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■8380 / inTopicNo.73)  Re[12]: たーぼーさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/10/26(Mon) 07:39:12)
    2020/10/26(Mon) 11:23:49 編集(投稿者)


    No8372に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    > しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
    >  これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。

    > だから上記がこれなんですよ。↓

    > これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。
    >この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。
    >阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。
    >
    > Minoriさんが言ってたのは普通の禅宗的なのは、自己を無にするでしょ?
    > つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。
    > この包むようにっていうのは、難しいんだけど、目の前の客観を包括的に捉えるっていうか、全体として捉えてそこに意味を見いだすみたいな感じと思います。
    > その意味が内側の気づきと一致するんです。


    引用の文章については、非二元の「気づき」と同じようなことを言っている、というのは
    knowing itselfさんに説明していただいて理解できました。

    たーぼーさんの解釈そのままが、正確なものなのかどうかについては、私には判断しかねます。
    ただ、こちらからの質問する態度で、失礼だった点についてはお詫びします。
    申し訳ありませんでした。

    > つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。

    「自分を絶対視する」という根拠は、これになるのですか? ↑

    そもそも、「自分を絶対視」というのはおかしいでしょう。
    そこは、たーぼーさんの勘違いだと思いますよ。

    たーぼーさん自身を絶対視するのではなく、たーぼーさん自身については「空」であって、絶対視されるものは、たーぼーさんの世界観でいうなら阿弥陀仏でしょう。
    それが、「仏の側から行われる」ですよ。

引用返信/返信 削除キー/
■8379 / inTopicNo.74)  気づきは主客を包摂する
□投稿者/ minori -(2020/10/26(Mon) 07:19:51)
    No8377に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ルパートスパイラのいう「気づき」は、内側から外に向かう小さなものではない。宇宙のすべてが「気づき」の中に生まれては消えていく。主客図式の源泉、主客を包み込むものが「気づき」。

    knowing itselfさん、おはようございます。

    宇宙のすべてが「気づき」の中に生まれては消えていく。主客図式の源泉、主客を包み込むものが「気づき」。

    ↑ これについては、非二元においてそうであることは理解しています。
      存在するということが=「気づき」である、ということ。
      だから、宇宙をも包摂するのが「気づき」であり、「気づき」の中に
      宇宙のすべてが生まれては消えていく。

      あの西田哲学の文章は、これと同じような内容を言っている、ということにな
      のですね。
      
      あれだけ読むと難しすぎてよく分かりませんでした。 


引用返信/返信 削除キー/
■8378 / inTopicNo.75)  第四図VS第五図に戻る
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/26(Mon) 07:06:16)
    >しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
    > これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。

    ようするに西田幾多郎は第四図と第五図の関係について語っているのですよ。主観というのは、第四図の主観ではない。結局は永井、山下、藤田の鼎談に行き着くのです
引用返信/返信 削除キー/
■8377 / inTopicNo.76)  気づきは主客を包摂する
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/26(Mon) 06:59:29)
    ルパートスパイラのいう「気づき」は、内側から外に向かう小さなものではない。宇宙のすべてが「気づき」の中に生まれては消えていく。主客図式の源泉、主客を包み込むものが「気づき」

引用返信/返信 削除キー/
■8376 / inTopicNo.77)  Re[12]: たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/26(Mon) 06:55:14)
    おはようございます。横レス失礼します。


    No8372に返信(たーぼーさんの記事)
    > しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
    >  これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。

    ↑ここだけとれば、たびたび紹介したルパートスパイラの言わんとすることと、ほほ同じです。


    > だから上記がこれなんですよ。↓
    >
    > これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。
    >>この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。
    >>阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。
    >
    > Minoriさんが言ってたのは普通の禅宗的なのは、自己を無にするでしょ?
    > つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。
    > この包むようにっていうのは、難しいんだけど、目の前の客観を包括的に捉えるっていうか、全体として捉えてそこに意味を見いだすみたいな感じと思います。
    > その意味が内側の気づきと一致するんです。
    >
    >
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■8375 / inTopicNo.78)  Re[12]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/26(Mon) 02:21:56)
    No8372に返信(たーぼーさんの記事)
    > しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
    >  これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。
    >
    >
    > だから上記がこれなんですよ。↓
    >
    > これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。
    >>この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。
    >>阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。
    >
    > Minoriさんが言ってたのは普通の禅宗的なのは、自己を無にするでしょ?
    > つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。
    > この包むようにっていうのは、難しいんだけど、目の前の客観を包括的に捉えるっていうか、全体として捉えてそこに意味を見いだすみたいな感じと思います。
    > その意味が内側の気づきと一致するんです。
    >
    >
    付け加えると自分から探しに行ってはダメなんです。
    乞食になってはダメです。キョロキョロ探してはダメです。
    向こうから一瞥があれば、それに対してはお辞儀して、決して乞食になってはダメです。
引用返信/返信 削除キー/
■8374 / inTopicNo.79)  Re[13]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/26(Mon) 01:48:25)
    そういうこと ↑ ではなくて、以下の引用された文章内容にそのまま沿った具体的説明(何が書かれているかの具体的説明)が出来るのか、否かです。

    わざと誤魔化してるのか、思い込んでるのか、私には判断しかねますけどね。
    自分ではどちらなのか分かるのでしょうか。

    終わっていただいてかまいませんよ。


    人に聞くのにちょっともう少し書き方何とかなりませんか?
    何かいつも挑発的なんだよなぁ。
    貴方は私に聞いているんだからね。
    寝る

引用返信/返信 削除キー/
■8373 / inTopicNo.80)  Re[12]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/26(Mon) 01:44:31)
    knowing itselfさん、もっと上手く説明出来たらよろしく。
    寝る
引用返信/返信 削除キー/
■8372 / inTopicNo.81)  Re[11]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/26(Mon) 01:42:01)
    しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
     これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。


    だから上記がこれなんですよ。↓

    これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。
    > この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。
    > 阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。

    Minoriさんが言ってたのは普通の禅宗的なのは、自己を無にするでしょ?
    つまり普通のは客観が主になるけど、逆で主観を主にするんです。
    この包むようにっていうのは、難しいんだけど、目の前の客観を包括的に捉えるっていうか、全体として捉えてそこに意味を見いだすみたいな感じと思います。
    その意味が内側の気づきと一致するんです。




引用返信/返信 削除キー/
■8371 / inTopicNo.82)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/26(Mon) 00:03:42)
    No8367に返信(たーぼーさんの記事)

    >>たーぼーさん、レスありがとうございます。
    >>
    >>>>そうだ、これ、迷ったけど書いてみます。
    >>>>
    >>>>たーぼーさんは先日、パニチェさんのトピに何か難しそうな西田哲学みたいな
    >>>>文章を載せてらっしゃいましたね。
    >>>>私はそれ読んでも、言わんとするところが分からなかったので、載せたたーぼー
    >>>>さんなら分かるのだろう、と思い質問したけれど、答えてはもらえなかった
    >>>>ですよね。
    >>>>あれ、ほんとは分からないけど載せてみただけなんじゃないですか?
    >>>>
    >>>>「気づき」が主体だとはっきりと分かり、それが定着すれば、そういう行動は
    >>>>しなくなりますよ。
    >>>>見栄を張らなくなるからです。
    >>>>
    >>>>レスはお気遣いなく。^^
    > >>
    > >>
    > >>あれが阿弥陀の本願なんですよ。
    > >>西田は自分の人生の全半生で黒板と向かい合ってきたから、後半生は黒板を背に立つことが出来たんです。
    > >>
    > >>怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ」
    > >>フリードリヒ・ニーチェ
    > >>
    > >>西田は怪物になってしまったんです。
    > >>
    > >>そう考えると苦悩の人生すら無駄ではなく、意味があると思います。
    > >>私は今は人はどういう道を行こうが最終的には人生の全肯定になってしまうと思ってます。
    > >>ただ全肯定出来るまでに死ななければですが。。。
    > >>
    > >>
    > >>やべ、またニーチェ語録から引用してしまった(汗)
    >>
    >>
    >>阿弥陀仏の本願がどうのもニーチェ語録がどうの ではなく、
    >>あの「引用」の文章そのものについて、あれが何を言わんとしている文章なのか、具体的に説明できるんですか? という問いだったんですけどね。。
    >
    > だから説明してるじゃないですか。私は何も隠し事してないですよ。
    >
    > 引用
    > これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。
    > この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。
    > 阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。

    そういうこと ↑ ではなくて、以下の引用された文章内容にそのまま沿った具体的説明(何が書かれているかの具体的説明)が出来るのか、否かです。

    わざと誤魔化してるのか、思い込んでるのか、私には判断しかねますけどね。
    自分ではどちらなのか分かるのでしょうか。

    終わっていただいてかまいませんよ。


    ・・・・・
    https://1000ya.isis.ne.jp/1086.html
    引用

    それまで西田は主観と客観が分かれる以前の「純粋経験」に哲学の出発点を求めていた。それが『善の研究』である。しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
     これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。

     西田は、何を掴んだのか。まず、主観が客観を包むということを、一般が特殊を包むというふうに判断した。 たとえばコップを認知するばあい、われわれはコップでないものやコップに似たものなどを次々に認知していくなかで、このコップという特殊をガラス製品や日用品といった一般概念のうちに措く(措定する)ようにしているわけである。だからコップをコップとして識別できる。
      ということは、われわれは一般によって特殊を包むなんらかの能力や向きというものをもっているはずなのである。しかもその一般概念にはさまざまなレベルやレイヤーがあって、これを高次にも低次にもすることができる。コップの上には容器が、容器の上には器物が、その上には物質という概念が待っている。アリストテレス以来、この高次の終点にある一般概念はカテゴリーというふうに規定された。
     では、そのように特殊と一般に包摂関係があると見えるのはなぜなのか。「特殊(客観)は一般(主観)に含まれる」というふうに決めたからである。「物質はコップである」と言うより、「コップは物質である」と言ったほうが理解しやすくなると感じたからだ。これはカテゴリーの包摂関係としては便利であろう。けれども、そのようにコップや物質を認識している自分との関係はどうか。そうしたカテゴリー関係が成立するのも、自分がその用語を発するときに区分けしたからであるにちがいない
引用返信/返信 削除キー/
■8367 / inTopicNo.83)  Re[9]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/25(Sun) 22:45:45)
    No8366に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8362に返信(たーぼーさんの記事)
    >
    > たーぼーさん、レスありがとうございます。
    >
    > >>そうだ、これ、迷ったけど書いてみます。
    > >>
    > >>たーぼーさんは先日、パニチェさんのトピに何か難しそうな西田哲学みたいな
    > >>文章を載せてらっしゃいましたね。
    > >>私はそれ読んでも、言わんとするところが分からなかったので、載せたたーぼー
    > >>さんなら分かるのだろう、と思い質問したけれど、答えてはもらえなかった
    > >>ですよね。
    > >>あれ、ほんとは分からないけど載せてみただけなんじゃないですか?
    > >>
    > >>「気づき」が主体だとはっきりと分かり、それが定着すれば、そういう行動は
    > >>しなくなりますよ。
    > >>見栄を張らなくなるからです。
    > >>
    > >>レスはお気遣いなく。^^
    >>
    >>
    >>あれが阿弥陀の本願なんですよ。
    >>西田は自分の人生の全半生で黒板と向かい合ってきたから、後半生は黒板を背に立つことが出来たんです。
    >>
    >>怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ」
    >>フリードリヒ・ニーチェ
    >>
    >>西田は怪物になってしまったんです。
    >>
    >>そう考えると苦悩の人生すら無駄ではなく、意味があると思います。
    >>私は今は人はどういう道を行こうが最終的には人生の全肯定になってしまうと思ってます。
    >>ただ全肯定出来るまでに死ななければですが。。。
    >>
    >>
    >>やべ、またニーチェ語録から引用してしまった(汗)
    >
    >
    > 阿弥陀仏の本願がどうのもニーチェ語録がどうの ではなく、
    > あの「引用」の文章そのものについて、あれが何を言わんとしている文章なのか、具体的に説明できるんですか? という問いだったんですけどね。。

    だから説明してるじゃないですか。私は何も隠し事してないですよ。

    引用
    これが阿弥陀の本願に繋がってくる大事なポイントだと思います。
    この場合の気づいているというのは、自己の内に気づいているという意味だと思うんですが、阿弥陀の本願は外にも気づくんです。
    阿弥陀の本願の流れに上手く乗れると、神の書いている脚本が分かるような気分になります。


    > いつも気づいているということは、ぜひ、しばらくは努力の上、続けてみてくださいね。
    > 価値はありますから。^^
引用返信/返信 削除キー/
■8366 / inTopicNo.84)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/25(Sun) 22:25:15)
    No8362に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >>そうだ、これ、迷ったけど書いてみます。
    >>
    >>たーぼーさんは先日、パニチェさんのトピに何か難しそうな西田哲学みたいな
    >>文章を載せてらっしゃいましたね。
    >>私はそれ読んでも、言わんとするところが分からなかったので、載せたたーぼー
    >>さんなら分かるのだろう、と思い質問したけれど、答えてはもらえなかった
    >>ですよね。
    >>あれ、ほんとは分からないけど載せてみただけなんじゃないですか?
    >>
    >>「気づき」が主体だとはっきりと分かり、それが定着すれば、そういう行動は
    >>しなくなりますよ。
    >>見栄を張らなくなるからです。
    >>
    >>レスはお気遣いなく。^^
    >
    >
    > あれが阿弥陀の本願なんですよ。
    > 西田は自分の人生の全半生で黒板と向かい合ってきたから、後半生は黒板を背に立つことが出来たんです。
    >
    > 怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ」
    > フリードリヒ・ニーチェ
    >
    > 西田は怪物になってしまったんです。
    >
    > そう考えると苦悩の人生すら無駄ではなく、意味があると思います。
    > 私は今は人はどういう道を行こうが最終的には人生の全肯定になってしまうと思ってます。
    > ただ全肯定出来るまでに死ななければですが。。。
    >
    >
    > やべ、またニーチェ語録から引用してしまった(汗)


    阿弥陀仏の本願がどうのもニーチェ語録がどうの ではなく、
    あの「引用」の文章そのものについて、あれが何を言わんとしている文章なのか、具体的に説明できるんですか? という問いだったんですけどね。。

    いつも気づいているということは、ぜひ、しばらくは努力の上、続けてみてくださいね。
    価値はありますから。^^
引用返信/返信 削除キー/

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