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■8054 / inTopicNo.37)  Re[17]: たーぼーさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/10/20(Tue) 16:17:29)
    No8044に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。


    > 私がやりたいのは、価値観の転換なんです。
    > 理解されないかもしれないけど、別に理解されなくても構わないので一応載せておきます。
    >
    > https://1000ya.isis.ne.jp/1086.html
    > 引用
    >
    > それまで西田は主観と客観が分かれる以前の「純粋経験」に哲学の出発点を求めていた。それが『善の研究』である。しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
    >  これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。
    >
    >  西田は、何を掴んだのか。まず、主観が客観を包むということを、一般が特殊を包むというふうに判断した。 たとえばコップを認知するばあい、われわれはコップでないものやコップに似たものなどを次々に認知していくなかで、このコップという特殊をガラス製品や日用品といった一般概念のうちに措く(措定する)ようにしているわけである。だからコップをコップとして識別できる。
    >   ということは、われわれは一般によって特殊を包むなんらかの能力や向きというものをもっているはずなのである。しかもその一般概念にはさまざまなレベルやレイヤーがあって、これを高次にも低次にもすることができる。コップの上には容器が、容器の上には器物が、その上には物質という概念が待っている。アリストテレス以来、この高次の終点にある一般概念はカテゴリーというふうに規定された。
    >  では、そのように特殊と一般に包摂関係があると見えるのはなぜなのか。「特殊(客観)は一般(主観)に含まれる」というふうに決めたからである。「物質はコップである」と言うより、「コップは物質である」と言ったほうが理解しやすくなると感じたからだ。これはカテゴリーの包摂関係としては便利であろう。けれども、そのようにコップや物質を認識している自分との関係はどうか。そうしたカテゴリー関係が成立するのも、自分がその用語を発するときに区分けしたからであるにちがいない
    > 。

    拝読したんだけど、何が言いたいのかよくわからないなぁ。。。

    ただ間違いなく言えると思うのは。
    子どもが、コップという物とコップという名称を結びつけて最初に覚える時、コップというものが物質かどうかなど思いもしないし、「ほらね、このコップというのは、物質なんだよ。」なんて誰も教えはしないだろうし、コップというものは物質に分類されるというのは、小学校に入った後ぐらいにならないと知ることも普通はないだろうな、ということ。

    たーぼーさんは、その文章が何を言いたいのか、分かるんですよね?
    たーぼーさんの言葉でよかったら説明してもらえませんか。
    無理にはいいですけど。^^
引用返信/返信 削除キー/
■8053 / inTopicNo.38)  ニーチェ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/20(Tue) 15:36:14)
    私はニーチェも西田幾多郎式だったと思っています。
    パニチェさんに著作読んでないのにと怒られるかもしれないが、ニーチェの名言見てるだけで同じ道だろうと思います。


    怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。
    深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ。

    - ニーチェ -


    西田は怪物になってしまったから、人生の後半は黒板を背にして立ったのだと思います。



引用返信/返信 削除キー/
■8046 / inTopicNo.39)  黒板とは
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/20(Tue) 09:12:44)
    西田幾多郎は自分の生涯をふりかえって、こう言った。「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。

    黒板とは2001年宇宙の旅のモノリスである


    しかし、私も思い込み激しいなぁ(笑
引用返信/返信 削除キー/
■8045 / inTopicNo.40)  やさしさに包まれたなら
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/20(Tue) 09:03:18)
引用返信/返信 削除キー/
■8044 / inTopicNo.41)  Re[16]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/20(Tue) 08:58:53)
    No8040に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8017に返信(たーぼーさんの記事)
    >

    > しかし結局のところ、考えるという自分でしていると思っている行為も、「仏のかたよりおこなわれて」いると思うんですよ。
    > 私はこうしたことがほんとうに分かった際、鳥肌が立ちました。
    > これは何もオカルト話でもなんでもない話なんですけどね。(笑)

    Minoriさん、おはようございます。
    言いたいことはよく分かりますし、それが普通の禅の考え方だと思います。
    だから私は人のやり方を否定するつもりはないんです。
    私がやりたいのは、価値観の転換なんです。
    理解されないかもしれないけど、別に理解されなくても構わないので一応載せておきます。

    https://1000ya.isis.ne.jp/1086.html
    引用

    それまで西田は主観と客観が分かれる以前の「純粋経験」に哲学の出発点を求めていた。それが『善の研究』である。しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
     これは大胆だった。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかと見なしたのである。

     西田は、何を掴んだのか。まず、主観が客観を包むということを、一般が特殊を包むというふうに判断した。 たとえばコップを認知するばあい、われわれはコップでないものやコップに似たものなどを次々に認知していくなかで、このコップという特殊をガラス製品や日用品といった一般概念のうちに措く(措定する)ようにしているわけである。だからコップをコップとして識別できる。
      ということは、われわれは一般によって特殊を包むなんらかの能力や向きというものをもっているはずなのである。しかもその一般概念にはさまざまなレベルやレイヤーがあって、これを高次にも低次にもすることができる。コップの上には容器が、容器の上には器物が、その上には物質という概念が待っている。アリストテレス以来、この高次の終点にある一般概念はカテゴリーというふうに規定された。
     では、そのように特殊と一般に包摂関係があると見えるのはなぜなのか。「特殊(客観)は一般(主観)に含まれる」というふうに決めたからである。「物質はコップである」と言うより、「コップは物質である」と言ったほうが理解しやすくなると感じたからだ。これはカテゴリーの包摂関係としては便利であろう。けれども、そのようにコップや物質を認識している自分との関係はどうか。そうしたカテゴリー関係が成立するのも、自分がその用語を発するときに区分けしたからであるにちがいない






引用返信/返信 削除キー/
■8040 / inTopicNo.42)  Re[15]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/20(Tue) 07:54:35)
    No8017に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >>クリシュナムルティは「洞察」と言ってるようなんですが、思考を介さないそれこそ導かれるように表れる閃きですね。
    >>それが洞察なのだろうな、と思っています。
    >
    > 私も以前はそう思っていたんです。
    > でも最近は思考こそ洞察だなと思うようになりました。
    > やっぱり自分に自信が持てない時は心の閃きを頼りにしていたように思います。
    > 結局は思考と心は二つではなくて一つだと思うんです。
    > それを二つだと錯覚してしまうのが自我だと思います。
    > だから探求において、別に閃きに頼る必要はもうないという感じに私はなってます。

    考える、思考する、というのはもちろん大切と思います。
    探究においてや、最近少し勉強してみた西洋哲学においても、それなしにはできないです。
    日常の仕事、家事、それこそ遊びにしたって、思考なしにはやれません。

    ・・・・・
    ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
    ・・・・・

    しかし結局のところ、考えるという自分でしていると思っている行為も、「仏のかたよりおこなわれて」いると思うんですよ。
    私はこうしたことがほんとうに分かった際、鳥肌が立ちました。
    これは何もオカルト話でもなんでもない話なんですけどね。(笑)

    > やはり時節因縁ということがあるように思います。
    > 以前は全然分からなかったことが今はどうしてこれが分からなかったんだろうと思うことないですか?

    そうですね。あったように思います。
    私の場合、分かってもそれが実際の言動になかなか反映されないことのほうがきつかったですね。
    最近はそのあたりやっとなんとか、って感じです。

    > 私はよくありますが、それはやっぱりその時は気が熟してなかったんだと思います。
    > 神様がその時はお前はまだ気が熟してないから、ここは通さんと言っていたんでしょう。
    > だから誰かを助けるといっても時節因縁が熟してなければ理解されないと思います。

    助けるっていうより、気になってしまう感じだったんですね。
    なんでこの人は、一日中、愚さんのブログに連日コメントしまくるんだろうと。
    分からないから苦しいのか、単なる暇つぶしなのか。
    愚さんも忙しそうな中、たまに対話はするんですけど、その人、その時だけは分かったみたいなこと書くけど、結局のところは何も分かってはないんですよ。
    分かったなら、何もその人に対して批判などしない愚さんのブログに連日コメントし続けたりしないと思いますから。
    コンプレックスが強いみたいで、そこがネックなんだろうな、と。
    そんなの関係ねぇ〜(by 小島よしお)になっちゃえればいいんでしょうけど、なかなか難しいんでしょうね。

    あ、なんかつらつら書いちゃいました。 すみません。

引用返信/返信 削除キー/
■8035 / inTopicNo.43)  Re[19]: 現代坐禅講義
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/19(Mon) 22:38:35)
    No8031に返信(knowing itselfさんの記事)
    > たーぼーさんは、藤田一照「現代坐禅講義」はおもちですか。
    > これを読むと、思いの手放しは、実質、気づきと同じになっているとしか読めませんね。
    >
    > この本は置くとしても、素朴に考えて、手放すというのはつかむから放すんです。坐禅ではつかむ即放しがどこまでも高速になっていきますが、つかんだ感触はあるんです。その感触が気づきに近い。テーラワーダのヴィパッサナーのように気づきをシステマティックに掘り下げることはないが、感触としての気づきは坐相のなかで生滅していきます。
    >
    > 熱いものに触ると瞬間的に手を引っ込めます。熱いものなどなかったものにする、熱さなど感じないようにする、熱くても手を引っ込めないようにする、などとは全く違う。これが坐禅の思いの手放し=気づき、です。もっとも、心や思いは単なる熱さより遥かに複雑で手強いですが。

    こんばんは。
    私は藤田さんの本は仏教3.0バージョン2とアップデートする仏教しか持ってません。
    只管打坐なんてする気がないから現代座禅講義は持ってません。
    でも何故か藤田さんの会には入ってます。しかも正会員です(笑
    やっぱり藤田さんとも何か縁があるから入ってるんでしょうね。
    思いの手放しどころか、私は思考一本で何処までいけるか試したいと思っています。
    Minoriさんにも書いたけど、今は自己の探求をするのが楽しくて仕方ないんです。
    何かに憑依されてるんじゃないかと思うほど、全てを知り尽くしたいという欲求があります。
    自分の心に正直にその道で行きたいと思っています。

    Captain of the Ship
    https://m.youtube.com/watch?v=lV2rkttD_tU

    これこの間見てたら亀子って文字が浮かんできました。knowing itselfさん見えます?
    何だろうね、気持ち悪いね(笑
引用返信/返信 削除キー/
■8031 / inTopicNo.44)  現代坐禅講義
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/19(Mon) 21:02:48)
    たーぼーさんは、藤田一照「現代坐禅講義」はおもちですか。
    これを読むと、思いの手放しは、実質、気づきと同じになっているとしか読めませんね。

    この本は置くとしても、素朴に考えて、手放すというのはつかむから放すんです。坐禅ではつかむ即放しがどこまでも高速になっていきますが、つかんだ感触はあるんです。その感触が気づきに近い。テーラワーダのヴィパッサナーのように気づきをシステマティックに掘り下げることはないが、感触としての気づきは坐相のなかで生滅していきます。

    熱いものに触ると瞬間的に手を引っ込めます。熱いものなどなかったものにする、熱さなど感じないようにする、熱くても手を引っ込めないようにする、などとは全く違う。これが坐禅の思いの手放し=気づき、です。もっとも、心や思いは単なる熱さより遥かに複雑で手強いですが。
引用返信/返信 削除キー/
■8020 / inTopicNo.45)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/19(Mon) 16:50:20)
    No8002に返信(pipitさんの記事)
    > こんにちは。曹洞宗のご住職でもあられる片山一良先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、p272から引用します。パーリ語などの記号は入力できてません。
    >
    > 引用開始
    > 『では、その「禅定」とは何でしょうか。ここで少しまとめておきますと、それは、「禅」とも、「定」とも、「禅という定」とも解されるでありましょう。
    >
    >  「禅」(jhana,Skt.dhyana<√dhyai)は、禅那、静慮とも訳され、『清浄道論』(第四章)によれば、(1)所縁(対象)を思惟すること(upanijjhana)から、あるいは、(2)敵対(五蓋=貪欲、瞋恚、沈鬱、眠気、浮つき・後悔、疑い)を焼くこと(jhapana)から、「禅」と呼ばれます。
    > つまり、(1)は観(vipassana)の特徴を、(2)は止(samatha)の特徴を示すものでありますから、禅は「止観」の意味にも解されるということです。
    > 一般に「禅」は四禅(色界四禅定)によって説明されますが、八正道の「正定」は四禅としても説明されますから、禅は「定」でもあると言えましょう。
    >
    >  これに対して、「定」(samadhi<sam-a-√dha)は、三摩地、三昧、等持とも訳され、『清浄道論』(第三章)によれば、一つの所縁に対して心・心所を平等に正しく保持すること、善の心一境性(kusala-cittekaggata)であると言われております。全体として、最広義の禅定を意味し、三界、有漏、無漏のすべてを含むものです。


    >  このように、伝統的な解釈によれば、禅定は、禅とも、定とも、禅である定とも解されますが、その基本的な意味は「静まり」です。
    > 止、定による「心の静まり」と、観による「慧による静まり」です。
    >  ちなみに、後代の中国や日本における、いわゆる禅宗の「禅」(ZEN)、あるいは「坐禅」(ZAZEN)は、止も観も、定も慧も含むものと言えます。禅定波羅蜜だけでなく波羅蜜全体を、また定学だけでなく三学全体をも含むものです。さらに言えば、修証一等の戒定慧であり、仏道、仏法そのものであります。』
    > 引用終了

    引用ありがとうございます。↑とくに最後の7行など、同意は当然というか、正論そのものだと思います。禅宗のあのプライドの高さは、禅には仏教のすべてが正しい姿で包含されているとみなしているからです。曹洞宗の僧侶の人も同意すると思います。この見解に異を唱えることに意味があるのだろうかと思うくらいです。



    > 片山先生は学者さんでもあると思うので、曹洞宗の方の中には、片山先生の記述に違和感を持たれる方もいるかもしれませんね(推測・例えば、分別っぽくて曹洞宗っぽくない、とか)
    >
    > いろんな考え方があると思うのですが、一資料として投稿します。
引用返信/返信 削除キー/
■8017 / inTopicNo.46)  Re[14]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/19(Mon) 11:56:18)
    No8015に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8013に返信(たーぼーさんの記事)

    > クリシュナムルティは「洞察」と言ってるようなんですが、思考を介さないそれこそ導かれるように表れる閃きですね。
    > それが洞察なのだろうな、と思っています。

    私も以前はそう思っていたんです。
    でも最近は思考こそ洞察だなと思うようになりました。
    やっぱり自分に自信が持てない時は心の閃きを頼りにしていたように思います。
    結局は思考と心は二つではなくて一つだと思うんです。
    それを二つだと錯覚してしまうのが自我だと思います。
    だから探求において、別に閃きに頼る必要はもうないという感じに私はなってます。


    > たーぼーさんは今そんな感じなんですね。それはよかったですね。^^
    > でも、深い霧の中にいるみたいに暗中模索ばかりで苦しんでいる人というのも見かけるんですよね。(愚さんのブログにいらっしゃいます。)
    > そのくせ、自分の見解には拘ってそこから出ようとしないのを見ると、ほっておけなくなるのですが、本人にしかできないことですからどうしようもないです。
    > もうこちらからは声をかけないことにしました。
    >

    やはり時節因縁ということがあるように思います。
    以前は全然分からなかったことが今はどうしてこれが分からなかったんだろうと思うことないですか?
    私はよくありますが、それはやっぱりその時は気が熟してなかったんだと思います。
    神様がその時はお前はまだ気が熟してないから、ここは通さんと言っていたんでしょう。
    だから誰かを助けるといっても時節因縁が熟してなければ理解されないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8015 / inTopicNo.47)  Re[13]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/19(Mon) 10:40:56)
    No8013に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    >>自力で考えようとしても無理じゃないですか? 良い手は閃きからのように思えます。
    > >どうしてかというと、何にでもそうしたことっていうのは言えるように思えるからです。

    > これはその通りだと思いますが、何ていうか考えてないのもダメだと思うんです。
    > 閃くっていうのは公案のようにずっとその問題を心に留めているときにあるように思います。
    > 何も心に留めてないとやはり閃きも起こらないように私は感じてます。

    私の言葉が不足していました。とっておきの良い手というのは、閃きによるものなんじゃないかな、という意味だったんです。
    ですからおっしゃるように、それまでの経験や修練があってはじめて閃きに繋がるのですよね。
    藤井壮太さんにしても、閃きだけではもちろんやってないでしょう。

    クリシュナムルティは「洞察」と言ってるようなんですが、思考を介さないそれこそ導かれるように表れる閃きですね。
    それが洞察なのだろうな、と思っています。


    > あと探求することを楽しめている時は、次々と色々なことが閃くように思います。
    > 探求してわからないから、焦ってしまったり、閉塞感を持ってしまったり、絶望してしまったり、何を信じればいいか分からなく混乱してしまったり、そういう精神状態じゃなくてわからないから探求が終わりにならないで何時までも続くから良いじゃないかというようなプラスの精神状態でゆったり楽しめていると探求が病みつきになってくるように思います。

    たーぼーさんは今そんな感じなんですね。それはよかったですね。^^
    でも、深い霧の中にいるみたいに暗中模索ばかりで苦しんでいる人というのも見かけるんですよね。(愚さんのブログにいらっしゃいます。)
    そのくせ、自分の見解には拘ってそこから出ようとしないのを見ると、ほっておけなくなるのですが、本人にしかできないことですからどうしようもないです。
    もうこちらからは声をかけないことにしました。

    > 哲学者ってだから、未知の世界を知りたいと考える魔力に憑かれてしまっている人達じゃないかなと。
    > 自分も少しそうなりつつあります(笑)

    そうなんですね。 楽しい日々でなによりですね。^^
引用返信/返信 削除キー/
■8013 / inTopicNo.48)  Re[12]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/19(Mon) 09:09:58)
    <自力で考えようとしても無理じゃないですか? 良い手は閃きからのように思えます。
    どうしてかというと、何にでもそうしたことっていうのは言えるように思えるからです。

    minoriさん、おはようございます。

    これはその通りだと思いますが、何ていうか考えてないのもダメだと思うんです。
    閃くっていうのは公案のようにずっとその問題を心に留めているときにあるように思います。
    何も心に留めてないとやはり閃きも起こらないように私は感じてます。
    あと探求することを楽しめている時は、次々と色々なことが閃くように思います。
    探求してわからないから、焦ってしまったり、閉塞感を持ってしまったり、絶望してしまったり、何を信じればいいか分からなく混乱してしまったり、そういう精神状態じゃなくてわからないから探求が終わりにならないで何時までも続くから良いじゃないかというようなプラスの精神状態でゆったり楽しめていると探求が病みつきになってくるように思います。
    哲学者ってだから、未知の世界を知りたいと考える魔力に憑かれてしまっている人達じゃないかなと。
    自分も少しそうなりつつあります(笑)

引用返信/返信 削除キー/

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