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■8136 / inTopicNo.61)  Re[29]: フィロソフィア
  
□投稿者/ pipit -(2020/10/22(Thu) 19:56:55)
    悪魔ちゃんへ
    こんばんは〜

    批判するもなにも、まず、理解しなくちゃ、でしょう?
    理解したいなと思ってるんだけど、なかなかちゃんとわからなくて、もう諦めて自分の探究した方がいいんかなー。


    No.7944では、単純にびっくりしたんだよ。すごく正確に思えない??観察したケンペルさんがすごかったんだね!


    ところで、悪魔ちゃんとpipitの感想は違うけど、同じもの見てるのかなー



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■8134 / inTopicNo.62)  Re[28]: フィロソフィア
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/22(Thu) 19:34:34)
    >まずは一番に思うことは、悪魔ちゃんの意にかなう場所があるといいな、ということだよ。だから自由に生きてね、って思う<
    ありがと。

    ところで、pipitさま、ここ「純粋理性批判を読んでみる」で、自由に発言してる?

    カントの「粋理性批判」を批判しようとは思わない?
    あ、わたしのいう「批判」っていうのは〈鵜呑みにせずよく吟味すること〉、っていう意味でね。

    カントの『純粋理性批判』の訳本を読んだり、日本人のどこのだれべーかがそれについて解説してる本を読んで、”じゃ、ないんじゃない?”みたいのないのかしら?

    前にどこかで書いたけど、ニーチェの『善悪の彼岸』のなかにこんなのが書いてある。

    【いつでもなお無害な自己観察者がいて、「直接的確実性」が存在する、と信じている。例えば、「われ思う」だの、或いは、ショーペンハウアーの迷信だった「われは欲する」だのがそれである。いわば、ここでは認識が純粋に、赤裸々にその対象を「物自体」として把握しえられ、主観の側からも対象の側からも偽造が生じえないかのようである。しかし「直接的確実性」も、「絶対的認識」や「物自体」も、同様にそれ自身のうちに《形容矛盾》(例えば「延長ある点」など)を含んでいる。このことを私は百篇でも繰り返すが、――何とかしてついにはこれらの言葉の誘惑から解放されなくてはならないのだ!認識とは究極まで知ることだ、と民衆は信じていようとも、哲学者は自らにこう言わなければならない。「われは思う」という命題に言い表されている過程を分析すれば、私は基礎づけることが困難な、恐らくは不可能な一連の大胆な主張に到達する。――
    例えば、われは思う者である。思うところの或るものが一般になければならない。思うとは原因と考えられる一つの存在体の側での一つの活動であり作用である。一つの「われ」なるものが存在する。最後に、思うと呼ばれるものはすでに確立している。――思うとは何であるかを私は知っている。というのは、私がそれについてすでに私において決定ずみでないとしたら、いましも起こることがもしかすると「欲する」や「感じる」でないかどうかを何によって測るべきだろうか、などというような主張がそれである。ともかくも、あの「われは思う」は、私が私の現下の状態を、私が私において知る他の状態と比較して確定する、ということを前提にしているのである。このように現下の状態は他の時・所の「知識」と遡って関係づけられるから、それは私にとってとにかく直接的な確実性をもたない。――このようにして、民衆が与えられた場合に信じるかもしれないあの、「直接的確実性」の代わりに、哲学者は一連の形而上学的な問いを手に入れることになる。これらの問いこそはまさに知性の本来の良心的な問いであって、それは次のように問うのである。すなわち、「どこから私は思うという概念を得るのであるのか。何故に私は原因および結果を信じるのであるのか。何が私に一個のわれについて、しかも原因としての一個のわれについて、そしてついにはなお思想の原因としての一個のわれについて云々する権利を私にあたえるのであるか」と。認識の一種の直覚に訴えて、あの形而上学的な問いに直ちに答え、「われは思う、そして少なくとも真であり、現実であり、確実であることを知る」と言う者のするように、認識の一種の直覚に訴えてあの形而上学的な問いに直ちに答えようとする者、――そういう者は、今日の哲学者たちのうちでは早くも一つの微笑みと二つの疑問符とをもって迎えられるであろう。「貴君!」と哲学者は恐らく彼に仄めかすであろう、「貴君が誤っていないとも限るまい。しかし何故にまたあくまで真理がなければならないのか」と。――】

    わたし、ニーチェ嫌いだけど、ここニーチェクラブっていうところだから、抜粋して見たよ。

    あとね「引用」っていうのはその人の物語りの中でのものであって、
    >けっこうその当時にしては正確な記述に思えてびっくりしました<
    っていう感想に「引用」っていうのつかうのどうなのかしら?
    ようするに、■7944では、pipitさまは何も語っていない、って見えるんだけど。

    あ、途中なんだったら、ごめんなんだけど。






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■8129 / inTopicNo.63)  フローラさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/22(Thu) 16:42:32)
    No.8120

    フローラさん、お久しぶりです、こんにちは(^○^)

    > 、殆どの記載は1690−1692年まで日本に滞在したエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』からの写しです。<

    教えていただいて、ありがとうございます!
    しかもかわいい写真つき。柿、Kakiの文字がかわいいなぁと思いました。

    そうかぁ、感想も含め、ほぼ書き写しなのですね。
    言われてみれば、実際に行ってないところの知識なのだから、そりゃそうですよね。
    カントは自国から出たことがないと読んだことがあるので、全部書物や伝え聞き(住んでるところが港町だったそうです)の知識なのでしょうね。
    『自然地理学』の講義は、学生以外の一般聴衆にも公開されてたようで、カントも受講生も共に楽しい時間だったんじゃないかなー、とか、
    今の時代だったら、カントは喜んでいろんな国に行ったのかなー、それとも出不精だったかなーとか想像してます。

    それにしてもケンペルさんの観察力すごいですね!!正確な情報がヨーロッパに伝わってたんだなと、びっくりします。

    人間の能力はすごいですね。

    フローラさん、ご指摘いただいてありがとうございます(o^^o)


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■8120 / inTopicNo.64)  Re[26]: 引用続き
□投稿者/ flora -(2020/10/22(Thu) 02:48:48)
    pipitさん, お久しぶりです、こんにちは

    No7944に返信(pipitさんの記事)
    > カントの日本についての文章の引用の続きです。
    > 『長崎の付近になお残っている過去のキリスト教徒は、キリストの十字架象やマリアの画像を足で踏むことが毎年強制される。その良心によって果たし得ない者は、牢獄に投ぜられる。
    > 彼らは縄をはった一枚の板を使って、その上のいくつかのボタンを上下に押して、計算を行う。医学では、モグサを燃焼する灸、と鍼を刺すという、二つの治療法がある。
    > 日本は、英国ほど大きくはない。Niphonと称し、現在ヨーロッパ人には、全くそばへも近寄りがたい。彼らは毅然としており、勇敢で、政治的である」(高峰一愚訳『カント全集』第10巻「自然の形而上学」、理想社、1966年を参照した)
    > 当時、世界への日本の窓口は長崎出島だけであった。
    > カントは、オランダ商館長・医師等の報告書を読み講義に活かしたのである。』
    > p112.113より、抜粋引用終わります。
    >
    > けっこうその当時にしては正確な記述に思えてびっくりしました。

    pipitさんが#7941で

    >カントは、エンゲルベルト・ケンプル(略)の『日本誌』(略)を一番の参考書にして、鎖国中の日本のことを、詳しく紹介している。』
    (『カントの生涯』石井郁男先生、水曜社、p110.111より引用)

    と引用なされたように、殆どの記載は1690−1692年まで日本に滞在したエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』からの写しです。

    ケンペルはシーボルトの約150年ほど前に来日し、西洋に日本を紹介した人物です。 
    ですから、カントが日本に関することを書いているのであれば、実際に行ったことのない場所を記載できるはずがなく、書かれている内容はケンペルによる記載と感想だと思います。

    『日本誌』は日本語でも訳されていると思います。非常に細かく日本のことが書かれています。

    また彼は日本の植物も漢字や日本語読みそして図説入りで出版しました。

    下の図は柿です。左ページ下に記載の記載が右ページの下まで続いています。

    トピずれだったのですが、気になったので投稿いたしました。




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■8111 / inTopicNo.65)  Re[27]: フィロソフィア
□投稿者/ pipit -(2020/10/21(Wed) 22:12:23)
    悪魔ちゃんへ
    こんばんは (o^^o)

    まずは一番に思うことは、悪魔ちゃんの意にかなう場所があるといいな、ということだよ。
    だから自由に生きてね、って思う

    これが一番として、副次的に思うことを書くね。

    このニーチェクラブでメルロのトピを作ってもらって一人で学習するのも一つの選択肢としてありではないかな、と。
    何が起こるかわからないよ、メルロ好きの方が現れるかもだし。

    後は、わたしはオババでもう行く勇気と気力がないけど、てじさんが紹介してくださってたところ知ってる?
    わたしはこわそうで覗いてないけど、悪魔ちゃんにおもしろいところの可能性もあるよね。
    Twitterとかもそうだろうね。世界が広がるかもだね。

    後は、、、アートポットさんが教えてくださってた、宿題さんもメビウス閉鎖前におっしゃってた、掲示板があるよ。
    今、地下水さんと、宿題さんらしきタンチョウさんという方が、毎日仲良くケンカされてるよ。
    ほとんど人がいないかもだけどね
引用返信/返信 削除キー/
■8104 / inTopicNo.66)  Re[26]: フィロソフィア
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/21(Wed) 20:30:07)
    pipitさま、紹介してもらってここに来たんだけど、ごめんね。

    なんかここおもしろくなくなっちゃてきたみたい。
    いろいろな言を見てきたけど、ここにはデカルト、カント、ニーチェみたいな幼稚園児がいないみたい。

    ま、ここデュオニソスっていう酒乱の大人の世界を目指してるみたいだs−、ちょっと間違っちゃかも。






引用返信/返信 削除キー/
■7944 / inTopicNo.67)  Re[25]: 引用続き
□投稿者/ pipit -(2020/10/18(Sun) 09:50:44)
    カントの日本についての文章の引用の続きです。
    『長崎の付近になお残っている過去のキリスト教徒は、キリストの十字架象やマリアの画像を足で踏むことが毎年強制される。その良心によって果たし得ない者は、牢獄に投ぜられる。
    彼らは縄をはった一枚の板を使って、その上のいくつかのボタンを上下に押して、計算を行う。医学では、モグサを燃焼する灸、と鍼を刺すという、二つの治療法がある。
    日本は、英国ほど大きくはない。Niphonと称し、現在ヨーロッパ人には、全くそばへも近寄りがたい。彼らは毅然としており、勇敢で、政治的である」(高峰一愚訳『カント全集』第10巻「自然の形而上学」、理想社、1966年を参照した)
    当時、世界への日本の窓口は長崎出島だけであった。
    カントは、オランダ商館長・医師等の報告書を読み講義に活かしたのである。』
    p112.113より、抜粋引用終わります。

    けっこうその当時にしては正確な記述に思えてびっくりしました。
引用返信/返信 削除キー/
■7943 / inTopicNo.68)  Re[24]: 引用続き
□投稿者/ pipit -(2020/10/18(Sun) 09:38:44)
    引用文続き。ところどころ略します。
    『(略)それらの間を通って、狭い交通水路が互いに分割している。国土は驚くほど人口が多い。長崎から江戸へ向かう全長200ドイツ・マイルの距離に、33の城郭をもった大都市と、75の城郭のない都市と、多数の村々がある。この国は山地が非常に多く、あちこちに火山があり、その火山には荒れ狂っているものもある。また温泉や地震も多い。日本の北部はかなり寒いが、概してこの島では天候は定まらない。雨は主として6月と7月に降る。
    日本には内裏(天皇)と呼ばれ、都に住む精神的君主と、みずから公方と呼んでいる世俗的な君主、つまり二人の君主がいる。公方がいまやこの全島のカイザーにほかならない。
    長崎を除いて、一つの都も異国人には開かれていない。それも、オランダ人とシナ人にだけである。さらにそれも長崎の町全体ではなく、そこにある出島という島にすぎない。
    日本人はおおむね大きな頭、平らな鼻、小さな眼を有し、体格は小さくて、ずんぐりしている。顔の色は褐色で、髪は黒い。彼らは注意深く、誠実で、行儀が良く、勤勉で、厳格である。ダッタン人のごとく短気で、非常に頑固であり、死を恐れない。彼らは復讐をつぎつぎと継承する。
    家は独立の部屋に分かつことをせず、衝立でいくつもの数の部屋をつくることができる。(略)食事では、有毒のものを料理することまで知っている。バターとチーズは知られていない。』
    (p111.112より抜粋引用)

    まだ続きます。

引用返信/返信 削除キー/
■7941 / inTopicNo.69)  『カントの生涯』石井郁男先生著より
□投稿者/ pipit -(2020/10/18(Sun) 09:22:40)
    今、石井郁男先生の『カントの生涯』という本を読んでいます。
    その中で、カントの、その当時の中国と日本についての記述をよんだのですが、
    ネットで、中国や日本の悪口書いてる、というふうな証拠として挙げられてた文章が、一部分を切り取ったものだったことを初めて知りました。
    わたしが今回読んだ引用文も、結局は一部分だから、判断は難しいですけど、
    悪口一辺倒ではなかったのだと、ちょっとびっくりしました。

    引用文を引用します。「 」がカントの言説です。もしかしたら石井先生の意訳が入ってる可能性もありますね。いろんな、可能性はありますが、引用させていただいます。

    『カントは世界各国の生きた知識を吸収し、東洋にも目を注いだ。
    「中国はヨーロッパ全体と同じ人口で、世界で最も高い文化国である。
    民族の特徴は、非常に落ち着いた本性の持ち主である。
    欺くのが非常に巧みである。
    シナでは、犬・猫・蛇に至るまで、すべてが食用にされる」
    カントは、エンゲルベルト・ケンプル(略)の『日本誌』(略)を一番の参考書にして、鎖国中の日本のことを、詳しく紹介している。』
    (『カントの生涯』石井郁男先生、水曜社、p110.111より引用)

    とりあえずここまでを投稿します。
    日本の記述、めっちゃ長い〜

    けど、興味深いので、引用つづけようかと思ってます。

引用返信/返信 削除キー/
■7852 / inTopicNo.70)  Re[22]: 「それ」と”それ”
□投稿者/ pipit -(2020/10/16(Fri) 20:57:53)
    教えてくれてありがとう。

    No7850に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >悪魔ちゃんは、「それ」と“それ”をともに、悪魔ちゃんがセットで構成してるってこと?それとも、構成してるのは“それ”だけ?どっちなのかな?<
    >
    > pipitさま、
    > 〈構成してるのは“それ”だけ〉のほうよ。
    >
    > 〈構成しているのは〉っていうより、「構成できるのは」っていうのがこのばあい正確な表現。
引用返信/返信 削除キー/
■7850 / inTopicNo.71)  Re[21]: 「それ」と”それ”
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/16(Fri) 20:52:31)
    >悪魔ちゃんは、「それ」と“それ”をともに、悪魔ちゃんがセットで構成してるってこと?それとも、構成してるのは“それ”だけ?どっちなのかな?<

    pipitさま、
    〈構成してるのは“それ”だけ〉のほうよ。

    〈構成しているのは〉っていうより、「構成できるのは」っていうのがこのばあい正確な表現。
引用返信/返信 削除キー/
■7823 / inTopicNo.72)  Re[20]: カントのコペルニクス的転回
□投稿者/ pipit -(2020/10/15(Thu) 19:36:00)
    悪魔ちゃん、長い引用ありがとう。
    めちゃ沁みるよ〜。
    悪魔ちゃんの言ってることも、ようやく、わかるかも、だよ、本当ありがとう。

    No7820
    > pipitさま、なんかあなた
    > >わたしは中学くらいのときから、わたし、ほんとはいま、脳みそだけやったらどうしよう、って、時々だけど考えてた。<
    > って考えてたことじたい、わたしから見たら変わってる。こういうの嫌いじゃなないから、わたしの書いちゃうと、脳みそは身体なの。<

    ほんまやね〜(脳みそは身体やね〜)
    小学校か中学校の時に読んだ小説が、そういう設定でね。
    そういう疑念がその時から心に入っちゃったんだね。


    > ところでpipitさまは身体を物質って見てます?<

    うん。物質があるとするなら、この身体は、物質と思ってる。
    ちょっと性質はややこしい気もするけど。


    > ■7788でわたしが思っていたのは、
    >
    > 対象=object=客観。「象」「観」ともに私のうちにあるもの(現れているもの)ってしちゃてる、っていうこと。
    >
    > だったのかも。おかげで簡潔に言表できたかな?<


    わたしも同じ、って言いたくなるけど、誤解してる可能性もあるから、先をもう一度読んでみるね。


    > そこでね、私の外にあるものを「それ」って表し、「それ」が私の内に現れているもの(対象)を“それ”って表して区別して見ますね。たとえば「箸」と”箸“ね。わたしのいう〈箸そのもの〉っていうのが「箸」のことね。<

    うん。


    > 「それ」と“それ”が一致(イコールないし近似)すること、のように見るんじゃなくて、
    > わたしは私のうちで「それ」を“それ”として構成している、って見てるっていうこと。
    > これ、カントのからよ。<

    あのね、「それ」も悪魔ちゃんが構成してるってこと?
    わたしのカント理解だと、「それ」も“それ”も両方構成してると思ってるんだ。
    今ここでは、わたしにはカントのことはどうでもいい(!)くて、悪魔ちゃんの見解を理解したくて、だから、カントのことは気にしないんだけど、

    悪魔ちゃんは、「それ」と“それ”をともに、悪魔ちゃんがセットで構成してるってこと?
    それとも、構成してるのは“それ”だけ?
    どっちなのかな?


    > わたしが読んだ『カント』(小牧治著)のなかに「コペルニクス的転回」という題で、
    >
    > 〔‥‥いっぱんに「自然の真理」を把握するというのは、何かわれわれの外に、われわれから独立して存在している対象を、あるがままにうつし取った場合と考えられている。自然の対象の姿を、あるがままに「表象」できた場合だと考えられている。この一致(対象の姿と表象との一致)が真理であるとしたとき、いったい、その一致をどうして調べることができるのか、何をもってして一致しているとみなすのか、対象は向こう側、表象はこちら側、だれが両者を比較して、その一致を判定するのか。・・・。そこで、「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っているのではないだろうか。また、「自然の対象の姿を捉えるという場合」、それは、「経験による」ほかないだろう。しかし、経験は、カントが問題にする先天的総合判断(普遍的・必然的な真理)を与えることはできない。そこで、カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。「我々の側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」
    > 「先天的」(ア・プリオリ)な枠とうのは、生まれながらにある枠という意味ではない。経験的な素材を受け入れてまとめ上げていく(総合してゆく)形式、型、枠、能力である。したがって、自分自身は経験的なものではなく、しかも経験があるかぎり、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先天的な形式によって、構成された対象である以上、それに関し、普遍的・必然的な知識、すなわち真理をもちうることは、あきらかであろう。しかもそれがつくられた対象についての判断であるかぎり、たんなる概念の分析ではない、総合的な判断であることができよう。
    > 「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが、外のものを正しく描写することに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの形式(先天的な)によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。
    > みずからの能力による自発的な構成であるかぎり、その構成は、主観的であるといえよう。しかし、経験や対象が存在するかぎり、いつでもその形式的な総合が作用していなくてはならないとするならば、それは同時に客観的である。こういう、われわれの自発性によって、自然の対象や経験が可能になり、そこでのいろいろの法則が把握され、先天的総合判断が成されうるのである。
    > いま、眼前にある机は、われわれに見られ、感じられ、触れられる数々の所与をもとにして、われわれがまとめあげて、机として確認している対象である。われわれにとって捉えられた机という姿であり現象である。したがって、それは、机そのものの姿ではない。われわれに与えられる素材がどこからくるのか、その素材がくる源泉はどういうものなのか、いわば机そのものはどういうものなのか、机の本質というべきものは何であるのか・・・それらは、われわれ人間にはわらない。それは、われわれ人間の知的能力(科学的な知的能力)のおよびえぬところなのである。われわれの知的能力のおよび得る範囲は、さきの、経験的世界についてだけである。したがって、その世界を超えて考えることはできない。この世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても真理であることはできない。かつての形而上学は、こういう独断をおかしていたのではないだろうか、とカントは批判した。〕(a)
    >
    > って、あった。
    > おそらくpipitさまはこのへんを知っているから、
    > >悪魔ちゃんの内側に出来てる箸の象と、悪魔ちゃんの外にある箸そのものが、イコール?近似?であるとする悪魔ちゃんの根拠はなに?なの。<
    > ってなったのかな? ちがったらごめんね。<

    うん、カントの影響ももちろんあるけど、
    カントの言説が私に届いてないところでの、弱虫のわたしから出た質問なんだよ。

    カントは、考えても仕方ないし、わからないし、構成してるものが対象であることしか確かでない、みたいなかんじだけど、
    わたしの弱虫の部分が、カントの言説を無視して、悪魔ちゃんに質問したの。

    『見てるもの、と、見てるもの自体の一致は、どうすればわかるの?』

    カントに否定されたこと、悪魔ちゃんに、聞いてしまってる。

    ごめん、また、混乱のまま書いてるから、わけらないところはスルーしてほしいm(_ _)m


    > わたし、カントのこのような見方もしようとしているよ。
    > この文の中に〔対象は向こう側、表象はこちら側、〕ってある。一般に「対象」っていうのは〈私の外にあるもの〉っていう感じなんだろうけど、〔「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」〕ってあるように、カントは「対象」っていうのを私のうちに入れちゃったんじゃないかって、わたしには思われたのね。
    >
    > こんな感じ。だから、わたしのは、
    > >箸のイメージが出たこと=箸そのものがあること、ここから出発するということ?<
    > っていうんじゃないと思ってる。<

    ありがとう。
    悪魔ちゃんは、すごく、カント的な見方をしてたんだね。
    わかって嬉しいよ。普通、こんなややこしいこと、わかりあえないよね、と、思っちゃうよ。

    中ちゃん先生が、こういう言葉書いてるよ。
    、、、と、探したけど、お目当の記憶にあった文章見つけられない代わりに、こんなのみつけたよ!

    カントの文章の中ちゃん先生訳↓
    『これに反して、超越論的観念論者は経験的実在論者でありうるし、したがってまたいわゆる二元論者〈Dualist〉でもありうる。
    言いかえれば、彼はまったく自己意識の外に出ることなく、また私のうちにある表象の確実性、すなわち「私は思惟する、よって私は存在する」以上のあるものを想定することなしに、物質の実在を承認することができる。(下、194〜195)』
    (『カントの読み方』中島義道先生、ちくま新書、p116.117)

    次に、中島義道先生の解説
    『(略)、カントは超越論的観念論者も、観念=表象一元論者に見えてじつのところ二元論者だと主張したいのでしょう。
    つまり、すべては観念=表象なのですが、その「うち」で、さらに外的現象と内的現象とを区別できるのだと言いたいのです。(略)』同本p117



    > (a)のところについてはほかにもいろいろ考えてみたことあるけど、やめとく。
    > なんか長くなっちゃ、ごめんね。<

    めっちゃ誤解してたらごめんね。

    ちゃんと話しに、つきあってくれて、とても嬉しい。ありがとう。
    引用おつかれさま。
引用返信/返信 削除キー/

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