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■8749 / inTopicNo.49)  Re[19]: 哲学の雑談 5
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/06(Fri) 16:39:52)
    ななしさん こんばんは

    No8735に返信(ななしさんの記事)

    > >「子」のポジションに入れてもらうことで、人間は初めて「交流としての神」と交流ができる。これが罪からの完全な自由ですね。
    >
    > 交流ということは、固定せずに、動きのある事、円環運動のようなものでしょうか。

    「交流としての神」とは、「三位一体の交わりとしての神」という意味で使いました。三位一体の交わりとしての神は、時間と空間と物質が生じる以前からの存在なので、厳密にいえば、動きや運動はないと思います。交わりとは愛の交わりで、愛するもの(父)と愛されるもの、その間で分かち合われる愛そのもの(聖霊)が同じ一つの存在だということだと思います。愛するものと愛されるものには完全な互換性もあります。この愛によって、宇宙が創造された。被造物の終極的な完成は、三位一体の愛の交わりに入ることだという考え方になると思います。「子」の復活という出来事の意味もそういうことになるはずです。

    > なにか、生き物というのは、エントロピーに抵抗するために、先回りして破壊し
    > 円環運動しているという「動的平衡」ということですが、精神世界でも同様なのか
    > とても面白いですね。

    物質に比べて、生き物ははるかに三位一体の交わりとしての神に類似するところが多いということだと思います。

    > それと、コロナウイルスが、拡大していますが、ウイルスといえば、インフルエンザのように悪しき病原体というイメージが強いですが、しかし、細菌に善玉があるように、実はウイルスにも、哺乳動物・昆虫・植物などの生存を助けるものや、地球環境を維持する海洋ウイルスなど、いい奴がたくさんいるらしく、また、ウイルスが、実は人の胎児を守っていることが明らかにされ、さらに、ウイルス進化説のように、インフルエンザ等の感染症は、ひょっとしたら人間がさらに進化するために必要なプロセスなのかもしれませんね。

    そうかもしれませんね。

    >>「子」のポジション以外に罪から自由になる道はないという意味では、これ以上ない狭き門ですが、人間であるという唯一点でこのポジションに入れるという意味では、これ以上ない広き門だと思います。
    >
    > うまい、座布団三枚。

    ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■8744 / inTopicNo.50)  Re[19]: 意識の自己限定
□投稿者/ minori -(2020/11/06(Fri) 08:21:54)
    2020/11/06(Fri) 12:08:48 編集(投稿者)

    No8699に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 同じスクリーンに映る70億個の違う映画というところを、ルパートスパイラは違う喩えとして、同じ意識のlocalizationとして個人のマインドがあるともいっています。局所化、場所の限定化、といったところでしょう。狭め方、局所化の仕方が70億種ある。リアリティを感じるのは意識です。その同じ意識が自己を狭めたとき生まれるのがマインドであり、映画です。、

    おはようございます。 コメント失礼します。

    リアリティである意識が、それぞれの人間のところで自己を狭めた時に生まれるのが、映画でありマインドである、ということ。
    自己が狭められることがなかったらスクリーン(意識)そのものになっていて、ストーリーも発生しないということでもありますね。
    このあたりは理解できるのです。

    結局のところ。意識(スクリーン)が宇宙空間をも包摂するものである、というのが自分のところとしては理解できないんです。
    ルパートスパイラはこのように言っているそうですが、これは具体的にどのような理屈によってそうであるのか、というのの説明はなされているのでしょうか。
    このあたりが疑問なのです。

引用返信/返信 削除キー/
■8736 / inTopicNo.51)  Re[22]: 意識の自己限定
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/05(Thu) 20:55:45)
    あ、もうちょっと

    スクリーンって、映されるものでもあると同時に映させるものでもあるよね。
    わたし映画館のスクリーンをイメージしてるけど、別に白い壁にプロジェクターで映してもいよね。このとき白い壁はスクリーンになる。

    >70億種類の第四図の等価性。アメリカの選挙ではないが、民主主義を基礎づけるのはこの等価性でしょう。全構成員の第四図の等価性。哲学者の第四図、宗教家の第四図、科学者の第四図、金持ちの第四図、貧乏人の第四図、アホやバカものの第四図、人格者の第四図、卑劣漢の第四図。…<

    何種類でも、それらがどのような図でもいいけど、この図っていうの、
    >スクリーンに写っている映画内容<
    に見えるのね、わたしのばあい。

    雑談よ


引用返信/返信 削除キー/
■8735 / inTopicNo.52)  Re[18]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/11/05(Thu) 20:48:24)
    knowing itselfさん こんばんは。

    11月に入り、秋も深まり、朝晩めっきり寒くなってきました。

    >>第2に復活は私達の罪を赦すだけではなく、罪から解放することだということ。
    >>
    >>つまり、罪から自由になって神との新たな心の交流が始まるのだと思います。
    >
    >
    > そういうことだと思います。

    >「子」のポジションに入れてもらうことで、人間は初めて「交流としての神」と交流ができる。これが罪からの完全な自由ですね。

    交流ということは、固定せずに、動きのある事、円環運動のようなものでしょうか。

    なにか、生き物というのは、エントロピーに抵抗するために、先回りして破壊し
    円環運動しているという「動的平衡」ということですが、精神世界でも同様なのか
    とても面白いですね。

    それと、コロナウイルスが、拡大していますが、ウイルスといえば、インフルエンザのように悪しき病原体というイメージが強いですが、しかし、細菌に善玉があるように、実はウイルスにも、哺乳動物・昆虫・植物などの生存を助けるものや、地球環境を維持する海洋ウイルスなど、いい奴がたくさんいるらしく、また、ウイルスが、実は人の胎児を守っていることが明らかにされ、さらに、ウイルス進化説のように、インフルエンザ等の感染症は、ひょっとしたら人間がさらに進化するために必要なプロセスなのかもしれませんね。

    > 「子」のポジション以外に罪から自由になる道はないという意味では、これ以上ない狭き門ですが、人間であるという唯一点でこのポジションに入れるという意味では、これ以上ない広き門だと思います。

    うまい、座布団三枚。

    人知を超えていることだけは、確かなようです。
引用返信/返信 削除キー/
■8733 / inTopicNo.53)  Re[21]: 意識の自己限定
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/05(Thu) 20:21:06)
    >スクリーンに写っている映画内容ではなく、スイッチを切って映画が消えてもなおそこにあるスクリーン。スクリーンが「自己」<

    何も映ってないスクリーン(自己)をずーっと見続ける人いたらおもしろいね。


引用返信/返信 削除キー/
■8731 / inTopicNo.54)  Re[18]: 第五図と第四図の関係も同様
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/05(Thu) 19:17:14)
    70億種類の第四図の等価性。アメリカの選挙ではないが、民主主義を基礎づけるのはこの等価性でしょう。全構成員の第四図の等価性。哲学者の第四図、宗教家の第四図、科学者の第四図、金持ちの第四図、貧乏人の第四図、アホやバカものの第四図、人格者の第四図、卑劣漢の第四図。何の違いもない。決して差別してはならない。こういうところはカント的で仏教的ではないかも。



    > >>わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。
    >>
    >>ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。
    >
    > 第五図と第四図の関係もまったく同じだと考えています。同じ一つの第五図の中で、70億種類の第四図が「見られている」。そのうちの1種類の第四図だけがリアルに見える。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■8730 / inTopicNo.55)  Re[20]: 意識の自己限定
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/05(Thu) 19:08:26)
    悪魔ちゃん こんばんは

    No8700に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 「哲学の雑談」っていうことだから、雑談ね。
    >
    > 〔今日の意味における「子ども」が誕生したのは近代からであり、中世のヨーロッパでは子どもは、7歳くらいになると「小さな大人」とみなされ、大人たちと仕事や遊びをともにしながら成長した、と説いた。子どもは親からすぐに離れて、徒弟制度によって親方から仕事を学んで修業した。大人になるための準備をする「子ども」の期間の価値が認められ、その独自の意義が認められるようになったのは近代以後である。〕(『〈子ども〉の誕生』アエリス1914〜1984,フランスの歴史学者)
    >
    > ノーセルフさんにとって「自己」ってどういうの?

    スクリーンに写っている映画内容ではなく、スイッチを切って映画が消えてもなおそこにあるスクリーン。スクリーンが「自己」。
引用返信/返信 削除キー/
■8700 / inTopicNo.56)  Re[19]: 意識の自己限定
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/04(Wed) 20:42:16)
    「哲学の雑談」っていうことだから、雑談ね。

    〔今日の意味における「子ども」が誕生したのは近代からであり、中世のヨーロッパでは子どもは、7歳くらいになると「小さな大人」とみなされ、大人たちと仕事や遊びをともにしながら成長した、と説いた。子どもは親からすぐに離れて、徒弟制度によって親方から仕事を学んで修業した。大人になるための準備をする「子ども」の期間の価値が認められ、その独自の意義が認められるようになったのは近代以後である。〕(『〈子ども〉の誕生』アエリス1914〜1984,フランスの歴史学者)

    ノーセルフさんにとって「自己」ってどういうの?


引用返信/返信 削除キー/
■8699 / inTopicNo.57)  意識の自己限定
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/04(Wed) 19:32:03)
    同じスクリーンに映る70億個の違う映画というところを、ルパートスパイラは違う喩えとして、同じ意識のlocalizationとして個人のマインドがあるともいっています。局所化、場所の限定化、といったところでしょう。狭め方、局所化の仕方が70億種ある。リアリティを感じるのは意識です。その同じ意識が自己を狭めたとき生まれるのがマインドであり、映画です。、
引用返信/返信 削除キー/
■8697 / inTopicNo.58)  Re[17]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/04(Wed) 17:19:50)
    パニチェ三位一体 こんばんは

    No8645に返信(パニチェさんの記事)

    > レス交換のマナーからして喩えに質問するというのはナンセンスかもしれませんがご容赦下さい。

    まったくそういうことはないと思います。喩えに対する質問、疑問など、こちらに可能であれば返答します。

    > 日常的な「私」というのは70億とおり(現在の地球人口)の違う映画内に存在しているかのように認識されるところの対象ですか。

    個人にとっては観ている映画そのものに、「私」(70億ある)と〈私〉の区別はないと思います。ただ、一つのスクリーンが本体でそこだけが真のリアリティーであることを失念して、映画内容だけにのめり込んで反応する程度によって、「私」性の度合いが高まるのではないかと。

    > そしてスクリーンが独在しているということは万人&万物共通(自他不二)という意味でしょうか。

    そうですね。

    > 私秘性というのは映画内になりますか、それとも映画外になりますか。

    映画内ですが、その私秘性を感じるのは映画外のスクリーンでしょう。


    >>>>わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。
    >
    > >>ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。
    >>第五図と第四図の関係もまったく同じだと考えています。同じ一つの第五図の中で、70億種類の第四図が「見られている」。そのうちの1種類の第四図だけがリアルに見える。
    >
    > スクリーンはブラフマンのようなものでしょうか。

    ブラフマンのようなものともいえるし、空といっても、涅槃といっても、あるいは浄土や神でも、最終的には違わないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8695 / inTopicNo.59)  Re[17]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/04(Wed) 16:59:47)
    ななしさん こんばんは

    No8639に返信(ななしさんの記事)

    > 第2に復活は私達の罪を赦すだけではなく、罪から解放することだということ。
    >
    > つまり、罪から自由になって神との新たな心の交流が始まるのだと思います。


    そういうことだと思います。

    神との交流というか、そもそも神は交流においてある、三位一体の神とは「交流として神」のことだと思います。交流という語が見なれないのであれば、コミュニケーションあるいは愛に代えてもいいですが。これこそががキリスト教における神理解のアルファでありオメガではないでしょうか。

    「子」のポジションに入れてもらうことで、人間は初めて「交流としての神」と交流ができる。これが罪からの完全な自由ですね。

    「子」のポジション以外に罪から自由になる道はないという意味では、これ以上ない狭き門ですが、人間であるという唯一点でこのポジションに入れるという意味では、これ以上ない広き門だと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8645 / inTopicNo.60)  Re[16]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/03(Tue) 08:38:46)
    knowing itselfさん、おはようございます。返信ありがとうございます。

    No8605に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>普通に考えれば相容れない独在論的な〈私〉と自他不二(非二元)の折り合いをどうつけてらっしゃいますか?
    >>もしよかったら教えて下さい。

    > 非二元といってもいろいろな立場があって微妙に違うように思います。わたしの理解する非二元は、独在論と相容れないものではないですね。たびたび、スクリーンと映画というワンパターンで曖昧なー喩えで恐縮ですが、この場合、独在するのはスクリーンのみであって、その上の映画はスクリーンが形を変えたもので、映画とスクリーンは同じものです。
    > 映画の中なる存在としては自他は別であっても、スクリーンとしては二つとないわけですから、この意味で自他不二ですね。
    > わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。

    レス交換のマナーからして喩えに質問するというのはナンセンスかもしれませんがご容赦下さい。
    日常的な「私」というのは70億とおり(現在の地球人口)の違う映画内に存在しているかのように認識されるところの対象ですか。
    そしてスクリーンが独在しているということは万人&万物共通(自他不二)という意味でしょうか。
    私秘性というのは映画内になりますか、それとも映画外になりますか。

    > 何を馬鹿なことを考えているのかと思われるかもしれません。もちろん、後で補足するつもりです。

    いえ、全然そうは思っておりません。現時点でのパニチェにとって最も興味深いところです。


    No8618に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ■No8616に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >>わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。

    >>ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。
    > 第五図と第四図の関係もまったく同じだと考えています。同じ一つの第五図の中で、70億種類の第四図が「見られている」。そのうちの1種類の第四図だけがリアルに見える。

    スクリーンはブラフマンのようなものでしょうか。

    No8632に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均。
    > 同書p97から引用。

    > 場所である私と個人(自我)としての私を、絶対無と相対無を、〈私〉と「私」を、一挙に同時に捉えることが可能になったからなのである。

    > 引用終わり

    > この2行だけでも永井節そのものです。この書のなかで、ウィトゲンシュタインと西田幾多郎は正反対の方向から同じような立場に到達したと評しています。同じような立場というのは、もちろん永井さんとも同じということです。もっとも、同じというより、西田幾多郎をダシに永井哲学の要約をしているような書です。

    同意。永井さんの解説書って大概そうですね。^^

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