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■8011 / inTopicNo.49)  たーぼーさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/10/19(Mon) 08:22:06)
    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >まぁやり方は人それぞれ色々あっていいと思います。
    >私も聞かれたから答えただけで、人にこのようにすべきとは強要するつもりもないです。
    >私としては今大切なことは、しっかりと因果の繋がりを解明しつくすことだと思っています。
    >私はどうしても全て分かりたいんです。
    >そして今はこれを考えている時が一番楽しいです。
    >もう病みつきw あっという間に2.3時間経ってしまいます。
    >私もヘボ将棋指しますけど、詰め将棋みたいに考えることが好きなのかもしれません。

    完全調和っていう言葉、「お〜、それふさわしい。」と思い、たーぼーさんの真似させていただいてるんですけど・・・
    まさに、片方から観ればすべては完全調和の世界ですものね。
    それからすれば、どんなことでも間違いはないと言えるのだと思います。
    たった一つの正解というものはない。 人それぞれですね。

    たーぼーさんも将棋をされるのですね。ニーチェクラブでは男性の方は、お好きな方が多いようですね。
    私はしないのですが、「こうくるとこうなる」というのが閃いてくる、舞い降りてくる感覚が楽しいのだろうな、と想像しています。
    自力で考えようとしても無理じゃないですか? 良い手は閃きからのように思えます。
    どうしてかというと、何にでもそうしたことっていうのは言えるように思えるからです。

    私は以前、「私」が極端に薄れた体験後、交差点の信号で止まっていた車が一斉に動きだしたり、鳥の群れが弧を描いて地面に降りてくる何でもない光景を見ただけで感動してしまうような時がありました。
    もうそういうのはなくなりましたが・・
    今は「気づき」も存在感がなくなり、でも気づいていることが自然という感じでいます。

    レスはお気遣いなくなさってくださいね。

引用返信/返信 削除キー/
■8003 / inTopicNo.50)  Re[17]: 止観のうちの観
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/19(Mon) 00:41:16)
    No8002に返信(pipitさんの記事)
    > こんにちは。曹洞宗のご住職でもあられる片山一良先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、p272から引用します。パーリ語などの記号は入力できてません。
    >
    > 引用開始
    > 『では、その「禅定」とは何でしょうか。ここで少しまとめておきますと、それは、「禅」とも、「定」とも、「禅という定」とも解されるでありましょう。
    >
    >  「禅」(jhana,Skt.dhyana<√dhyai)は、禅那、静慮とも訳され、『清浄道論』(第四章)によれば、(1)所縁(対象)を思惟すること(upanijjhana)から、あるいは、(2)敵対(五蓋=貪欲、瞋恚、沈鬱、眠気、浮つき・後悔、疑い)を焼くこと(jhapana)から、「禅」と呼ばれます。
    > つまり、(1)は観(vipassana)の特徴を、(2)は止(samatha)の特徴を示すものでありますから、禅は「止観」の意味にも解されるということです。
    > 一般に「禅」は四禅(色界四禅定)によって説明されますが、八正道の「正定」は四禅としても説明されますから、禅は「定」でもあると言えましょう。
    >
    >  これに対して、「定」(samadhi<sam-a-√dha)は、三摩地、三昧、等持とも訳され、『清浄道論』(第三章)によれば、一つの所縁に対して心・心所を平等に正しく保持すること、善の心一境性(kusala-cittekaggata)であると言われております。全体として、最広義の禅定を意味し、三界、有漏、無漏のすべてを含むものです。
    >
    >  このように、伝統的な解釈によれば、禅定は、禅とも、定とも、禅である定とも解されますが、その基本的な意味は「静まり」です。
    > 止、定による「心の静まり」と、観による「慧による静まり」です。
    >
    >  ちなみに、後代の中国や日本における、いわゆる禅宗の「禅」(ZEN)、あるいは「坐禅」(ZAZEN)は、止も観も、定も慧も含むものと言えます。禅定波羅蜜だけでなく波羅蜜全体を、また定学だけでなく三学全体をも含むものです。さらに言えば、修証一等の戒定慧であり、仏道、仏法そのものであります。』
    > 引用終了
    >
    > 片山先生は学者さんでもあると思うので、曹洞宗の方の中には、片山先生の記述に違和感を持たれる方もいるかもしれませんね(推測・例えば、分別っぽくて曹洞宗っぽくない、とか)
    >
    > いろんな考え方があると思うのですが、一資料として投稿します。


    Pipitさん、資料ありがとうございます。
    いやー確かに曹洞宗でも色々あるんですよ。
    でもこれは曹洞宗の中でも異端な方だと思います。
    曹洞宗で一番オーソドックスなのは藤田さんみたい感じだと思いますが、
    しかしその藤田さんを邪道だという曹洞宗の方もいると思います。
    邪道というか究極の悟り以外は悟りじゃないという厳しい宗派だとダメってことになると思います。
    臨済宗だって15派に別れているし、まぁとにかく色々ありますね。

引用返信/返信 削除キー/
■8002 / inTopicNo.51)  Re[16]: 止観のうちの観
□投稿者/ pipit -(2020/10/18(Sun) 23:20:49)
    こんにちは。曹洞宗のご住職でもあられる片山一良先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、p272から引用します。パーリ語などの記号は入力できてません。

    引用開始
    『では、その「禅定」とは何でしょうか。ここで少しまとめておきますと、それは、「禅」とも、「定」とも、「禅という定」とも解されるでありましょう。

     「禅」(jhana,Skt.dhyana<√dhyai)は、禅那、静慮とも訳され、『清浄道論』(第四章)によれば、(1)所縁(対象)を思惟すること(upanijjhana)から、あるいは、(2)敵対(五蓋=貪欲、瞋恚、沈鬱、眠気、浮つき・後悔、疑い)を焼くこと(jhapana)から、「禅」と呼ばれます。
    つまり、(1)は観(vipassana)の特徴を、(2)は止(samatha)の特徴を示すものでありますから、禅は「止観」の意味にも解されるということです。
    一般に「禅」は四禅(色界四禅定)によって説明されますが、八正道の「正定」は四禅としても説明されますから、禅は「定」でもあると言えましょう。

     これに対して、「定」(samadhi<sam-a-√dha)は、三摩地、三昧、等持とも訳され、『清浄道論』(第三章)によれば、一つの所縁に対して心・心所を平等に正しく保持すること、善の心一境性(kusala-cittekaggata)であると言われております。全体として、最広義の禅定を意味し、三界、有漏、無漏のすべてを含むものです。

     このように、伝統的な解釈によれば、禅定は、禅とも、定とも、禅である定とも解されますが、その基本的な意味は「静まり」です。
    止、定による「心の静まり」と、観による「慧による静まり」です。

     ちなみに、後代の中国や日本における、いわゆる禅宗の「禅」(ZEN)、あるいは「坐禅」(ZAZEN)は、止も観も、定も慧も含むものと言えます。禅定波羅蜜だけでなく波羅蜜全体を、また定学だけでなく三学全体をも含むものです。さらに言えば、修証一等の戒定慧であり、仏道、仏法そのものであります。』
    引用終了

    片山先生は学者さんでもあると思うので、曹洞宗の方の中には、片山先生の記述に違和感を持たれる方もいるかもしれませんね(推測・例えば、分別っぽくて曹洞宗っぽくない、とか)

    いろんな考え方があると思うのですが、一資料として投稿します。
引用返信/返信 削除キー/
■8001 / inTopicNo.52)  Re[15]: 止観のうちの観
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/18(Sun) 22:38:12)
    絶対平等で空を悟って、絶対差別になったとこがダルマです。
    絶対平等の絶対差別が全く矛盾しないところ。
    一即多多即一が全く矛盾しないところ。
    だから空とは点ですよ
引用返信/返信 削除キー/
■8000 / inTopicNo.53)  Re[14]: 止観のうちの観
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/18(Sun) 22:20:52)
    No7999に返信(knowing itselfさんの記事)
    > もちろん曹洞宗で観なんていうわけがないんですが、実質は気づきと同じことが裏側では起こっているんです。思いの手放しとはそういうことです。坐相全体では気づいている。宇宙のすべてが流れ込んでいるのだから、それに気づいていない方がおかしいんです。

    思いの手放しっていうのは裏表がないんですよ。
    裏表があれば手放してない。
    気づけるわけないじゃないですか、思い手放してるのに。
    ダルマに委ねきってしまうというのが思いの手放しです。
    行きっぱなしだからダルマがわからないんですよ。
    だから自覚的一般者なんです。

    > 覚触という語も使われる。これも観に近い。
    >
    > 観といっても、主体が分離した対象を観察することではなくて、仏教瞑想としての気づき。
    >
    > ここら辺は、山下さんや藤田さんはあまりにも図式的に平板に語り過ぎる。内山門下でも二人を批判する人は少なくないです。

    藤田さんは普通だと思いますよ。
    山下さんはちょっと変わってると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7999 / inTopicNo.54)  Re[13]: 止観のうちの観
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/18(Sun) 21:45:35)
    もちろん曹洞宗で観なんていうわけがないんですが、実質は気づきと同じことが裏側では起こっているんです。思いの手放しとはそういうことです。坐相全体では気づいている。宇宙のすべてが流れ込んでいるのだから、それに気づいていない方がおかしいんです。

    覚触という語も使われる。これも観に近い。

    観といっても、主体が分離した対象を観察することではなくて、仏教瞑想としての気づき。

    ここら辺は、山下さんや藤田さんはあまりにも図式的に平板に語り過ぎる。内山門下でも二人を批判する人は少なくないです。

引用返信/返信 削除キー/
■7997 / inTopicNo.55)  Re[12]: 止観のうちの観
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/18(Sun) 21:15:57)
    No7994に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 瞑想は思考というより識別だと思います。
    > 知人の顔、数百人瞬時に識別できますよね?いちいち思考してやっとわかるわけではない。瞑想はそれ以上の作業。心に浮上する要素をその瞬間に、思考を一切介在させずに識別する。それを起きている間ずっとできればそれが望ましい。一秒前のものはもはや瞑想の対象にならない。


    瞑想にも色々ありますよ。ちょっと調べてみてください。
    knowing itselfさんは、[只管打坐もただすわっているようでいて、実は観をやっていなければおかしい]などと書いてますけど、これは全く違います。
    観をやってたら只管打坐じゃないです。藤田さんの本にそんなこと書いてましたか?
    時々行かれるという禅寺でそのような指導受けましたか?
    只管打坐ってのは読んで字のごとく ただうち座るですよ。
    ただ座るんですよ。でもこのただ座るっていうのが結構難しいです。
    大体何かしちゃうんですよ。
    あと対象に一体化することで雑念を払う数息観などもありますしね。
    こういう何か対象があるものに一体化する方が簡単だという人が多いですね。


引用返信/返信 削除キー/
■7994 / inTopicNo.56)  Re[11]: 止観のうちの観
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/18(Sun) 20:50:13)
    瞑想は思考というより識別だと思います。
    知人の顔、数百人瞬時に識別できますよね?いちいち思考してやっとわかるわけではない。瞑想はそれ以上の作業。心に浮上する要素をその瞬間に、思考を一切介在させずに識別する。それを起きている間ずっとできればそれが望ましい。一秒前のものはもはや瞑想の対象にならない。
引用返信/返信 削除キー/
■7988 / inTopicNo.57)  Re[14]: 西田幾多郎記念博物館
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/18(Sun) 20:18:27)
    思考型瞑想なら思考でいいんじゃないでしょうか。たとえば数学者や科学者の探求は思考とすれば十分です。個人的には深い瞑想をするためには思考型瞑想はありえないと考えています。
引用返信/返信 削除キー/
■7985 / inTopicNo.58)  Re[13]: 西田幾多郎記念博物館
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/18(Sun) 20:07:25)
    No7981に返信(knowing itselfさんの記事)

    > それもいいですが、将棋と瞑想は使う領域が違いますね。将棋は頭脳を酷使するゲームですから。どんな道でも自分にあった瞑想をやり込んでいけば、良い反応パターンと悪い反応パターンは自ずと、しかも瞬時に識別できるようになりますよ。


    瞑想にも色々な種類がありますが、私は将棋をやるときの思考型瞑想です。
    因果のパズルも思考型瞑想で考えています。
    おそらく詰め将棋とかもやるの好きだから考えること自体が好きなんですね。
    色々なことを突き詰めて考えることが好きです。ちっとも苦にならない。

引用返信/返信 削除キー/
■7981 / inTopicNo.59)  Re[12]: 西田幾多郎記念博物館
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/18(Sun) 19:48:54)
    No7974に返信(たーぼーさんの記事)
    > 例えばknowing itselfさんも好きみたいだから将棋を元にして考えましょうか。
    > プロの将棋指しでも若いうちは片っ端から手を読むんです。
    > 若いから読むのも早いからそれでやっていけるそうだけど、羽生さんが書いていたけど40過ぎると若い頃のように片っ端から超手数を早くは読めなくなって、その代わり経験がカバーして若い頃のように片っ端から手を読まなくても、この局面はこう指すところという大局観で読まなくてもいい手は省けるそうです。
    > 若い頃は一つの局面で10の手筋を読んでいたとしたら、年を取るとそれが3つくらいに直観でしぼれるから読むスピードが衰えてもある程度は若手とやっていけるそうです。
    > これはまさに、その局面における反応パターンだと思いますが、それはやはり何千と対局してきた経験の蓄積がある反応パターンだと思うんです。
    > 羽生さんが書いていたけど、大山康晴名人と若い頃対局した羽生さんは、はっきりいって大山康晴名人は読んでないと著書に書いてました。
    > 読まなくてもピッタリの手を打ってくるというのが、まさに名人芸だと著書に書いてましたw
    > こういう良いことの反応パターンは残しておいていいと思いますが、悪いことの反応パターンはやはりその元まで遡るべきだと思います。

    それもいいですが、将棋と瞑想は使う領域が違いますね。将棋は頭脳を酷使するゲームですから。どんな道でも自分にあった瞑想をやり込んでいけば、良い反応パターンと悪い反応パターンは自ずと、しかも瞬時に識別できるようになりますよ。
引用返信/返信 削除キー/
■7975 / inTopicNo.60)  Re[12]: 西田幾多郎記念博物館
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/18(Sun) 17:47:42)
    No7973に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ■No7972に返信(たーぼーさんの記事)
    >>■No7970に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 自分で因果を解明しなくてすむように、アビダンマや唯識という道を残してくれているともいえるわけです。反応パターンというのも、基本は貪瞋痴ですね。

    唯識は因果そのものです。

    > いままでの仏教解釈は誤りだった、自分で解明してみせる、釈迦の本当の真意を発見してみせる、こういうのはほぼ間違うと思います。

    確かショーシャンクさんがそんなこと言ってたな。
    連れてこようかな(笑)
引用返信/返信 削除キー/

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