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■8609 / inTopicNo.85)  Re[11]: 認識と誤謬
  
□投稿者/ ななし -(2020/11/01(Sun) 15:03:52)
    パニチェさん、返信のお礼を述べずにすみませんでした。

    ニーチェは、人間というものが生きているものだということを
    ホント考えさせてくれますね。
引用返信/返信 削除キー/
■8608 / inTopicNo.86)  Re[10]: 認識と誤謬
□投稿者/ ななし -(2020/11/01(Sun) 15:00:47)
    > 人間の認識には誤謬や錯誤が伴いますが、それが創造(生成)の原動力となる。
    > 認識が絶対的な認知であれば、そこで意味や価値や目的は固定化、普遍化されます。
    > つまり誤謬や錯誤は果てしなき解釈によって無限の可能性を示すもので、世界は無限の解釈を内に含む魅力的なかつ好奇心の帆を上げて船出するに相応しい大海原になるというような発想です。
    >
    > 万人がそれぞれの生や世界の創造者であり、それが人として生まれた特権でもあるというようなことへの賛歌です。
    > これを委縮させ、画一化し、家畜(畜群)のような没個性を強いるキリスト教的善悪二元論道徳を破壊(否定)しました。

    まさに、ハイデガーの現存在やガダマーの地平の融合の解釈学のように実存的な
    解釈は、対象や他者との会話、循環の無限運動のように汲めども尽きぬもので、
    ニーチェも、生きることは、固定的な意味の解釈ではない、自分が他者のテクストから働きかけられて、常に脱自し超越していく永遠回帰な無限運動だと見ていたのかもしれませんね。


    >
引用返信/返信 削除キー/
■8596 / inTopicNo.87)  迦楼羅炎的慈悲
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/01(Sun) 09:55:15)
    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No8593に返信(minoriさんの記事)

    > >>あくまで、第四図的世界観だけではなんか違う、と思う人が第五図的世界観を知り、慈悲と呼ばれるものを身に着けるようになる、というのはあるとは思います。
    > >>それは、もともとその人にくっついていた余計なものが削ぎ落された結果なのだろうな、と思うんですね。

    余計なものとは我(我の強さであるところの我)みたいなものですか、つまり「私」。

    > 非二元の「気づき」ということで言えば、「私」というのは「気づき」に経験として現れるものであって「私」は主体ではないんですね。

    「私」が主体ではないということは同意できます。

    > 経験として現れるものという意味では、他者と面と向かい話をするような時を例えれば、他者というのも気づきに現れる(経験である)となります。
    > 「気づき」が主体で、私も他者もそこに現れるものです。
    > とはいえ、minori自身について言えば、カチンとくれば「私」が発動してきます。 まだダメです。

    上記だけ読むと「気づき」と〈私〉は同義のように思えるのですが。。。^^

    >>〈私〉を第五図に重ねる永井さんは、そこには「ただ見ているだけ」で一切の意味付けはないとしており、このことからして一元であることや世界内ではなく接点を持つ世界外にいることのみ第五図と共通しても、独在的であるとは変わりなく、よって自己や他者、世界に対する慈悲なんてものが生じようがない。このことは〈私〉と第五図を一致させようとするところから無理が生じているようにさえ思えるということです。

    > 〈私〉はただ見ているだけ、ということで、それはそうなんだろうなと思うのですが。
    > でも、〈私〉が「私」(この場合の私というのは、その人個人という意味)を見ることが可能であるなら、例えば瞑想することにより、そういうところから慈悲が発生してくるというのはあるかもしれないと考えました。
    > 永井さんもヴィパッサナー瞑想をされるそうですよね。^^
    > 今現在もかどうかは不明ですが。

    なるほど、やっぱ慈悲も〈私〉と非二元の折り合いも体験が不可欠かなぁ〜。^^;

    > とはいえ、慈悲だけが人間としての徳目ではないと思いますし、〈私〉を極めることによって発生する徳目というのが逆にあるのではないかと思います。
    > 勇気、主体性、自立とか。そんなイメージがあります。

    本当に鋭いですね。これ初めてカキコしますが。。。
    仏教的な慈悲とかキリスト教の隣人愛って、ある側面は同情とか同苦とか、よく言えば母性的な愛の側面がありますが、これだけでは相手の依存心を増長させるだけに終わったり、結果的には弱体化に終わることもあると思うのです。

    『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってするだが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と(ツァラトゥストラ)』

    『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ)』

    これを補い慈悲の本来の目的である抜苦を実現するためバランス(中道)を保つためには教令輪身(不動明王)のようないい意味でのパターナリズムが必要だと思いす。
    後者が強さに裏付けられた強者へ導くための慈悲ではないか。

    独在論的〈私〉の徳目としてminoriさんが挙げられた「勇気、主体性、自立(自律)&自制、アイデンティティー」を促すような後者の慈悲に繋がれば素晴らしいだろう〜なというのは思っていました。
    そして今の日本に必要な愛はニーチェ的な厳しさを伴った古きよき威厳ある父親が持っていたパターナリズムではないか、とさえ感じています。

    > 内山老師は、カント哲学を大学で勉強されて、その知識からあの図を描くヒントとしたそうですが、〈私〉についてはそれはなかったのかもしれないですね。
    > 永井さん的には、〈私〉と「私」の関係性と第五図の「ただ見る」と第四図の関係性においては同じだと考えたのかもしれないと思っています。

    なんかほんと穿った見方というか、私の性格の悪さから毒舌を吐かせてもらうなら。。。(笑)
    永井さんは一照さんや良道さんの〈仏教3.0〉や悟りに乗っかって、根幹的なところを妥協しているようにも思えます。

    独在論的な〈私〉と無我が非二元(自他不二)は普通に考えれば相容れない。
    それは電子の相補的な性質として記述される、普通は相容れない波動性と粒子性が同居している違和感に近いです。^^

引用返信/返信 削除キー/
■8594 / inTopicNo.88)  認識と誤謬
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/01(Sun) 08:48:32)
    2020/11/01(Sun) 09:01:47 編集(投稿者)

    おはようございます、ななしさん。レスありがとうございます。
    勝手ながらこちらのトピに移動させてもらいました。

    No8591に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、おはようございます。レスありがとうございます。

    >>『生成に有という性格を刻印づけること──このことが力への最高の意志である。(力への意志 第617番)』

    > なるほど、固定的、恒常的に有るのではなく、この自然の生命力に満ちた「生成」
    > を再発見することが力への意志ということでしょうか。

    私たちが生成を認識し、そこに存在の意味を刻印すること、それが力への意志の究極形だということです。
    力への意志とは『「より以上のものとなるためには、いま所有するよりも、より以上に所有しようと欲しなければならない」と。つまり、生あるすべてのものに、生自身をつうじて説かれる教えはこのように主張するが、これがすなわち発展の道徳である。所有し、さらにより以上所有しようと欲すること、一言をもってすれば生長──これこそが生自身である。(力への意志 第125番)』ということです。

    広義の意味では作用と反作用(相依性縁起)のような力の鬩ぎ合いですし、生物的には異質なものを自己の内に取り込み消化する(自己に同化する)ことによって絶えざる自己拡大(自己超克)をはかろうとする生のベクトルみたいなものですが、ニーチェは「力への意志」の出版を突然取り止めます。今、書籍になっているのはニーチェの妹であるエリザベートがニーチェの死後、友人のペーター・ガストの協力を得て1901年に出版された「権力の意志・習作と断片」というタイトルの本の改訂版です。

    ですから「力への意志」をニーチェ哲学とするかどうかは意見の分かれるところですがハイデッガーは形而上学の最終形としてニーチェの主著としています。

    > この点に言えば、福岡先生は、生命とは、鴨長明の方丈記のようだとしています。
    > 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
    > 特に、「かつ消えかつ結びて」と最初に消える破壊をもって来てところが凄くて、肉体では、エントロピーに対抗するために、細胞は最初に壊してから食べ物から作成するからだそうです。
    > やはり、賢者は、同じ風景を観ているということでしょうか。

    ニーチェも認識した世界は自己が創造した世界でもあり、その世界の中心になって破壊と創造を繰り返すことを、精神の三変化の最終形である子どもの無垢なる遊戯に例えます。
    破壊なくして創造なし。古代インドの破壊神はモンスーンの象徴と言われており、破壊の後は山から運ばれた肥沃な土によって豊作をもたらすという再生の象徴でもあるようです。
    ご指摘のように似たような思想や発想は世界各地で散見されますね。

    >>遠近法もニーチェ哲学とって重要なキーワードです。
    >>『われわれの新しい「無限のもの」。──現存在の遠近法的性格はどこまで及ぶのか、あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格を有っているのか、解釈もなく・「意味」もない現存在はまさに「愚にもつかぬもの」となりはしないか、他面、一切の現存在は本質的に解釈する現存在ではないのか──こうしたことがらは、当然ながら、知性のこのうえなく勤勉な・極めて几帳面で良心的な分析や自己検討をもってしても解決されえないものである。それというのも、こうした分析をおこなう際に人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはないからである。・・・中略・・・それどころか世界は、われわれにとって、またもや「無限」のものとなった、──世界は無限の解釈を内に含むという可能性を、われわれとしては避けることができないというそのかぎりでは。(悦ばしき知識 第374番)』

    > パースペクティブについて、「人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはない」んだということですね。

    そうです。

    > これは、自分自身の認識器官の視覚・聴覚・体感覚等を通じて世界を描いていて、世界とは、自分自身の認識が生み出す幻想であり、各々の認識器官が生み出す虚構なのだということでしょうか。
    > つまり、世界を認識する視点が人によって違うので、認識される世界も人によって違うものなのだと。
    > なので、すべての人や動物に同じ世界というものは無くアリの世界と犬の世界と人間の世界は認識器官が違うから違う、視点が違うからパースペクティブが違う訳で
    > アリと犬と人間に共通する唯一の真の世界、客観的世界は存在しないのですね。

    それはその通りですがニーチェはもう少し肯定的に捉えます。
    神が死んだ後はトップダウンで与えられていた人生や世界の普遍的な意味や価値、目的も喪失します(受動的ニヒリズム)。
    ここで人生は白紙のキャンパスであるからこそ、その主体者である自己が世界や生に意味や価値を創出する創造者たりうると考えます(能動的ニヒリズム)。
    認識も自己の内に世界を取り込み消化するという力への意志のいち表出です。

    人間の認識には誤謬や錯誤が伴いますが、それが創造(生成)の原動力となる。
    認識が絶対的な認知であれば、そこで意味や価値や目的は固定化、普遍化されます。
    つまり誤謬や錯誤は果てしなき解釈によって無限の可能性を示すもので、世界は無限の解釈を内に含む魅力的なかつ好奇心の帆を上げて船出するに相応しい大海原になるというような発想です。

    万人がそれぞれの生や世界の創造者であり、それが人として生まれた特権でもあるというようなことへの賛歌です。
    これを委縮させ、画一化し、家畜(畜群)のような没個性を強いるキリスト教的善悪二元論道徳を破壊(否定)しました。


引用返信/返信 削除キー/
■8593 / inTopicNo.89)  Re[8]: 哲学の道
□投稿者/ minori -(2020/11/01(Sun) 08:31:03)
    2020/11/01(Sun) 09:06:18 編集(投稿者)

    No8568に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>私の考えを少し書くと。 第五図的なもの(慈悲、スクリーン など)が大切というかそこに注目するというのも、それをそのように考える人たちだけに通じるものであって、第五図的なものが真理や真実ということではないと私は思っています。
    >>第四図とされる世界観しか知らなくても、第五図的世界観を知っているという人よりも人格的に優れている人はたくさんいると思うんですね。
    >
    > あくまでも私の少ない実体験からの邪推ですが悟りの深まりと人徳の高さというのは必ずしも比例しないとは思っています。もちろん、比例しているであろう場合の方が多いかもしれませんが、悟りは万能ではないということです。

    はい、そのように思います。


    >>あくまで、第四図的世界観だけではなんか違う、と思う人が第五図的世界観を知り、慈悲と呼ばれるものを身に着けるようになる、というのはあるとは思います。
    >>それは、もともとその人にくっついていた余計なものが削ぎ落された結果なのだろうな、と思うんですね。

    > 〈私〉と第五図を重ねる永井氏への違和感も上記に関連します。
    > 独在論と非二元は一元というところは共通しますが、私秘性や私的言語も含めて他者と〈私〉はやはり隔絶しており、自他の境界がなくなったり薄くなることはありません。
    > 慈悲を意識するようになるのは自己と他者、あるいは世界も含めて不二を体得することによって全てが愛おしくなるというような境地に到達するというイメージがあります。

    非二元の「気づき」ということで言えば、「私」というのは「気づき」に経験として現れるものであって「私」は主体ではないんですね。
    経験として現れるものという意味では、他者と面と向かい話をするような時を例えれば、他者というのも気づきに現れる(経験である)となります。
    「気づき」が主体で、私も他者もそこに現れるものです。
    とはいえ、minori自身について言えば、カチンとくれば「私」が発動してきます。 まだダメです。

    > 〈私〉を第五図に重ねる永井さんは、そこには「ただ見ているだけ」で一切の意味付けはないとしており、このことからして一元であることや世界内ではなく接点を持つ世界外にいることのみ第五図と共通しても、独在的であるとは変わりなく、よって自己や他者、世界に対する慈悲なんてものが生じようがない。このことは〈私〉と第五図を一致させようとするところから無理が生じているようにさえ思えるということです。

    〈私〉はただ見ているだけ、ということで、それはそうなんだろうなと思うのですが。
    でも、〈私〉が「私」(この場合の私というのは、その人個人という意味)を見ることが可能であるなら、例えば瞑想することにより、そういうところから慈悲が発生してくるというのはあるかもしれないと考えました。
    永井さんもヴィパッサナー瞑想をされるそうですよね。^^
    今現在もかどうかは不明ですが。
    とはいえ、慈悲だけが人間としての徳目ではないと思いますし、〈私〉を極めることによって発生する徳目というのが逆にあるのではないかと思います。
    勇気、主体性、自立とか。そんなイメージがあります。

    >>つまり、第四図的世界観に生きていても、よけいなものがくっついていない人には知る必要もないことなのだろうな、ということです。
    >>伝わるといいんですけど。^^
    >>そもそも、パニチェさんの考えられていることというのは、こういう種類の話とは違うのかもしれないですが・・。
    >
    > minoriさんの返信理解はしているつもりです。その上で。。。
    > 第五図の坐禅をする主体を客体として描いてしまっていることに大きな違和感と、むしろ〈私〉と悟りが相容れない対象ではないか、とすら思います。
    > 独在論を客体化して描いたり語ったりすることはNGです。何故なら、その途端に変質してしまうからです。
    > これが独在論の核心であり、そのことから考えれば内山老師は〈私〉なんてことは全然頭にはなかったにもかかわらず、永井さんが強引に結び付けただけではないか。
    > さらに〈私〉が世界内に属さないことは極めて当たり前かつ明確なことであって、第四図的な世界に主体つまり〈私〉が属さないことはそんなに重視するほどのことではないように思います。

    内山老師は、カント哲学を大学で勉強されて、その知識からあの図を描くヒントとしたそうですが、〈私〉についてはそれはなかったのかもしれないですね。

    永井さん的には、〈私〉と「私」の関係性と第五図の「ただ見る」と第四図の関係性においては同じだと考えたのかもしれないと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■8568 / inTopicNo.90)  Re[7]: 哲学の道
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/31(Sat) 18:25:10)
    こんにちは、minoriさん。レスありがとうございます。

    No8556に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、こんにちは。
    > 「何故、第五図がそれほどまでに重要か?」についての疑問。 これについてのパニチェさんのお考えを拝見できるのを楽しみにしています。

    およよ。minoriさんに楽しみにされたら、ハードル高すぎてしょ〜もないこと書けなくなります(爆)
    期待しないで下さいw。でも、きっかけをいただけたようで、ありがとうございます。

    > 私の考えを少し書くと。 第五図的なもの(慈悲、スクリーン など)が大切というかそこに注目するというのも、それをそのように考える人たちだけに通じるものであって、第五図的なものが真理や真実ということではないと私は思っています。
    > 第四図とされる世界観しか知らなくても、第五図的世界観を知っているという人よりも人格的に優れている人はたくさんいると思うんですね。

    あくまでも私の少ない実体験からの邪推ですが悟りの深まりと人徳の高さというのは必ずしも比例しないとは思っています。もちろん、比例しているであろう場合の方が多いかもしれませんが、悟りは万能ではないということです。

    > あくまで、第四図的世界観だけではなんか違う、と思う人が第五図的世界観を知り、慈悲と呼ばれるものを身に着けるようになる、というのはあるとは思います。
    > それは、もともとその人にくっついていた余計なものが削ぎ落された結果なのだろうな、と思うんですね。

    〈私〉と第五図を重ねる永井氏への違和感も上記に関連します。
    独在論と非二元は一元というところは共通しますが、私秘性や私的言語も含めて他者と〈私〉はやはり隔絶しており、自他の境界がなくなったり薄くなることはありません。
    慈悲を意識するようになるのは自己と他者、あるいは世界も含めて不二を体得することによって全てが愛おしくなるというような境地に到達するというイメージがあります。
    〈私〉を第五図に重ねる永井さんは、そこには「ただ見ているだけ」で一切の意味付けはないとしており、このことからして一元であることや世界内ではなく接点を持つ世界外にいることのみ第五図と共通しても、独在的であるとは変わりなく、よって自己や他者、世界に対する慈悲なんてものが生じようがない。このことは〈私〉と第五図を一致させようとするところから無理が生じているようにさえ思えるということです。


    > つまり、第四図的世界観に生きていても、よけいなものがくっついていない人には知る必要もないことなのだろうな、ということです。
    > 伝わるといいんですけど。^^
    > そもそも、パニチェさんの考えられていることというのは、こういう種類の話とは違うのかもしれないですが・・。

    minoriさんの返信理解はしているつもりです。その上で。。。
    第五図の坐禅をする主体を客体として描いてしまっていることに大きな違和感と、むしろ〈私〉と悟りが相容れない対象ではないか、とすら思います。
    独在論を客体化して描いたり語ったりすることはNGです。何故なら、その途端に変質してしまうからです。
    これが独在論の核心であり、そのことから考えれば内山老師は〈私〉なんてことは全然頭にはなかったにもかかわらず、永井さんが強引に結び付けただけではないか。
    さらに〈私〉が世界内に属さないことは極めて当たり前かつ明確なことであって、第四図的な世界に主体つまり〈私〉が属さないことはそんなに重視するほどのことではないように思います。

引用返信/返信 削除キー/
■8564 / inTopicNo.91)  Re[7]: 哲学の道
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/31(Sat) 17:40:06)
    2020/10/31(Sat) 18:59:47 編集(投稿者)

    こんにちは、田秋さん。レスありがとうございます。

    No8541に返信(田秋さんの記事)
    > おはようございます、パニチェさん

    > 銀閣寺や南禅寺に行った時、何度か哲学の道を歩きました。ベートーベンの散歩道みたいなもんですかね。確かに散歩しているといいアイデアが浮かぶことがあります。《同じルート》を歩くということが思考のためには良いのかもしれませんね。

    確かに散歩は身体的にも精神的にも心地よいですね。
    考えるでもなく考えないでもなく歩く。

    乳幼児が自動歩行という機能を先天的に持っているように、歩くという運動は呼吸と同じく意識を足に向けなくとも意識と無意識の狭間で勝手にやってくれます(笑)。
    この歳になって初めて散歩が心地よいことを知りました。^^
引用返信/返信 削除キー/
■8556 / inTopicNo.92)  Re[6]: 哲学の道
□投稿者/ minori -(2020/10/31(Sat) 12:21:01)
    No8539に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/10/31(Sat) 08:37:40 編集(投稿者)
    >
    > 『現代思想としての西田幾多郎』の著者、藤田正勝氏によると西田の言う無意識を世阿弥の「無心の感」や「無心の位」と重ね合わせることができるとのこと。
    > 臨済の言う無位の真人みたいなものか。
    >
    > 『善の研究』執筆後は新カント派のリッケルトやコーヘンの影響を受け思惟の自立性を意識するようになり直観と反省の統合としての「自覚」に至ったとのことでした。
    > 写真は京都学派が散策したことで名づけられた「哲学の道」です。
    >
    > おって、あくまでも自分の探究や今読書中の書籍への理解を深める目的で、「永井氏が第五図と〈私〉を重ねることへの違和感」や「何故、第五図がそれほどまでに重要か?」についての疑問などをカキコしてみたい。

    パニチェさん、こんにちは。

    「何故、第五図がそれほどまでに重要か?」についての疑問。 これについてのパニチェさんのお考えを拝見できるのを楽しみにしています。

    私の考えを少し書くと。 第五図的なもの(慈悲、スクリーン など)が大切というかそこに注目するというのも、それをそのように考える人たちだけに通じるものであって、第五図的なものが真理や真実ということではないと私は思っています。
    第四図とされる世界観しか知らなくても、第五図的世界観を知っているという人よりも人格的に優れている人はたくさんいると思うんですね。
    あくまで、第四図的世界観だけではなんか違う、と思う人が第五図的世界観を知り、慈悲と呼ばれるものを身に着けるようになる、というのはあるとは思います。
    それは、もともとその人にくっついていた余計なものが削ぎ落された結果なのだろうな、と思うんですね。
    つまり、第四図的世界観に生きていても、よけいなものがくっついていない人には知る必要もないことなのだろうな、ということです。

    伝わるといいんですけど。^^

    そもそも、パニチェさんの考えられていることというのは、こういう種類の話とは違うのかもしれないですが・・。
引用返信/返信 削除キー/
■8541 / inTopicNo.93)  Re[6]: 哲学の道
□投稿者/ 田秋 -(2020/10/31(Sat) 09:00:59)
    おはようございます、パニチェさん

    銀閣寺や南禅寺に行った時、何度か哲学の道を歩きました。ベートーベンの散歩道みたいなもんですかね。確かに散歩しているといいアイデアが浮かぶことがあります。《同じルート》を歩くということが思考のためには良いのかもしれませんね。

引用返信/返信 削除キー/
■8539 / inTopicNo.94)  哲学の道
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/31(Sat) 08:07:11)
    2020/10/31(Sat) 08:37:40 編集(投稿者)

    『現代思想としての西田幾多郎』の著者、藤田正勝氏によると西田の言う無意識を世阿弥の「無心の感」や「無心の位」と重ね合わせることができるとのこと。
    臨済の言う無位の真人みたいなものか。

    『善の研究』執筆後は新カント派のリッケルトやコーヘンの影響を受け思惟の自立性を意識するようになり直観と反省の統合としての「自覚」に至ったとのことでした。
    写真は京都学派が散策したことで名づけられた「哲学の道」です。

    おって、あくまでも自分の探究や今読書中の書籍への理解を深める目的で、「永井氏が第五図と〈私〉を重ねることへの違和感」や「何故、第五図がそれほどまでに重要か?」についての疑問などをカキコしてみたい。


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引用返信/返信 削除キー/
■8300 / inTopicNo.95)  脱皮しない蛇
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/25(Sun) 06:21:04)
    2020/10/25(Sun) 07:28:03 編集(投稿者)

    若いのにたちの悪い年寄りみたく頑固頑迷な奴はいるもんだ。
    自分の考えを絶対視し、聞く耳も持たない。
    自分の意見や見解を表明するだけ。

    相手の意見も自分勝手に決め付け、これに対して論評するという藁人形論法が普通になっており、本人は全くその自覚すらない。
    そういう自身のスタンスが他者から見れば自閉的に映ることすら自閉的であるが故に分からない。

    アスペルガーの名残か、あるいは初期症状。

    このタイプの人間はBBSを自己主張や自己顕示欲を満たすための場として利用している傾向が強く、日常生活で自身の立ち居振る舞いによって周りから敬遠されたり疎外されたりすることへのストレスやルサンチマン、鬱憤の発散や捌け口の場としている場合が多い。

    BBSで知的な刺激を求めたり、知らないことを知る楽しさを味わったり、何かを学んだりしようとはしない。
    この手の人間は議論や会話も成立しにくく「無学者論に負けず」を地で行くタイプでもある。

    ニーチェも指摘しているように、進化論的には最も遅れた発展である人間の精神は最も伸び代が大きいにもかかわらず、その伸び代を思考停止によって切り捨ててしまう。
    早い話が人として生まれた特権的能力を放棄し、固定的かつ保守的な方向を好む傾向にある。

    それは何故か?
    自身の本質が不安定であり、頼りなく、自信がないことの裏返しとして、安定的かつ固定的なものに執着しようとするためである。

    恐怖が可能性の芽を摘むという事例。

    動物や未人(ニーチェ用語)へと退行する種族の人間。
    不安定な超人への綱の上を渡ろうとしない臆病な人間。

    『脱皮する。─脱皮することのできない蛇は破滅する。その意見を変えることを妨げられた精神の持ち主たちも同様である。彼らは精神であることを止める。(曙光 第573番)』

    以上、藁人形論法的独り言(笑)ですた。
引用返信/返信 削除キー/
■8278 / inTopicNo.96)  Re[4]: 藁人形論法
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/24(Sat) 20:36:37)
    2020/10/24(Sat) 20:52:51 編集(投稿者)

    No8275に返信(たーぼーさんの記事)

    > 早速スレ立てたね、パニチェさん(笑)
    > さすがスレ立ての権限持ってるだけあるね(笑)

    立てて欲しくなかったの?

    > でもいいんだよ。
    > 無駄なことは何もない。
    > これでパニチェさんの中のニーチェ信仰は壊れる。
    > その分だけパニチェさんは自由になれる。

    ニーチェ信仰なんて言っている時点でニーチェを全く理解していないことをさらけ出している。
    やっぱ厚顔無恥って当たってるね。

    > 俺は悪者でいいよ

    悪者ではないでしょ。ドあつかましいだけやねw
    それより、御託はいいから、まともな返信よろしこ。
引用返信/返信 削除キー/

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