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■8792 / inTopicNo.25)  Re[19]: ハエ取り壺
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 16:03:34)
    自己レスです。

    > ただ、後期ウィトゲンシュタインは、すべては言語ゲームだといっているようです。ウィトゲンシュタインの生そのものも言語ゲームということではないでしょうか。永井均さんの第五図解釈、第四図解釈は、後期ウィトゲンシュタイン的な「すべては言語ゲームだ」という理解を背景においているとすれば、いろいろと腑に落ちます。

    参考までに、「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫p255から引用します。小見出しは「言語と生の不可分性」

    引用開始

    このように我々は言葉を介して自らの人生を編み上げてゆく。それゆえ人といういきものにおいて、生きることと話すことは不可分であり、我々は話すことによって、話すことにおいて、生きるのである。この意味で言語と生は不可分である。それが、「言語を想像することは生の形を想像することである」(『探究』§19)という言葉の意味するところであろう。人間における言語と生の不可分性という概念こそ『探究』の言語観の核心なのである。この概念を支える「人生という織物の型としての言語ゲーム」こそ、ウィトゲンシュタインの思考の展開において現れた最も進化した言語ゲーム概念だということができる。
引用返信/返信 削除キー/
■8791 / inTopicNo.26)  「ウィトゲンシュタイン入門」永井均
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 14:35:12)
    2020/11/07(Sat) 14:55:49 編集(投稿者)

    No8790に返信(knowing itselfさんの記事)
    > パニチェさんとminoriさんはたしかおもちでしたね?
    > 同書のp28とp216
    > ここに言語ゲームと語りえぬものについての、永井的なウィトゲンシュタイン解釈の一端が表現されていますね。

    はい、持っています。
    永井さんのウィトゲンシュタイン解説を全て理解した上で同意したとは言えませんが。。。

    『後に残るのは、言語ゲームの中で語りえず、それを実践することの内に示されるなどと言えないものである(永井均著「ウィトゲンシュタイン P.216」より)』

    上記は言語ゲームを実践する内に示されるとは言えないものは残るということだと思います。

    そしてP.218の「あとがき」には。。。

    『本書が、またひとつ作り出された手軽な観賞用のウィトゲンシュタインとしてだけではなく(それは避けられないことだが)、ウィトゲンシュタイン的な問題をみずから持つ人へのささやかな「呼びかけ」としても役立ちうることを願わずにはいられない。』

    とあります。

    もしよければ帰宅後に探究の395以降を引用してみます。
引用返信/返信 削除キー/
■8790 / inTopicNo.27)  「ウィトゲンシュタイン入門」永井均
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 14:12:39)
    パニチェさんとminoriさんはたしかおもちでしたね?

    同書のp28とp216

    ここに言語ゲームと語りえぬものについての、永井的なウィトゲンシュタイン解釈の一端が表現されていますね。
引用返信/返信 削除キー/
■8789 / inTopicNo.28)  Re[19]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 14:09:15)
    パニチェさんへ


    No8773に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    > >>日常的な「私」というのは70億とおり(現在の地球人口)の違う映画内に存在しているかのように認識されるところの対象ですか。
    >>個人にとっては観ている映画そのものに、「私」(70億ある)と〈私〉の区別はないと思います。ただ、一つのスクリーンが本体でそこだけが真のリアリティーであることを失念して、映画内容だけにのめり込んで反応する程度によって、「私」性の度合いが高まるのではないかと。
    >
    > 上記の内容から察するにknowing itselfさんは〈私〉とスクリーンは同類ではなく、むしろ〈私〉は映画内容にあるようなイメージでしょうか。

    〈私〉はスクリーン上から映画内容を意識しているその意識それ自体ですから、〈私〉とスクリーンは同類です、というかスクリーンそのものです。


    > 〈私〉は映画とスクリーンの喩えにどう当てはまればいいかパニチェは分かりませんが、〈私〉はパニチェが認識する世界内の存在ではないことは確かです。
    >
    > >>そしてスクリーンが独在しているということは万人&万物共通(自他不二)という意味でしょうか。
    >>そうですね。
    >
    > >>私秘性というのは映画内になりますか、それとも映画外になりますか。
    >>映画内ですが、その私秘性を感じるのは映画外のスクリーンでしょう。
    >
    > ここちょっと分かりません。
    > まず不二であるにもかかわらず何故私秘性なる特性が個々にあるのか。

    スクリーンは不二ですが、映画内容は70億個それぞれ違います。個人はその一つだけしかわからない。この意味で私秘性があっります。映画はスクリーンに上映されて初めてリアルになりますが、私秘性の体感はスクリーン以外のいかなる場所にもありえないという意味です。70億のそれぞれに私秘性をもつ映画がたった一つのスクリーンに上映されるというイメージです。

    > また「私秘性は映画内ですが、その私秘性を感じるのは映画外のスクリーン」といのをもう少し詳しく説明いただけると有難いです。

引用返信/返信 削除キー/
■8787 / inTopicNo.29)  Re[21]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 13:14:59)
    こんにちは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No8786に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、knowing itselfさんこんにちは。

    >>■No8780に返信(knowing itselfさんの記事)

    > >>ただ、後期ウィトゲンシュタインは、すべては言語ゲームだといっているようです。ウィトゲンシュタインの生そのものも言語ゲームということではないでしょうか。永井均さんの第五図解釈、第四図解釈は、後期ウィトゲンシュタイン的な「すべては言語ゲームだ」という理解を背景においているとすれば、いろいろと腑に落ちます。

    >>後期ウィトゲンシュタインは【およそ語りうるものは】すべては言語ゲームだといっているようです、であれば同意です。

    > 私も同意見です。

    > ただ、「生そのもの」もというのは、何を意図しているか分かりませんが、個人的には、チョッと飛躍しているかなあと。(飛躍はいいことなんですけども)

    > やはり、日常会話や生活世界での言葉というものは「言語ゲーム」であり、使用される場所や背景によって意味が違ってくるゲームのルールが変わって行くということが要かなと思います。

    >>そして前期の「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と「7.語りえないことについては沈黙しなければならない」は後期も有効だと思います。

    >>探究の395以降はそのことを示していると思います。

    > さすが、パニチェさんですね。重要ポイントは捉えていらっしゃると思います。

    ありがとうございます。
    ただウィトゲンシュタインに関しては専門家の間でも未だ定まった解釈や評論があるわけではないですからね。
    そういう意味では面白いテーマだとは思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8786 / inTopicNo.30)  Re[20]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ ななし -(2020/11/07(Sat) 13:04:56)
    パニチェさん、knowing itselfさんこんにちは。


    > ■No8780に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    >>ただ、後期ウィトゲンシュタインは、すべては言語ゲームだといっているようです。ウィトゲンシュタインの生そのものも言語ゲームということではないでしょうか。永井均さんの第五図解釈、第四図解釈は、後期ウィトゲンシュタイン的な「すべては言語ゲームだ」という理解を背景においているとすれば、いろいろと腑に落ちます。

    > 後期ウィトゲンシュタインは【およそ語りうるものは】すべては言語ゲームだといっているようです、であれば同意です。

    私も同意見です。

    ただ、「生そのもの」もというのは、何を意図しているか分かりませんが、個人的には、チョッと飛躍しているかなあと。(飛躍はいいことなんですけども)

    やはり、日常会話や生活世界での言葉というものは「言語ゲーム」であり、使用される場所や背景によって意味が違ってくるゲームのルールが変わって行くということが要かなと思います。

    > そして前期の「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と「7.語りえないことについては沈黙しなければならない」は後期も有効だと思います。
    >
    > 探究の395以降はそのことを示していると思います。

    さすが、パニチェさんですね。重要ポイントは捉えていらっしゃると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8784 / inTopicNo.31)  言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 12:03:45)
    横レス御免!^^

    No8780に返信(knowing itselfさんの記事)

    > ただ、後期ウィトゲンシュタインは、すべては言語ゲームだといっているようです。ウィトゲンシュタインの生そのものも言語ゲームということではないでしょうか。永井均さんの第五図解釈、第四図解釈は、後期ウィトゲンシュタイン的な「すべては言語ゲームだ」という理解を背景においているとすれば、いろいろと腑に落ちます。

    後期ウィトゲンシュタインは【およそ語りうるものは】すべては言語ゲームだといっているようです、であれば同意です。

    そして前期の「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と「7.語りえないことについては沈黙しなければならない」は後期も有効だと思います。

    探究の395以降はそのことを示していると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8783 / inTopicNo.32)  Re[26]: 質問
□投稿者/ minori -(2020/11/07(Sat) 11:52:14)
    No8781に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>独我論で「私が存在しなければ何も存在しえない」と言う時の「私」です。
    >>この「私」というのは、身体・思考・感情の部分ではなく、「(その人の)意識」を指すもの、で合っていますか?
    >
    > 独我論にもいろいろな立場、定義があるようで、一概には言えませんが、意識を指すものとする立場は、もちろんあると思います。

    ありがとうございました。^^

    それと、すみません。
    私のトピのほうに、意識(非二元において)という投稿を先ほどし、その中で、非二元で言われる「すべては意識である」というのの根拠について、自分が思うところを書いてみたのですが、あの方向性って合ってますか?
引用返信/返信 削除キー/
■8781 / inTopicNo.33)  Re[25]: 質問
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 11:40:44)
    minoriさんへ

    No8771に返信(minoriさんの記事)
    > 昨日は質問にお答えいただきありがとうございました。
    >
    > knowing itselfさんにレスがたくさん来ている中で、再び申し訳ないのですが、質問させていただきたいことがあります。
    >
    > 独我論で「私が存在しなければ何も存在しえない」と言う時の「私」です。
    > この「私」というのは、身体・思考・感情の部分ではなく、「(その人の)意識」を指すもの、で合っていますか?

    独我論にもいろいろな立場、定義があるようで、一概には言えませんが、意識を指すものとする立場は、もちろんあると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8780 / inTopicNo.34)  Re[18]: ハエ取り壺
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 11:37:31)
    ななしさんへ。

    No8758に返信(ななしさんの記事)
    > knowing itselfさん横失礼します。
    >
    >>ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。
    >
    > 「哲学におけるあなたの目的はなにか。―ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。」
    >
    > ここでいう「ハエ」とはつまり「哲学者」のことなのですよね。
    >
    > ウィトゲンシュタインによれば、哲学者は、「心は存在するのか」「観念とは何か」と答えがない問いについて考え、ハエのように、もがき苦しむと見ていたようです。
    >
    > でも、実は、それらは、問いの立て方が悪かっただけで、哲学者に対して言葉が使われたり、話される場所や背景バックグラウンドによつて意味が変わっていく「言語ゲーム」の特性によって理解すべきだということを示したものと思われます。

    そういうことだと思います。

    ただ、後期ウィトゲンシュタインは、すべては言語ゲームだといっているようです。ウィトゲンシュタインの生そのものも言語ゲームということではないでしょうか。永井均さんの第五図解釈、第四図解釈は、後期ウィトゲンシュタイン的な「すべては言語ゲームだ」という理解を背景においているとすれば、いろいろと腑に落ちます。
引用返信/返信 削除キー/
■8778 / inTopicNo.35)  Re[21]: 哲学の雑談
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 11:30:19)
    悪魔ちゃんへ。

    No8755に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■8752
    > >第四図だから映画内容ですよ。第五図というのは、この第四図を囲む「外枠」ということだから、スクリーンのような中立性、無色透明性がある。自己というべきは第五図です。第四図と第五図は一体だけど、本体は第五図。映画内容とスクリーンの関係と同じです。<
    >
    > 第四図だろうが第五図だろうが、スクリーンの上にある図(映画内容)が映し出されてるっていうことよね?
    >
    > >自己というべきは第五図です<
    > ん?第五図も映画内容でしょ?

    違います。映画内容に気づいていることに気づく。映画内容にもスクリーンにも同時に気づいているけれど、本質的なのは映画内容から独立しているスクリーンに気づいていること。これが第五図。第四図はスクリーンへの気づきなしに映画内容だけに気づいている状態。

    > ノーセルフさまの言う「自己」っていうの、映画内容じゃなくて「スクリーン」じゃなかったっけ?(■8730)

引用返信/返信 削除キー/
■8775 / inTopicNo.36)  意識が宇宙にリアリティーを与える。
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 09:41:50)
    2020/11/07(Sat) 11:10:57 編集(投稿者)

    横レス失礼します。

    No8774に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 一つの意識の局所化として個人の世界が展開されています。考えうる70億通りの世界。それぞれの世界において、物質からリアリティーを与えられている、その最大のものである宇宙からリアリティーを与えられていることは、誰も体験できませんね。原理的に体験不能?
    > リアリティーは意識が自ら体験するしかなく、意識で始まって意識で終わります。

    個々の脳が全体としては脳細胞のようなものであって互いに連関しつつ宇宙大の意識体のようなものを形成していても不思議ではないですね。
    意識の根源にロジャーペンローズが指摘するように非局所的長距離相関(量子的効果である絡み合い)みたいな特性があるとすれば。。。

    > 一つの意識のリアリティーを70億通りの世界の中で体感する個人が、間主観的に対象や物質についての知を共有・発展させることは可能ですが、それをもって、宇宙なる物質存在からリアリティーを与えられているとみなすことは、仮説の域を超えることはないでしょう。

    〈私〉は唯物論的には記述不能だと思います。
    何故なら再現性や自然の斉一性が〈私〉にはあてはまりませんから。
引用返信/返信 削除キー/

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