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■9165 / inTopicNo.85)  Re[5]: 二種の不二
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/17(Tue) 21:37:28)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No9122に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」は永井哲学を要約するフレーズですね。言語ゲームと語り得なさについての関係をも表現していると思います。

    同意です。

    > >>直接経験がこのスクリーンだけであって、他には事実としてもスクリーンがありえないのであれば、まさに不二そのものだと思います。スクリーンの外には文字通り何も存在しえない、写っているすべてが一枚の不二ではないでしょうか。

    >>詭弁に聞こえるかもしれないのですが、パニチェが思うに不二には二種類あります。
    >>ひとつは独在的であるが故の不二、これは〈私〉しか存在しません(他者は存在様相が〈私〉とは異なり、他の物や現象と同類の世界内存在です)。
    >>もうひとつは〈私〉の独在性の底も抜けた不二、これは〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるもの。
    >>パニチェは前者から後者へ跳躍していませんし、ひょっとすれば後者が幻想(ある状態の脳が創出する世界)ではないか?という発想も排除していません。

    > ここはパニチェさんと永井さんは違うかもしれません。永井さんは〈私〉の他に、その底にさらに別の不二を持ちださないように思います。山下さんも二つに分けないのではないでしょうか。

    ここが重要な点なんですね。伝わるかどうか多少不安ですが。。。
    パニチェも永井さんと同じく、〈私〉の他に、その底にさらに別の不二は持ち出しません。
    にもかかわらず、何故、永井さんが良道さんの言うところの不二と同義になるのか、それが分かりません。

    良道さんも二つには分けませんが、あくまで後者、つまり〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるものだとパニチェは判断しています。
    この意味において不二には二種あるということをパニチェは先のレスで述べており、〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となる不二にはパニチェは同意できないということです。

    何故なら〈私〉と〈私〉以外の世界や他者とは同列になりえず、世界や他者が〈私〉に統合され不二となるということです。
    要するに〈私〉は無我や無自性となりません。

    > 幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。

    前者の不二が幻想であれば〈私〉も幻想というということになり、全ては泡の如く幻想ということになるでしょうね。

引用返信/返信 削除キー/
■9157 / inTopicNo.86)  全体性はスクリーンにある
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/17(Tue) 16:55:37)
    全体性、分離不可能、一つ性などの性質を持つのはスクリーンです。これらの性質を満たすのはスクリーンであって、映画にそれを求めることはできないというのが、ラマナマハルシやルパートスパイラ、ムージなどです。
引用返信/返信 削除キー/
■9156 / inTopicNo.87)  Re[9]: 映画も本来一つ?
□投稿者/ みのり -(2020/11/17(Tue) 16:36:34)
    2020/11/17(Tue) 16:50:47 編集(投稿者)

    No9151に返信(knowing itselfさんの記事)

    knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    >>本来ただ一つだけあるスクリーンに、ぶっ続きの分離なき映画(たった一つの映画)が上映されているのだけれど、それが世界中の人間(の主観)を通じることによって世界中の人間の数だけのストーリーとして上映されているのが世界、と言えるのだろう、と考えています。


    > これはちょっと違うと思います。ルパートスパイラが使う意味でのスクリーンというのは時間がないことを本質とします。カントの物自体の比喩としてスクリーンや第五図を使う、内山興正や永井さんの系譜でも同じでしょう。時間がないというのは、過去→現在→未来という直線に乗らない、永遠の現在ともいうべき瞬間こそがスクリーンなのだということです。

    ええ。スクリーンには「時間」がない、というのは私も同意です。

    > 時間がないということは、時間と密接な関係にある空間認識とも異質、時間と空間の枠組みの中での運動する何かと同一化することもない。
    >
    > 70億人の人間は、生活の時空間を共有する程度に応じて、ある範囲までは類似した映画をみるにしても、個人ごとにやはり違う映画だと思います。

    もちろんそれはそうです。この部分に関して、私の書いたことも同じ意味です。

    >ほとんどの人間は生活の時空間が離れ過ぎています。現在の地球に生きる人間においてすらそうですから、人類の歴史にスパンで考えると、「たった一つの映画」はありえないとしか思えませんね。

    その、個人ごとに違うストーリー、映画も、全体性というところで一つの映画としてまとめられると考える、という私なりの観方を書いたので、ルパートスパイラの言っていることと同一というのではそもそもないと思っています。

    つまり、9149の私の投稿というのは、ルパートスパイラはこう言っているというのを書いたのではなく、私が思っているものを独自に書いたものです。
    (ルパートスパイラの言っているものについては把握している上で。)
    ここをはっきりと書けばよかったですね。失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■9152 / inTopicNo.88)  Re[9]: 映画も本来一つ?
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/17(Tue) 15:42:28)
    ルパートスパイラの映画は、分離した自己に同一化したとき生まれる現象で、分離した自己の発生以前に客観的な一つの映画があるという意味ではありません。先在する一つといえるのはスクリーンだけです。分離した自己は七十億人ごとに違います。双子でも当然違う。分離した自己が投影するものが映画です。
引用返信/返信 削除キー/
■9151 / inTopicNo.89)  Re[8]: 映画も本来一つ?
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/17(Tue) 15:32:38)
    みのりさんへ

    No9149に返信(みのりさんの記事)
    > 投稿、失礼します。
    >
    > 本来ただ一つだけあるスクリーンに、ぶっ続きの分離なき映画(たった一つの映画)が上映されているのだけれど、それが世界中の人間(の主観)を通じることによって世界中の人間の数だけのストーリーとして上映されているのが世界、と言えるのだろう、と考えています。


    これはちょっと違うと思います。ルパートスパイラが使う意味でのスクリーンというのは時間がないことを本質とします。カントの物自体の比喩としてスクリーンや第五図を使う、内山興正や永井さんの系譜でも同じでしょう。時間がないというのは、過去→現在→未来という直線に乗らない、永遠の現在ともいうべき瞬間こそがスクリーンなのだということです。

    時間がないということは、時間と密接な関係にある空間認識とも異質、時間と空間の枠組みの中での運動する何かと同一化することもない。

    70億人の人間は、生活の時空間を共有する程度に応じて、ある範囲までは類似した映画をみるにしても、個人ごとにやはり違う映画だと思います。ほとんどの人間は生活の時空間が離れ過ぎています。現在の地球に生きる人間においてすらそうですから、人類の歴史にスパンで考えると、「たった一つの映画」はありえないとしか思えませんね。
引用返信/返信 削除キー/
■9149 / inTopicNo.90)  映画も本来一つ?
□投稿者/ みのり -(2020/11/17(Tue) 14:38:27)
    投稿、失礼します。

    本来ただ一つだけあるスクリーンに、ぶっ続きの分離なき映画(たった一つの映画)が上映されているのだけれど、それが世界中の人間(の主観)を通じることによって世界中の人間の数だけのストーリーとして上映されているのが世界、と言えるのだろう、と考えています。

    分離なきたった一つの映画としてみても、一人一人のストーリーとしてみても、いずれにしても「意識(気づき)=スクリーン」を離れては存在しえなく、そういう意味では、スクリーンが基盤だと言えると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■9146 / inTopicNo.91)  ないと考えることが幻想?
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/17(Tue) 06:20:30)
    〈私〉の崩壊、消失、死、不存在などについては、そちらの方が幻想、妄想だとなるのかもしれない。〈私〉のリアルさをこちらから勝手に動かし、否定しようとしているのだから。
引用返信/返信 削除キー/
■9127 / inTopicNo.92)  Re[5]: 二種の不二
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/16(Mon) 21:13:08)
    ■9124 、
    ノーセルフさん、あなた身体あるよね?

    わたし
    >私の「身体」<
    じゃなくて、「私の身体」って言ってる。
    わたしの見方はね
    >身体だけじゃ外との境界がはっきりしない<
    じゃなくて、外との境界にあるのが身体なの。ん〜、「媒介するもの」「媒体」かな?
    外、っていう限り、内があるよね。私の内にあるのが精神って見てる。
    精神っていうの意識って見てもいいけど。

    >この石ころだけが唯一無二の存在ということはないだろうというのと同じ<
    同じじゃないよ。わたしがもし〈その石ころ〉だったら、この石ころ(わたし)だけが唯一無二の存在。わたし(この石ころ)の横にあるいろいろな石ころは、わたしじゃない。色、形、硬さ、違うじゃん。よく見てよ。

    ところで、「石ころ」、これ人類の分類(概念)語よね?

    >私の意識と一体となった私の身体が唯一無二の存在だというのなら、ありうる考え<
    うん、そうね。でもそうすると、わたしにとって問題なのは「私の意識」。
    ところでノーセルフさんの言う「私の意識」ってどんなの?






引用返信/返信 削除キー/
■9124 / inTopicNo.93)  Re[5]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/16(Mon) 20:34:23)
    悪魔ちゃんへ

    No9091に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 雑談ね。
    > 唯一無二の存在は私の身体。
    > っていうどうかしら?

    私の「身体」だけが唯一無二の存在ということはないと思います。あの石ころではなく、この石ころだけが唯一無二の存在ということはないだろうというのと同じ。身体だけじゃ外との境界がはっきりしない。宇宙全体と一つといえるかもしれないし。
    私の意識と一体となった私の身体が唯一無二の存在だというのなら、ありうる考え。

引用返信/返信 削除キー/
■9122 / inTopicNo.94)  Re[4]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/16(Mon) 20:11:04)
    パニチェさんへ

    >><存在>と存在の差異ということでしょうか?
    >
    > パニチェはそのように考えています。独我論という名称は「私」と同じく万人にも当てはめることができる存在の独在論性が削げ落ちた用語であり、独在論とは〈私〉と同じく言葉に出したり表記することで必然的に陥る「(永井さんが言うところの)独在と頽落の終わることなき拮抗運動」以前のパニチェにしか当てはまらない存在様相も含んだ用語(私的言語)であると考えています。
    >
    > この点については以下の永井さんの定義からしても同じような(厳密には同じでありえないのが本質ですが)用語であると判断しています。
    >
    > 『そもそもの「私」とは誰なのか。誰もがそれでありうるのではないか。この反問を受け入れた瞬間、独我論の意味は変質するのである。世上「独我論」あるいは「独我論的」と呼び慣わされている「論」の多くは、実のところは、この本質的な困難の前で挫折しこの変質を受け入れたその残骸にすぎない。……中略……彼らは、自己と他者の非対称のうちにある根本的な問題を感じたはずなのだが、その問題感覚を複数の主体が並立する通常の世界像の中に強引に位置づけ、その中で通用する言葉で表現しようとしたとき、問題そのものの変質が起こったのである。残骸としての独我論の主張者たちがそれを問題にしようとして挫折した当のものを、独在性と呼ぶことにしよう(永井均著「〈私〉の存在の比類なさ」P66〜P67からの引用)』

    「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」は永井哲学を要約するフレーズですね。言語ゲームと語り得なさについての関係をも表現していると思います。


    >>直接経験がこのスクリーンだけであって、他には事実としてもスクリーンがありえないのであれば、まさに不二そのものだと思います。スクリーンの外には文字通り何も存在しえない、写っているすべてが一枚の不二ではないでしょうか。
    >
    > 詭弁に聞こえるかもしれないのですが、パニチェが思うに不二には二種類あります。
    > ひとつは独在的であるが故の不二、これは〈私〉しか存在しません(他者は存在様相が〈私〉とは異なり、他の物や現象と同類の世界内存在です)。
    > もうひとつは〈私〉の独在性の底も抜けた不二、これは〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるもの。
    > パニチェは前者から後者へ跳躍していませんし、ひょっとすれば後者が幻想(ある状態の脳が創出する世界)ではないか?という発想も排除していません。

    ここはパニチェさんと永井さんは違うかもしれません。永井さんは〈私〉の他に、その底にさらに別の不二を持ちださないように思います。山下さんも二つに分けないのではないでしょうか。


    幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■9094 / inTopicNo.95)  Re[6]: 唯一無二
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/15(Sun) 21:10:52)
    「イコール」で見てるじゃないよ。
    >同じものなどどこにもない<
    を強調したいんのかもしれないけど、
    諸行無常を強調したいんのかもしれないけど、

    パニチェさんのいう〈私〉ってなあに?

    >リアルなこの世界にあるもの全ては唯一無二やと思う。<
    「リアルなこの世界にあるもの(存在するもの)全て」に私の解釈を広げるなら、
    唯一無二の存在は私の身体じゃないの?
引用返信/返信 削除キー/
■9093 / inTopicNo.96)  唯一無二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/15(Sun) 20:30:03)
    イコールで結べるような同じものがあるのは数学的な世界だけとちゃうかな。

    リアルなこの世界にあるもの全ては唯一無二やと思う。

    同じものなどどこにもない。
引用返信/返信 削除キー/

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