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■9251 / inTopicNo.73)  Re[7]: 二種の不二
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/20(Fri) 21:37:27)
    2020/11/21(Sat) 07:39:01 編集(投稿者)

    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No9178に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >>ここはパニチェさんと永井さんは違うかもしれません。永井さんは〈私〉の他に、その底にさらに別の不二を持ちださないように思います。山下さんも二つに分けないのではないでしょうか。

    >>ここが重要な点なんですね。伝わるかどうか多少不安ですが。。。
    >>パニチェも永井さんと同じく、〈私〉の他に、その底にさらに別の不二は持ち出しません。
    >>にもかかわらず、何故、永井さんが良道さんの言うところの不二と同義になるのか、それが分かりません。

    >>良道さんも二つには分けませんが、あくまで後者、つまり〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるものだとパニチェは判断しています。
    >>この意味において不二には二種あるということをパニチェは先のレスで述べており、〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となる不二にはパニチェは同意できないということです。

    > 永井さんの場合、〈私〉と他者や物や現象がひとつの全体性として唯一無二の不二とするというよりは、〈私〉の中に他者や物や現象が開闢されていくと考えているのではないでしょうか。〈私〉の外に他者や物や現象があるわけではないという意味では、不二とみなすこともできるかもしれません。「世界の独在論的存在構造」p290ー291にも、「そう捉えれば、「梵我一如」は単純で自明な事実にすぎないことになる」といった旨の記述によって、この辺りに少し触れていますね。

    さすがです。私もこのページはほぼ黄色のマーカーで覆い尽くしています。ここ重要な箇所なので以下に引用します。

    ****** 以下、「世界の独在論的存在構造」より引用 ******

    〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることができないのである。だからじつは、ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。
    そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけで理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないのである。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。

    ******************* 引用終わり *******************

    パニチェは上記の「〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである」&「ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。そして、これが「真我」の真の意味であろう。」には違和感がありますが、knowing itselfさんはないですか?

    さらに〈私〉つまりアートマンが世界と合一することはあるがままの事実であると思いますが、これが所謂梵我一如や密教の汎神論的な宇宙観と同義であることにも違和感があります。
    理由は今回の返信では省略しますが、knowing itselfさんはここらあたりはひっかかりとかはないですか?

    > 良道さんの場合、第五図の私というときの私は、他者や物や現象とひとつの全体性に溶け込むというより、世界からの超越性に比重が置かれていると思います。ここは、普通の禅者と違うと個人的には理解しています。

    なるほど。
    パニチェはむしろ永井さん的な〈私〉と世界の合一をもって梵我一如と捉える方が一般的な禅者からは拒絶されそうにも思われます。
    〈私〉と世界は合一しますが、あくまでも〈私〉の底は抜けていません。


    >>何故なら〈私〉と〈私〉以外の世界や他者とは同列になりえず、世界や他者が〈私〉に統合され不二となるということです。
    >>要するに〈私〉は無我や無自性となりません。
    > 先にも述べましたが、〈私〉の中に含まれるという意味では、厳密にはイコールではありませんが、中に入っちゃっているという意味では「ひとつで同じ」ともいえると思います。無我や無自性は中味に当てはまる法理で、中味を包む〈私〉には当てはまらないといえるかもしれません。

    > >>幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。
    >>前者の不二が幻想であれば〈私〉も幻想というということになり、全ては泡の如く幻想ということになるでしょうね。
    > ここは非常に興味深いポイントだと思います。全ては泡の如く幻想になるとしても、その幻想を生み出す力はどこから来たのか?幻想を生み出す力だけはリアルじゃないのか?といった問いも生まれるのではないでしょうか。

    それがパニチェからすれば〈私〉なんですけどね。
    だから逆説的に言えば独在的な不二は幻想ではありえない。
    但し、ここの言説は合わせ鏡のように無限後退しますが。。。

引用返信/返信 削除キー/
■9219 / inTopicNo.74)  Re[12]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/19(Thu) 20:07:18)
    >なぜ70億個別の映画があるかというと、人間の空間における立ち位置が違うからだね。そして彼は何十年という時間のタイムラインを動く。カントのアプリオリな時間と空間の直観形式とはそういう意味でもあると理解している。二人として同じ人生映画を体験する人間はいない。絶対にいないと思う。<
    ある意味同意よ。「映画」は私の生じゃないし、どこの誰べーが作り出したもので映画を作り出した人の生でもない。他者の映像でしかない。

    >人間の空間における立ち位置が違うからだね<
    空間だけじゃなくて時間も関係するんじゃない?

    んで、わたしとななたの「立ち位置が違う」のは何によってだと思うのかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■9218 / inTopicNo.75)  Re[12]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/19(Thu) 19:59:10)
    映画とスクリーンの喩えだと、映画というのは人間がそれによらざるをえない条件・枠組みのことでもある。スクリーンは物自体。物自体は神といってもいい。せ
引用返信/返信 削除キー/
■9216 / inTopicNo.76)  Re[11]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/19(Thu) 19:50:45)
    なぜ70億個別の映画があるかというと、人間の空間における立ち位置が違うからだね。そして彼は何十年という時間のタイムラインを動く。カントのアプリオリな時間と空間の直観形式とはそういう意味でもあると理解している。二人として同じ人生映画を体験する人間はいない。絶対にいないと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■9215 / inTopicNo.77)  Re[10]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/19(Thu) 19:41:36)
    ■9211
    >三大批判は全部読んだよ。<
    knowing itselfのいう「三大批判」っていうのわかんないけど――よかったら三大批判っていう批判ってうのどういう大批判をしてるのか知りたいところだけどわたし興味ないからいいよ^−−ま、いいわ、「全部読んだ」なかで、

    ■9アメリカの大統領選挙じゃないが、人間ごとに映画があってそれらが等価という思想がなければ、ああいう民主政は理解困難ともいえる<
    があなたのいう「三大批判」を読んだうえで、あなたがが言いたいことなのね。

    ねえ、あなたの言う「映画」「思想」「民主政」
    これっって、人間が作り出したものじゃない?




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■9212 / inTopicNo.78)  Re[9]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/19(Thu) 19:18:11)
    No9200に返信(knowing itselfさんの記事)
    > たぶんカントは70億の映画という立場でしょう。認識論的な主観主義への転回とか、西洋哲学の流れが存在論から認識論へとチェンジしたとか言われるゆえん。
    >
    > 東洋的な全体論好みの人は、一つの映画という立場の方が受け入れやすいのでは?

    アメリカの大統領選挙じゃないが、人間ごとに映画があってそれらが等価という思想がなければ、ああいう民主政は理解困難ともいえる。
引用返信/返信 削除キー/
■9211 / inTopicNo.79)  Re[10]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/19(Thu) 19:11:28)
    No9209に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >たぶんカントは70億の映画という立場でしょう。認識論的な主観主義への転回とか、西洋哲学の流れが存在論から認識論へとチェンジしたとか言われるゆえん。<
    >
    > knowing itself さま、ちょっと聞いていい?
    > あなたカントの書いた書物、あるいはその解説書的なもの、どんなの読んでいるの?

    三大批判は全部読んだよ。


引用返信/返信 削除キー/
■9210 / inTopicNo.80)  Re[9]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/19(Thu) 19:10:15)
    カントは、安易に存在についての解答を認めないだろうね。純粋理性批判はそもそもそういう書物だから。
引用返信/返信 削除キー/
■9209 / inTopicNo.81)  Re[9]: 一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/19(Thu) 19:10:07)
    >たぶんカントは70億の映画という立場でしょう。認識論的な主観主義への転回とか、西洋哲学の流れが存在論から認識論へとチェンジしたとか言われるゆえん。<

    knowing itself さま、ちょっと聞いていい?
    あなたカントの書いた書物、あるいはその解説書的なもの、どんなの読んでいるの?

    あ、ついでに現象学的なものにも触れてるみたいだけど、そのへんにも興味あるんだけど。ま、これはいいわ。

引用返信/返信 削除キー/
■9200 / inTopicNo.82)  一つの映画vs70億の映画
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/19(Thu) 12:37:04)
    たぶんカントは70億の映画という立場でしょう。認識論的な主観主義への転回とか、西洋哲学の流れが存在論から認識論へとチェンジしたとか言われるゆえん。

    東洋的な全体論好みの人は、一つの映画という立場の方が受け入れやすいのでは?

    ルパートスパイラが70億の映画が一つのスクリーンに乗せられるなどといっても、むしろ違和感を覚えるのが自然だと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■9180 / inTopicNo.83)  伝統的懐疑論と〈私〉の問題
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/18(Wed) 19:41:16)
    サンガジャパンという雑誌のvol35に永井さんと良道さんの対談がのっています。そこで、伝統的懐疑論と〈私〉の問題について、永井さんがこういうことを言っています。実は世界は全て私が見ている夢ではないかという懐疑論は西洋哲学では普通に問題にされてきた。永井さんの〈私〉からの捉え方は、実は同じものだ。同じものを表から見るか裏から見るか。表から見るか裏から見るかで問題の本質は変わるが、実は同じものだと。その見方を始めて出したのがウィトゲンシュタインだと。
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■9178 / inTopicNo.84)  Re[6]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/18(Wed) 19:25:12)
    パニチェさんへ

    >>ここはパニチェさんと永井さんは違うかもしれません。永井さんは〈私〉の他に、その底にさらに別の不二を持ちださないように思います。山下さんも二つに分けないのではないでしょうか。
    >
    > ここが重要な点なんですね。伝わるかどうか多少不安ですが。。。
    > パニチェも永井さんと同じく、〈私〉の他に、その底にさらに別の不二は持ち出しません。
    > にもかかわらず、何故、永井さんが良道さんの言うところの不二と同義になるのか、それが分かりません。
    >
    > 良道さんも二つには分けませんが、あくまで後者、つまり〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となるものだとパニチェは判断しています。
    > この意味において不二には二種あるということをパニチェは先のレスで述べており、〈私〉も他者も物や現象もひとつの全体性として唯一無二となる不二にはパニチェは同意できないということです。

    永井さんの場合、〈私〉と他者や物や現象がひとつの全体性として唯一無二の不二とするというよりは、〈私〉の中に他者や物や現象が開闢されていくと考えているのではないでしょうか。〈私〉の外に他者や物や現象があるわけではないという意味では、不二とみなすこともできるかもしれません。「世界の独在論的存在構造」p290ー291にも、「そう捉えれば、「梵我一如」は単純で自明な事実にすぎないことになる」といった旨の記述によって、この辺りに少し触れていますね。

    良道さんの場合、第五図の私というときの私は、他者や物や現象とひとつの全体性に溶け込むというより、世界からの超越性に比重が置かれていると思います。ここは、普通の禅者と違うと個人的には理解しています。



    > 何故なら〈私〉と〈私〉以外の世界や他者とは同列になりえず、世界や他者が〈私〉に統合され不二となるということです。
    > 要するに〈私〉は無我や無自性となりません。

    先にも述べましたが、〈私〉の中に含まれるという意味では、厳密にはイコールではありませんが、中に入っちゃっているという意味では「ひとつで同じ」ともいえると思います。無我や無自性は中味に当てはまる法理で、中味を包む〈私〉には当てはまらないといえるかもしれません。

    >>幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。
    >
    > 前者の不二が幻想であれば〈私〉も幻想というということになり、全ては泡の如く幻想ということになるでしょうね。

    ここは非常に興味深いポイントだと思います。全ては泡の如く幻想になるとしても、その幻想を生み出す力はどこから来たのか?幻想を生み出す力だけはリアルじゃないのか?といった問いも生まれるのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/

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