信になるかの区別が分かりにくくなると思うので、この点を考慮しつつ返信してみます。

    No9034に返信(knowing itselfさんの記事)

    > >独在論とは<存在>と存在の差異のことであり、その意味で独我ではなく<独在>であるということ
    > >スクリーンや〈私〉が自他不二であるなら、この差異はどこから生じるのか、逆説的に言えばこの差異が直接経験である限りは不二のスクリーンなどありえないのではない?むしろそちらの方が幻想ではないか?とさえ思うのです。

    > <存在>と存在の差異ということでしょうか?

    パニチェはそのように考えています。独我論という名称は「私」と同じく万人にも当てはめることができる存在の独在論性が削げ落ちた用語であり、独在論とは〈私〉と同じく言葉に出したり表記することで必然的に陥る「(永井さんが言うところの)独在と頽落の終わることなき拮抗運動」以前のパニチェにしか当てはまらない存在様相も含んだ用語(私的言語)であると考えています。

    この点については以下の永井さんの定義からしても同じような(厳密には同じでありえないのが本質ですが)用語であると判断しています。

    『そもそもの「私」とは誰なのか。誰もがそれでありうるのではないか。この反問を受け入れた瞬間、独我論の意味は変質するのである。世上「独我論」あるいは「独我論的」と呼び慣わされている「論」の多くは、実のところは、この本質的な困難の前で挫折しこの変質を受け入れたその残骸にすぎない。……中略……彼らは、自己と他者の非対称のうちにある根本的な問題を感じたはずなのだが、その問題感覚を複数の主体が並立する通常の世界像の中に強引に位置づけ、その中で通用する言葉で表現しようとしたとき、問題そのものの変質が起こったのである。残骸としての独我論の主張者たちがそれを問題にしようとして挫折した当のものを、独在性と呼ぶことにしよう(永井均著「〈私〉の存在の比類なさ」P66〜P67からの引用)』


    > 永井さんは、世界を在らしめるという問題と超越論的世界構成の問題は別だと言っていますが、世界を在らしめるというのが独在性ですね。

    厳密に言えば世界を〈私〉の世界と在らしめているのは独在性であり、この図式が超越論的世界構成だとパニチェは思いますし、この点については永井さんも同様であるとパニチェは考えています。

    > 直接経験がこのスクリーンだけであって、他には事実としてもスクリーンがありえないのであれば、まさに不二そのものだと思います。スクリーンの外には文字通り何も存在しえない、写っているすべてが一枚の不二ではないでしょうか。

    詭弁に聞こえるかもしれないのですが、パニチェが思うに不二には二種類あります。
    ひとつは独在的であるが故の不二、これは〈私〉しか存在しません(他者は存在様相が〈私〉とは異なり、他の物や現象と同類の世界内存在です)。
    もうひとつは〈私〉の独在性の底も抜けた不二、これは〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるもの。
    パニチェは前者から後者へ跳躍していませんし、ひょっとすれば後者が幻想(ある状態の脳が創出する世界)ではないか?という発想も排除していません。

引用返信/返信 削除キー/
■9034 / inTopicNo.99)  Re[2]: 哲学の雑談 6
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/14(Sat) 13:05:47)
    パニチェさんへ

    >独在論とは<存在>と存在の差異のことであり、その意味で独我ではなく<独在>であるということ

    >スクリーンや〈私〉が自他不二であるなら、この差異はどこから生じるのか、逆説的に言えばこの差異が直接経験である限りは不二のスクリーンなどありえないのではない?むしろそちらの方が幻想ではないか?とさえ思うのです。

    <存在>と存在の差異ということでしょうか?永井さんは、世界を在らしめるという問題と超越論的世界構成の問題は別だと言っていますが、世界を在らしめるというのが独在性ですね。直接経験がこのスクリーンだけであって、他には事実としてもスクリーンがありえないのであれば、まさに不二そのものだと思います。スクリーンの外には文字通り何も存在しえない、写っているすべてが一枚の不二ではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■8953 / inTopicNo.100)  Re[1]: 哲学の雑談 6
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/11(Wed) 21:37:09)
    お邪魔〜

    ここの5の■8949、
    >ところが直接的経験はどこまでいってもエポケーの対象とはならない。<

    あら!パニチェさま、なんかちょっと見なおしちゃった。
引用返信/返信 削除キー/
■8857 / inTopicNo.101)  哲学の雑談 6
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/08(Sun) 21:38:26)
    トピ主:knowing itselfさん

    引き続きよろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/

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