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■7998 / inTopicNo.73)  Re[21]: キルケゴール『死に至る病』
  
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/10/18(Sun) 21:42:34)
    ななしさん、お付き合い致しますよ。

    反論させていただきます。

    私は絶望経験者です。
    絶望は「原色」と言うイメージがあるのですが、
    ななしさんにとって絶望はどうのようなイメージなのでしょうか?

    私は誘導尋問をしませんので、意見をお聞かせください。
引用返信/返信 削除キー/
■7996 / inTopicNo.74)  キルケゴール『死に至る病』
□投稿者/ ななし -(2020/10/18(Sun) 21:08:18)
    絶望とは、神の国(divinity)無限と世俗(secularity)有限の関係に対する自己の不協和(死に至る病)

    @ 絶望に気づいてない。自己の構造を知らない。 → 非本来的な絶望(末人)
    現代人は、ニーチェのいう「おしまいの人間」創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになりつつある。

    A 絶望して自己自身であろうとしない→ こんな自分は嫌だ耐えられない!
      → (美容整形・学歴詐称)

    B 絶望して自己自身であろうとする→ 他者を否定して反抗的に自尊心を保つ、
      捻くれた絶望。他者という認識が必要。→ ニーチェのルサンチマンに通じる

    〇死に至る病 → 絶望。果てしの無い苦しみを味わうこと。死より恐ろしい。
    「この病は、死さえもが、死に至らない」

    → ラザロの復活の逸話のように肉体の死は問題にはされない。

    「絶望は死に至る病である」

    〇 自殺をして死ぬことができない希望のなさ。死を死ぬ。永遠に死ぬ。

    〇 絶望は生と表裏一体であり、アンビバレントな感情を生じさせる。

    〇 希望(なりたい自己像)があるから絶望する。

    〇 状況そのものではなく「耐えられない状況にいる自己自身」に絶望している。

    〇 絶望して自己自身であろうとする → 自己自身に関して誤認識がある。

      → なろうとしている自己は実は自己自身ではない
      → 自己自身から逃れようとしている

    〇 人間は一瞬一瞬に選択し自己を措定している。
      しかし、死に至る病は永遠である(絶望は継続する)。
引用返信/返信 削除キー/
■7990 / inTopicNo.75)  Re[19]: 語りえぬもの
□投稿者/ ななし -(2020/10/18(Sun) 20:28:12)
    普通ゲーム、たとえばオセロやテニス、トランプ、野球は、ルールによってゲームの道具、人数、勝敗の有無、場所など、それぞれ多くの要素があるものの、一貫した共通の性質はなく、非常に幅広くゆるやかなくくりです。

    それぞれのゲームが、類似しあい、あるいは異なっているなかでゲームと名付けられています。

    そして、われわれの日常の「言語ゲーム」もまた同様のものだとウィトゲンシュタインは示し、この言葉の広さを家族間が大まかに似ていることになぞらえ、相互の関係で緩やかにくくられた集合体のことを「家族的類似」と呼びました。
引用返信/返信 削除キー/
■7987 / inTopicNo.76)  Re[18]: 語りえぬもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/18(Sun) 20:18:17)
    ふと思ったんだけど
    「ゲーム」ってなあに?
引用返信/返信 削除キー/
■7983 / inTopicNo.77)  Re[17]: 語りえぬもの
□投稿者/ ななし -(2020/10/18(Sun) 20:06:37)
    > 柱の角に足の指をぶつけとき、「アッ!」って発声する。この「アッ!」は声に出して言う人と、内だけのものもあるけど、いずれにしても第一声は「アッ!」じゃない?
    > これって、わたしだけ?

    発声している時点で、言語ゲームなのかなと思います。

    周りの人は、それを聞いて、「大丈夫なのか」とか、いろいろその「場」で
    リアクションをしてくると思います。

    Language Gameのプレーヤーとして。
引用返信/返信 削除キー/
■7982 / inTopicNo.78)  Re[16]: 語りえぬもの
□投稿者/ ななし -(2020/10/18(Sun) 20:00:26)
    悪魔ちゃん、こんばんは。

    永井先生も書いているのですが、「語りえぬもの」というのは、2種類あり、

    一つは、「超越論的(先験的)」な論理形式や生活形式など自分の認識を介して世界と一般的に関係するため「語りえぬもの」です。

    もう一つは、倫理、宗教、形而上学、独我論等そもそも世界を超えているという 意味で「超越的」なものです。

    そして、後者が、パニチェさんも書かれていたように、一貫して「語りえぬもの」ということです。

    > 独我論や「語りえぬもの」は前期と後期を通したものであり、その違いは言語論において写像理論から言語ゲームへと展開したことです。

    No7978に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しちゃうよ
    >
    > 『論理哲学論考』の7
    > 【語りえぬものについては、沈黙せねばならない。】
    >
    > 論理哲学論考では、語りえぬもの(論できなこと)が存在する、っていうこと認め、それにつては黙るしかない、っていうことみたいね。
    >
    > じゃ、論理哲学における論による考では〈語ることができないもの〉ってなんなのかしらね。
    >
    > ニーチェクラブで現象学について物語ることでは話しあうことできなくてあきらめてるからほかの仕方で書こうとしてる。
    >
    > 柱の角に足の指をぶつけとき、「アッ!」って発声する。この「アッ!」は声に出して言う人と、内だけのものもあるけど、いずれにしても第一声は「アッ!」じゃない?
    > これって、わたしだけ?
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7978 / inTopicNo.79)  Re[15]: 語りえぬもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/18(Sun) 18:54:47)
    お邪魔しちゃうよ

    『論理哲学論考』の7
    【語りえぬものについては、沈黙せねばならない。】

    論理哲学論考では、語りえぬもの(論できなこと)が存在する、っていうこと認め、それにつては黙るしかない、っていうことみたいね。

    じゃ、論理哲学における論による考では〈語ることができないもの〉ってなんなのかしらね。

    ニーチェクラブで現象学について物語ることでは話しあうことできなくてあきらめてるからほかの仕方で書こうとしてる。

    柱の角に足の指をぶつけとき、「アッ!」って発声する。この「アッ!」は声に出して言う人と、内だけのものもあるけど、いずれにしても第一声は「アッ!」じゃない?
    これって、わたしだけ?


引用返信/返信 削除キー/
■7953 / inTopicNo.80)  Language Game
□投稿者/ ななし -(2020/10/18(Sun) 11:27:43)
    パニチェさん、興味深いレスありがとうございました。

    『論考』では、世界は「私」が経験できる限りの世界であり、他人の存在しないような世界でしたが『探究』では、他者は言語ゲームのプレイヤーであり、他者のもつ感覚、なかでも痛みを問題としています。

    『論考』の観点では、他人の感覚、たとえば痛みを理解することはできす直接に経験できないし、検証することもできない。

    したがって他人の痛みにについての命題には真偽が存在せず、問答無用にナンセンスとなりますが、言語ゲームのうちでは、経験の共通性がある限りで、直示的定義は可能となり痛みもまた同様となります。


    『探究』では、『論考』の「写像説」のかわりに、振る舞い一致図式を示し『論考』では、論理形式の同型性が一致を支えていたのに対し、『探究』では、経験の同型性が言語ゲームにおける一致を支えているようです。

    「241. [ある人が言う。] 「すると君は、何が正しくて何が誤っているかは、人間同士の一致が決定すると言うのか?」 ―― [ウィトゲンシュタインが言う。] 正しかったり誤っていたりするのは、人間が言うことである。そして人間は言語において一致する。それは意見の一致ではなく、生活形式の一致である。」

    このように、他者と経験が厳密に一致することは無くそれぞれの言語ゲームに応じて、経験は異なったものとなります。

    それは、「生活形式」を共有しており、振る舞いの一致が見られるなら、そこに共通の理解が成立しているのだと。

    つまり、「生活形式」の共通性に言語ゲームにおける一致の根拠を置くことにより、『探究』では『論考』の言語観を拡張したと言うことができるかなと思います。

    そして、痛みもLanguage Gameの言語使用においてのみ示されることになるということでしょうか。

    「315. 痛みを全く感じたことのない人が、「痛み」という語を理解できるだろうか? ―― それが可能か否かは、経験が教えるべきことなのか? ―― そしてもし私たちが「痛みを一度も感じたことがなければ、痛みを想像することはできない」と言うとき ―― 私たちはそれをどうやって知るのか? どうすればそれが真であることを判断できるのか?」

    「384. 「痛み」という概念を、君は言語を学ぶとともに学んだ。」
引用返信/返信 削除キー/
■7942 / inTopicNo.81)  Re[13]: ハエとり壺
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/18(Sun) 09:23:47)
    knowing itselfさん、ななしさん、おはようございます、レスありがとうございました。
    以下はウィトゲンシュタインの後期に関してのカキコですが返信はお気遣いなく♪

    ウィトゲンシュタインが後期において独我論を破棄したという見解は次のような理屈だろう。
    前期の言語論である写像理論から他我を前提とした言語ゲームへ変更あるいは発展させたことをもって独我論を破棄したということ。

    一部の学者が主張するように言語ゲームを示した探究において独我論を破棄しているなら、何故420から始まるオートマン〔自動機械〕の議論が展開されるのか?

    そのことだけでも後期においてもウィトゲンシュタインは独我論を破棄していないのは明確で、結論から言えばウィトゲンシュタインの独我論を〈独我論〉(独在論)と読解できていないための誤読ではないか。

    以下の探究398でも独我論ではなく、言語ゲームにかからない独在論であることを指し示している。

    『398. 「でも、何かを想像したり、あるいは実際に対象を見ているとき、わたくしは隣人の感じていない何かを感じている。」 ―― あなたの言うことは分かる。あなたは自分のまわりを見渡して、「わたしだけがこれを感じている」と言いたいのだ。 ―― こうしたことばは何のためか。それは何の役にも立っていない。 ―― そこで、ひとはまたこうも言えないか、 「ここでは<見る>ことも ―― それゆえまた<〔感じを〕もつこと>も ―― そして主体も──それゆえまた自我も、話題にはなっていないのだ」と。 私はこう尋ねることができないだろうか、あなたがそれについて語っているもの、自分だけしかもっていないと言っているもの、── これをあなたはそれではどの範囲でもっているのか、と。あなたはそれを所有しているのか。あなたはそれを見ることすらないのだ。そう、あなたはそれについては、何人もそれをもっていない、と言わなくてはならないのではないか。じっさいにまた、はっきりしているのは、他人が何かをもっている、ということをあなたが論理的に排除するのであれば、あなたがそれをもっていると言うこともまた意義を失う、ということ。 ・・<中略>・・ 言い換えれば、わたくしがまさに、自分の坐っている物質的な部屋に対するのと同様、それに対しても同じ表現形式を適用したいと思っている限り、それはわたしに所属していないのである。この前者の記述は、所有者に言及する必要がないし、またたしかに所有者のいる必要もない。しかし、そのときには、この視覚上の部屋には所有者などありえないのである。 「なぜなら、その外部にも、内部にも、主人などいないからである」── とひとは言うことができよう。ひとつの風景画、幻想風景を考え、その中に家が一軒あり ―― 誰かが「この家は誰のものか」と尋ねたとせよ。 ―― これに対する答えはさらに「その前の台に腰かけている農夫のものだ」といったものでありえよう。でも、その場合、この農夫は、自分の家にたとえば足を踏み入れることができない。』


    哲学探究
    h*ttp://mickindex.sakura.ne.jp/wittgenstein/witt_pu_jp.html


    <蛇足>
    自分の持っている書籍とHPの和訳を比べて面白いことを発見!

    「自分だけしか持っていないというもの」
    「自分だけが持っているというもの」

    「持っていない」も「持っている」も「持っている」と言っているところ(笑)。

引用返信/返信 削除キー/
■7916 / inTopicNo.82)  Re[12]: ハエとり壺
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 20:07:11)
    ハエとり壺のアフォリズムには、「哲学探究」の原型がある、後期ウィトゲンシュタインの萌芽だといわれたりします。

    ハエとり壺を独我論的な世界であると同時に言語ゲームの行われる舞台であるとみることもできると思います。それを端的にあらわすのが第五図?永井さんが苦労して哲学している内容をヴィジュアルに一気にわからせてしまうイラストなのかもしれません。


引用返信/返信 削除キー/
■7915 / inTopicNo.83)  Re[11]: ハエとり壺
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 19:56:58)
    パニチェさん こんばんは。

    No7901に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/10/17(Sat) 16:31:21 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No7893に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >>ハエとり壺にも関連しますが言語ゲームと独我論の関係をknowing itselfさんはどう捉えてますか?
    > >>私はどちらかと言えばハエとり壺は他のアフォリズムにもあるように独我論的世界と捉えています。
    >
    >>ウィトゲンシュタインは前期は独我論的で、過渡期の独我論論駁をへて、後期には独我論を捨てたという見解があります。この見解あたりだと、ハエとり壺のアフォリズムは過渡期から後期への分水嶺に位置しているとなるのだと思います。永井さんはこの立場を否定しているようですね。言語ゲームという隠蔽装置の下には、なお独我論の香りが立ちこめているといっています。わたしのこのところのカキコミもそれに近いと思います。
    >
    > ********************************************
    > 以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より
    >
    > (独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)
    >
    > しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
    > ********************************************
    >
    > 上記のメモの続きに以下があります。
    >
    > 『「しかし、もし私がそのゲームをやったのなら、自分は色名ゲームをやっていたのだと言い通すだろう。」だが言うことのできるのはそれだけではないか。〔つまり〕それが色名ゲームであることを主張するために言えることはただそれを色名ゲームだと呼び通すことだけではないのか。』
    >
    > そして探究403では以下のように述べます。
    >
    > 『わたくしがこれまで「自分の痛み」と呼び、他人が「L・Wの痛み」と呼んできたものだけのために「痛み」という語を要請したとしても、ある表記法さえあらかじめ用意されていて、その中で「痛み」という語の脱落がほかの結びつきでどうにか補充されている限り、他人に対していかなる不当も働いたことにはならないだろう。他人は、それでも、その同情されたり、医師の手当てを受けたりする。もちろん、「しかし他人は、あなたの感じているものと正確に同じものを感じているのだ!」と言うことも、このような表現のしかたに対する反論にはならないであろう。しかしながら、このとき、このような新しい種類の叙述から、わたくしは何を得たのであろうか。何も〔得ていない〕。だが、独我論者は、自分の見解を弁護しているときには、実際的な利益を何も欲していないのだ!』
    >
    > knowing itselfさんが言うようにハエとり壺のアフォリズムは言語ゲームへと展開される分水嶺であるとは思いますが、後期の言語ゲームや私的言語に関する探究は独我論を前提としたものであり、私は永井さんの見解を支持します。

    わたしも同じです。

    > むしろ後期に独我論を捨てたという見解が奇異に思えますし、何をもってそのような解釈が出てくるのか不思議です。
    > おそらくウィトゲンシュタインの独我論が〈私〉を開闢点とした独我論であるという理解がないためだと思われます。
    >
    > 独我論や「語りえぬもの」は前期と後期を通したものであり、その違いは言語論において写像理論から言語ゲームへと展開したことです。

    この二行、同意します。

    > 前期、後期を通してウィトゲンシュタインは言語で語り得る範囲を示すことによって、語り得ない対象や範囲を指し示そうとしたというのがパニチェの解釈であり、その意味においてハエ取り器とは独我論的世界のことだと考えています。

    そうだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7914 / inTopicNo.84)  Re[11]: ハエとり壺
□投稿者/ ななし -(2020/10/17(Sat) 19:56:43)
    パニチェさん、こんばんは。横失礼します。

    > knowing itselfさんが言うようにハエとり壺のアフォリズムは言語ゲームへと展開される分水嶺であるとは思いますが、後期の言語ゲームや私的言語に関する探究は独我論を前提としたものであり、私は永井さんの見解を支持します。
    >
    > むしろ後期に独我論を捨てたという見解が奇異に思えますし、何をもってそのような解釈が出てくるのか不思議です。
    > おそらくウィトゲンシュタインの独我論が〈私〉を開闢点とした独我論であるという理解がないためだと思われます。
    >
    > 独我論や「語りえぬもの」は前期と後期を通したものであり、その違いは言語論において写像理論から言語ゲームへと展開したことです。
    >
    > 前期、後期を通してウィトゲンシュタインは言語で語り得る範囲を示すことによって、語り得ない対象や範囲を指し示そうとしたというのがパニチェの解釈であり、その意味においてハエ取り器とは独我論的世界のことだと考えています。

    激しく同意です。

    『独我論や「語りえぬもの」は前期と後期を通したもの』というところは、そうですね。

    その辺が、大切な視点だと思っています。


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