| パニチェさんこんばんは
>>>ヴィトゲンシュタインは史上最初に登場した確信犯である。彼は驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ。 > >>>西田は逆の確信犯だから、これまた驚くべきことに、体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ。 > >>二人はちょうど逆の意味で確信犯であるとされています。ヴィトゲンシュタインは「言葉」を独立させるのに対して、西田は「体験」を独立させる。 > > knowing itselfさんの引用で、永井さんがウィトゲンシュタインと西田を逆の意味での確信犯と解釈していることは分かりました。永井さんはウィトゲンシュタインの私的言語の考察に関して、単に私的言語の不可能性を示唆しているのではなく、私的規則の例示はできないが、私的規則の一例としての私的言語の可能性まで否定できないと主張しているようです。 > また西田が経験は言語の彼方にあるが、経験は言語内に定着しようとする傾向があるとしていることは理解できます。
> さらに〈私〉と第五図の関係もさらに明らかになるかもしれませんね。
「ヴィトゲンシュタイン入門」永井均をさっと読んでみましたが、この探究261節引用の直前に下記のように説明されています。ご存知だと思いますが。
引用開始
私的規則(その一例としての私的言語)はどこまでも可能なのである。まさにそのことの内にこそ、規則に対する実践の先在性が、つまり言語ゲームの根源性が、内側から示されているのだ。ヴィトゲンシュタインはこう言っている。同書p180
引用終
「ヴィトゲンシュタイン入門」をざっと読んだ印象では、永井的な第五図は言語ゲームを念頭に置いているようでもありますね。通説とは違う永井的に捉えた言語ゲームですが。そのようにも読めます。
|