| 琴の弦(緊緩中道) パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場する[20][要ページ番号]。彼は、過度の修行により足から血を流すほどであった[20][要ページ番号]。それを知った釈迦は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行った[20][要ページ番号]。
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」 「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」 「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」 「いいえ、そうではありません、大徳よ」 「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」 「そのとおりです、大徳よ」 「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」
—  ケン度大品 5,16-17 [20] 弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。 ‥‥ウィキより引用
中道の解釈は幾通りもあるようです。 上に引用させていただいたものは、理解しやすいし生活への応用もしやすいと思います。
八正道を実践することが中道の意味するもの、とも言われます。 八正道の実践は、なかなか難しく挫折感から「もうムリ〜」となりがちだと思うのですが、「ムリ〜」と諦め投げ出さず、弦の譬えも参考にしながら、ムリ無くしていけばいいのだと思います。
なんてね〜、これ、minori自身に言ってるようなものです。^^
ご参考までに。
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