| ■No8410に返信(たーぼーさんの記事)
>>>>ルパートスパイラは受肉の意味もさすがによくわかっているようです。 >>>>すごい洞察力だとあらためて感心します。 > >> > >> > >>おはようございます。 > >> > >>「気づき」が受肉したものが私たち人間であるともいえる、というようなことでしょうか。 >> >>ルパートスパイラの「気づき」は、本人がいうように、キリスト教文化圏ではGodに当たります。寸分も違わず同じだと理解しているはずです。 >> >>キリスト教の受肉とは、三位一体の神である子が100パーセント我々と同じ人間として受胎し、誕生して生育し、最後は受難を経て十字架にかけられて死んだ。このことをいいます。 > > おはようございます。 > だからこれが大死一番絶後再臨だと思いますよ。 > 精進し続けてダルマになりきったところで、自意識が死ぬ。
禅の大死一番絶後再蘇とキリスト教の受肉の違いもみないといけませんね。キリストには煩悩、自我、自意識というものは無いんです。生まれた瞬間から死ぬまで皆無。精進や自力で無くすとか殺すのではない。自我がないのに受難を経て十字架につけられるというのが最大のポイント。
十字架につけられて自我が死ぬのではなく、そもそも始めから自我が100パーセントまったくないのに十字架の上で人間としての痛みや苦しみ、絶望を体験し尽くした。
> 内山図の第六図終了。 > そこからは思考だけですよ。
最終的には思考はなくなるんです。俳優と芝居の役柄の喩えの代わりに、裸の人体と衣服の関係にしましょうか。思考は衣服です。思考=衣服。衣服は人体を覆うためにあります。衣服を着たときの体感が思考です。衣服自体に生命があるわけではありません。最後の最後は裸の人体だけです。衣服はいずれ脱ぎ捨てられ廃棄されるしかない。
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